第30話 次の聖女
その知らせは朝の鐘と一緒に来た。
大聖堂の鐘がいつもと違う鳴り方をした。弔いの鐘じゃない。祝いの鐘だ。からん、からん、と軽い音が、灰都じゅうに降ってきた。
聖女さまの葬儀から、ふた月がたっていた。
窪地の井戸端に、人が集まっていた。坂の上から、触れ役の男が下りてきて、巻紙を広げて読み上げていた。
「――大聖堂より、布告! 第九代聖女候補、決まる!」
人垣がざわめいた。
「聖女候補は、西区施療院に縁ある娘! 窪地の生まれ! 名は――」
触れ役が息を吸った。
「ネリ!」
桶が俺の手から落ちた。
水が足もとに広がった。
周りの人間が一斉にこっちを振り向いた。
「ネリって、ヴィムんとこの?」
「窪地から聖女さまが出るのか!」
「すげえ、すげえじゃねえか、ヴィム!」
誰かが背中を叩いた。誰かが手を叩いた。おかみさんが前掛けで目をぬぐっていた。
「よかったねえ、よかったねえ。あの子、ずっと咳してたのにねえ」
俺は何も聞こえていなかった。
◇
長屋の階段を、二段飛ばしで駆け上がった。
扉を開けた。
部屋は片づいていた。
ネリの寝床がきちんとたたまれていた。棚の上の、ネリの櫛と手鏡がなくなっていた。壁に掛けてあった、繕いかけの上着もなかった。
台所の机の上に、紙が一枚置いてあった。
ネリの字だった。施療院の修道女に習った、丸っこい字。
——お兄ちゃんへ。
大聖堂に行ってきます。心配しないで。咳、もう出ないから。
お兄ちゃんの影、やっぱり変だよ。ちゃんとご飯食べてね。
ネリ
それだけだった。
紙を持つ手が震えた。
「……いつだ」
隣の部屋の婆さんが、戸口から顔を出した。
「昨日の昼だよ。教会の馬車が来てね。白い、立派な馬車」
「連れていかれたのか」
「いいや」
婆さんは首を振った。
「ネリちゃん、自分で乗っていったよ。にこにこしてね。『お兄ちゃんには、あとで手紙を書きます』って」
自分で。
「なんで止めなかった」
「止める? 聖女さまになるんだよ、あの子。窪地の子が。止める理由なんかないだろう」
婆さんは不思議そうに俺を見た。
止める理由。
俺は影を見下ろした。
イーダが影の中で、じっと膝を抱えていた。一言も喋らなかった。
◇
祭りみたいな一日だった。
窪地じゅうがネリの話でもちきりだった。酒場では昼から乾杯していた。施療院の前には、花が山のように積まれた。「窪地の聖女さま」と書いた布が、路地の上に渡された。
みんな、嬉しそうだった。
窪地から聖女が出る。何百年も、なかったことだ。聖女は施療院や孤児院から選ばれることはあっても、窪地の生まれはひとりもいなかった。
窪地の人間はみんな、自分のことみたいに喜んでいた。
俺だけが喜んでいなかった。
いや、もうひとりいた。
施療院の前の花の山から少し離れたところに、腰の曲がった婆さんが立っていた。闇市のバルボ婆だ。煙管もくわえずに、花の山を眺めていた。
「婆さん」
「おや、ヴィム坊。めでたいねえ。窪地から聖女さまだとさ」
婆さんは、ちっともめでたくなさそうな声で言った。
「……めでたいのか、これ」
「めでたいさ。みんながそう言ってるんだから」
婆さんは花の山から目を離さなかった。
「窪地の子が聖女ねえ。何百年ぶりだろうね。窪地の子はしぶといから、きっと長持ちするよ」
「長持ち?」
婆さんは答えなかった。左足を引きずって、橋のほうへ帰っていった。
花の山の上に、誰かが置いた白い蝋燭が一本、昼の光の中でゆらゆら燃えていた。
夕方、屋根のない小屋に戻った。洗い台の縁に座った。
「……イーダ」
「うん」
「聖女候補って、何をするんだ」
イーダはしばらく黙っていた。
「勉強。祈りの文句を、千と二百。聖典を、全部。歩き方。座り方。笑い方」
「笑い方」
「毎日、鏡の前で練習するの。左右が同じ角度になるまで」
「……」
「食べるものは決まってる。甘いものは月に一度だけ。夜は日が沈んだらすぐ寝る。朝は日が昇る前に起きる。不満を言っちゃいけない。泣いちゃいけない。怒っちゃいけない」
聖女さまの声は平らだった。
「それを、何年も。死ぬまで」
俺は自分の手を見た。
ネリの字の紙を、まだ握っていた。くしゃくしゃになっていた。
「あの子、私と同じになるわ」
イーダが言った。
「顎の筋が、固まるまで笑わされて。九百十二件、怨みを溜めて。それで最後は――」
言いかけて、やめた。
「最後は、なんだ」
「……分からない。私は自分の最後しか知らない」
◇
夜、長屋に帰った。
ネリのいない部屋は、広かった。
床下から、ブリキの缶を出した。
ふたを開けた。底の、折りたたんだ紙切れの上に、金貨が三枚。その上に、壁守り料の銅貨が、ざらざら積もっていた。
紙切れはまだそこにあった。
ほんの一瞬だけ。
胸の奥で、何かがふっと軽くなった。
すぐに、それを踏み潰した。自分で自分の胸を、内側から踏みつけるみたいにして。
「……ヴィム?」
イーダが影の中から俺を見上げていた。
「なんでもねえ」
缶のふたを閉めた。床下に戻した。
「今、何考えてたの」
「何も」
「嘘。顔が変だった」
「嘘つくときも同じ顔だって、あんたが言ったろ」
イーダはそれ以上聞かなかった。
俺は寝床に横になった。ネリの寝床のほうを向いた。たたまれた布団が、月の光の中で白く見えた。
明日、大聖堂に行く。
ネリを連れて帰る。
そう決めた。決めてから眠れなかった。
決めたことの裏側で、さっき踏み潰したものが、まだ少しだけ、もぞもぞ動いていた。
第30話 了




