第29話 ザザ再び
西の城壁の穴はひと月たってもふさがらなかった。
石工が来ない。教会が金を出さない。窪地の人間が自分たちで石を積もうとしたら、聖堂兵が来て止めた。「壁は教会の持ち物だ。勝手に触るな」と。
だから穴は開いたままだった。
澱鬼は、三日に一度くらいの割合で入ってきた。多いときは二十。少ないときは五つ。そのたびに鐘が鳴って、俺が撃った。
壁守り料の銅貨は、月に四十枚くらい集まるようになった。窪地の人間はケチくさいと言いながら、ちゃんと払った。
その日も、鐘が鳴った。
でも、いつもの鳴り方じゃなかった。
かん、かん、かん。そのあとに、どん、どん、と太鼓の音が混じっていた。
「……太鼓?」
影の中で、イーダが顔を上げた。
「嫌な音」
◇
壁の穴の前に、天幕が張られていた。
赤と紫と金の縞模様。穴をぐるりと囲むように、見物席が組まれている。木の長椅子が三段。そこに、身なりのいい連中が座っていた。貴族。商人。着飾った女たち。
みんな、手に杯を持っていた。
見物席の前には、柵があった。柵の向こうは壁の穴だ。
穴の向こうの野から、澱鬼がふらふらと入ってくる。
柵の前で、一座の芸人たちが待ち構えていた。太った女が紫の牙で、入ってきた澱鬼の首を噛み取る。双子の少年が赤い霧で消えて、澱鬼を背後から蹴り倒す。片腕の男が倒れた澱鬼の首に管を刺して、澱を抜く。
抜いた澱を、樽に詰める。
樽の横腹に、油の雫の紋。
見物席から、拍手が起きた。杯が掲げられた。
「すごいわ、あの牙!」
「窪地の化け物退治を、こんな近くで見られるなんて」
「一席、銀貨五枚だってさ。安いもんだ」
天幕の上に、手足の長い影が立っていた。
顔の白塗りは塗り直されていた。耳まで裂けた赤い笑いも。
「さあさ、今夜の目玉! 壁の外から来たお客さま、百年ものの澱鬼だよ! 樽にしたら、いったい何本分になるかな?」
ザザだった。
窪地の住人たちが、少し離れたところで、黙ってそれを見ていた。家を壊された者。家族を喰われかけた者。
見物席の貴族たちは、窪地の住人のほうを一度も見なかった。
腹の底で、石がごとりと動いた。
「……壁の穴を、見世物にしてんのか」
「見世物にして、澱も取って、樽にして、売るのよ」
イーダの声が冷たかった。
「一回で三回儲かる。上手な商売ね」
◇
俺は柵を跳び越えた。
見物席がざわついた。
「なんだ、あの汚い子は」
「黒雷の屍洗いよ!」
「あら、あれが? 見世物の一部かしら」
天幕の上で、ザザが、にいっと笑った。
「やあ、来た来た! みなさん、ご紹介しましょう! 窪地の英雄、黒雷の屍洗いくん!」
見物席から、拍手が起きた。
俺は天幕の上をにらんだ。
「降りてこい」
「どうして?」
「壁の穴で商売すんな」
「どうして? きみだって、壁守り料取ってるんでしょ?」
ザザは首をかしげた。
「同じだよ。きみもザザも、壁の穴で食べてる。違うのはお客さんの財布の厚さだけ」
言い返せなかった。
一瞬だけ。
「……俺は澱を売ってねえ」
「売らないで、自分で飲んじゃったもんね。全部。ずるいよ、きみ」
ザザは天幕の上から飛び下りた。長い手足をくるくる回して、俺の目の前に、ふわりと着地した。
近くで見ると、白塗りの下の目が赤く充血していた。
「あの夜、ザザがいただいた鍋、ひとつ。覚えてる?」
「返せ」
「もう、半分食べちゃった」
ザザは自分の腹をぽんと叩いた。
「喰っても喰っても、減らないの。すごいよ、あれ。夜中に目が覚めると、急に『朝の祈りが長い!』って叫びたくなるの。一座のみんなに気味悪がられてる」
影の中で、イーダが歯ぎしりした。
「私の怨みを、勝手に……」
「でもね」
ザザが口を大きく開けた。
「半分でも、こんなことができるんだよ」
ザザの喉の奥で、黒いものが渦を巻いた。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――」
背中の毛が逆立った。
その詠唱はイーダのだ。
「――屍洗いくん!」
◇
黒い雷が俺に落ちてきた。
避けた。ぎりぎりで。足もとの地面が黒く焦げてえぐれた。
細い雷だった。俺の雷の半分もない。それでも、黒い。聖女さまの怨みの色だ。
「私の! 私の怨みを!」
イーダが叫んだ。影がぐらりと揺れた。
「あいつの名前を呼んで、ヴィム!」
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――ザザ!!」
俺の雷がザザに落ちた。
ザザは口を開けて喰った。半分、喰った。前の夜と同じだ。残りの半分がザザの体を叩いた。
ザザは吹き飛ばなかった。
一歩、後ろによろめいただけだった。
「喰うの、上手になったでしょ?」
ザザは口の端から黒い煙を吐いた。
「きみの雷ね、同じ味がするから、慣れてきちゃった」
ザザがまた撃った。
俺も撃った。
黒い雷と黒い雷が、壁の穴の前でぶつかった。空気が裂ける音がした。見物席の杯が全部割れた。着飾った女たちが悲鳴を上げて、長椅子から転げ落ちた。
「な、なんだ、これは!」
「見世物じゃないのか!」
「逃げろ!」
貴族たちが我先に見物席から逃げていった。高い靴で転んで、泥だらけになって。窪地の住人たちが、それを黙って見送った。
誰も、手を貸さなかった。
◇
十発撃ち合った。
決着がつかなかった。
俺の雷はザザが半分喰う。ザザの雷は細くて、俺には避けられる。互いに、決め手がなかった。
ザザが先に手を下ろした。
「あーあ。お客さん、みんな帰っちゃった」
空っぽの見物席を見回して、肩をすくめた。
「今夜は赤字だよ。きみのせいで」
「もう来るな」
「来るよ。壁の穴がある限り」
ザザは指を鳴らした。一座の芸人たちが、樽を馬車に積み始めた。
ザザは背を向けかけて、ふと振り返った。
「そうそう。きみのこと、うちの大事なお得意さまが、とっても気にしてた」
「……お得意さま?」
「樽を買ってくれる人。いちばんたくさん買ってくれる人」
ザザはにいっと笑った。
「聖油商会によろしく。ラザールさんに」
赤い霧が湧いた。一座が馬車ごと消えた。
壁の穴の前に、焦げた地面と、割れた杯と、空っぽの見物席だけが残った。
ラザール。
聖油商会の、主の名前。
影の中で、イーダが震えていた。怒りで。
「ヴィム」
「なんだ」
「怨み帳の、四十件目あたり。見て」
俺は帳面を開いた。
四十一、聖油商会のラザールが、私の顔を勝手に油瓶に刷った。
「……これも、しょうもねえな」
「しょうもなくない」
イーダの声は今までにないくらい低かった。
「あの顔が刷られた瓶に、窪地の死体の澱が詰まってるのよ」
第29話 了




