第28話 手を打つ指揮者
三、聖歌隊の指揮者オーバンが、一音外すたびに私の手を打った。
「手を?」
「手の甲。細い棒で。ぴしっ、て」
イーダは影の中で、自分の左手の甲をさすった。
「聖女は、毎週のミサで歌うの。聖歌隊と一緒に。私、歌が下手だったの。すごく」
「へえ」
「笑ったでしょ、今」
「笑ってねえ」
「一音外すと、ぴしっ。二音外すと、ぴしっぴしっ。ミサが終わるころには、手の甲が真っ赤。でも、手袋で隠すの。民に見せちゃいけないから」
「……それで、しょうもな、とは言えねえな」
「でしょ?」
イーダは鼻を鳴らした。
「それにね。私が聖女になってからは、私の手は打たなくなったの。聖女を打つのはさすがにまずいって。代わりに――」
聖女さまは言いかけて、口をつぐんだ。
「代わりに?」
「見れば分かるわ」
◇
その週の終わりに、窪地の辻歌いが死んだ。
ロジーヌ婆さん。坂の途中の角に毎日座って、ひび割れた声で古い歌を歌っていた。投げ銭の皿には、いつも銅貨が二、三枚しか入っていなかった。
顔を拭いて、名前を呼んだ。
「ロジーヌさん。洗います」
管を刺した。
緑の澱が出てきた。
濃い緑だった。ぎらぎらしていた。
指先に一滴取って、舐めた。
喉の奥がちくりと痛んだ。
流れこんできたのは、大聖堂の尖塔を見上げる目だった。毎週のミサの日、窪地の角から、坂の上の大聖堂を見上げる。風に乗って、聖歌隊の歌声がかすかに降ってくる。白い衣の子どもたちが、声を合わせて。
羨ましい。
羨ましい。羨ましい。私のほうが上手いのに。子どものころ、私のほうが上手かったのに。聖歌隊の試しの日、指揮者は私の服を見て、「窪地の子は歌わなくていい」と言った。
六十年、羨ましかった。
「……妬みね」
イーダが影の中で言った。
「すごく、いい妬み」
◇
ミサの日、俺は大聖堂に行った。
鑑札を首から下げていれば、民の席のいちばん後ろには入れる。石の長椅子が何十列も並んだ、天井の高い大広間。ステンドグラスから色のついた光が落ちて、床に模様を描いている。
正面の祭壇の横に、聖歌隊が並んでいた。
白い衣の少年たち。十歳から十四歳くらい。二十人ほど。
その前に、細身の男が立っていた。黒い法衣。薄い口ひげ。手に、細い銀の棒を持っている。
指揮者オーバンだ。
祭壇の上には、大司教グラウスが座っていた。疲れた顔で、目を半分閉じている。
歌が始まった。
きれいな歌だった。少年たちの高い声が、天井に響いて、降ってくる。民の席のあちこちで、目を閉じて聞き入っている者がいた。
途中で、ひとりの少年の声がわずかに裏返った。
いちばん端の、いちばん小さな子だった。
指揮者は歌を止めなかった。
ただ、振っていた棒の先をほんの一瞬、その子の手の甲に下ろした。
ぴしっ。
小さな音だった。歌声にかき消されて、民の席までは届かない。
少年の顔が歪んだ。でも、歌い続けた。
俺には、聞こえた。
「……あれか」
「あれよ」
イーダの声が低かった。
「私の代わりに、あの子たちが打たれてるの。私が聖女になってからずっと」
少年たちの手を見た。
みんな、白い手袋をしていた。
ミサの途中で、手袋をしている聖歌隊。夏なのに。
◇
歌が終わって、指揮者がひとりで前に出た。
独唱の時間だ。指揮者は胸を張って、朗々と歌い始めた。
上手かった。腹の立つことに、とても上手かった。
俺はロジーヌ婆さんの緑の澱を一滴舐めた。
喉が熱くなった。
羨ましい。あの声が。あの広い胸が。ここで歌える身分が。
「ヴェザ・ルゥ・ガラン・ド」
小さく唱えた。
緑の炎が俺の喉の奥で燃えた。外には出ない。炎は祭壇の前で歌う指揮者の声をなめるように焼いた。
焼いて、写した。
指揮者の声の高さ。息の長さ。響かせ方。全部が緑の炎に乗って、俺の喉に流れこんできた。
俺は立ち上がった。
そして、歌った。
指揮者と同じ歌を。民の席のいちばん後ろから。
声が出た。
自分の喉から出ているとは思えない声だった。高くて、澄んでいて、太い。天井のいちばん高いところまで届いて、跳ね返って、大広間じゅうに降り注いだ。
民の席の全員が振り返った。
祭壇の前で、指揮者の歌が止まった。口を開けたまま、俺を見ていた。
俺は歌い続けた。
指揮者より上手かった。指揮者の技に、ロジーヌ婆さんの六十年の悔しさが乗っていた。窪地の角で、ひび割れるまで歌い続けた喉の、全部が。
歌い終わった。
大広間がしんとした。
それから、民の席のどこかで、ひとりが手を叩いた。
指揮者の顔が真っ赤になった。
「な、何者だ、貴様は! ミサの最中に――」
俺は首の鑑札を持ち上げてみせた。
「澱術師だ。上級の」
それから、ポケットの白い小瓶を開けた。サイラスじいさんの、残りの澱だ。
「ティ・リ・フェス・エ・トゥ」
白い鏡が聖歌隊の前に浮かんだ。
鏡に映ったのは少年たちの手だった。
白い手袋の、下。
手の甲が赤かった。青かった。黒ずんでいた。古い痣の上に、新しい痣が重なっていた。いちばん端の小さな子の手には、さっきの一打ちの、真っ赤な筋が浮かんでいた。
それから鏡は指揮者の銀の棒を映した。
棒の中に、鉄の芯が入っていた。
大広間が凍りついた。
◇
指揮者は何か叫ぼうとした。
その前に、祭壇の上から声がした。
「オーバン」
大司教グラウスが、目を開けていた。
疲れた顔だった。怒ってもいなかった。ただ、白い鏡に映った少年たちの手をじっと見ていた。
「今日かぎりだ。聖歌隊を離れなさい」
「だ、大司教さま、これは、その、指導の――」
「今日かぎりだ」
大司教は同じ言葉を同じ静かさで繰り返した。
指揮者の手から、銀の棒が落ちた。石の床で、かん、と鳴った。
大司教の目が民の席のいちばん後ろに向いた。
俺のほうに。
しばらく見ていた。何も言わなかった。
それから、目を閉じた。
◇
大聖堂を出てから一刻、俺は妬みの酔いに苦しんだ。
広場を歩く貴族の靴が羨ましかった。パン屋の窓のパンが羨ましかった。鳩が羨ましかった。空を飛べるから。
「あいつ、羨ましい」
「誰?」
「さっきの、端っこのガキ」
「どうして?」
「手、打たれても、泣かずに歌ってた」
イーダは影の中で黙った。
それから、小さく言った。
「私も、あの子が羨ましい」
「なんで」
「今日、打たれたのが最後だって、あの子は知らないけど。私は最後まで知らなかったから」
夜、帳面の三件目が、灰色になっていた。
死人帳のロジーヌ婆さんの欄に、俺は書き足した。
緑。妬み。大聖堂で、いちばん上手く歌った。
第28話 了




