第23話 感謝は燃えない
壁が割れた翌日から、小屋の前に行列ができた。
窪地の人間が入れ代わり立ち代わりやってきた。手に何かを持って。
「ヴィム、ありがとうね。これ、うちの畑の芋」
「兄ちゃん、ありがと! これ、拾った石! きれいなやつ!」
「昨日は助かった。これ、うちのかかあが焼いたパンだ。固いけど」
芋。石。固いパン。干した魚が一匹。欠けた皿。誰かの死んだ爺さんの古い帽子。
屋根のない小屋の中に、貢ぎ物の山ができた。
俺はその山の前に座って、頭を抱えていた。
「……金じゃねえ」
「感謝よ」
影の中で、イーダが言った。
「感謝で腹は膨れねえ」
「芋は膨れるでしょ」
「芋一個で、壁は直らねえ」
小屋の外ではまた誰かが並んでいた。俺は立ち上がって、行列の先頭の男に言った。
「芋はいらねえ。銅貨にしてくれ」
男がきょとんとした。
「銅貨?」
「壁守り料だ。一家で月に銅貨三枚。払えねえなら二枚。一枚でもいい」
行列がざわついた。
「金取るのかよ」
「昨日はタダで守ってくれたじゃねえか」
「昨日は昨日だ。昨日で、俺の腹はからっぽになった。からっぽじゃ、次は撃てねえ」
嘘ではなかった。
ゆうべ撃った分の疲れが、まだ抜けていない。腹の底の石は減っていないのに、体のほうが先にへばる。飯を食わないと、次は膝が持たない。
それに、師匠のツケを払って、俺の金はもうほとんど残っていない。
行列の後ろのほうで、誰かが言った。
「……ケチくせえな、ヴィムは」
「昔からだよ」
「ティボーのじいさんの林檎、盗んでたもんな」
笑いが起きた。
それから、ひとり、またひとりと、懐をさぐり始めた。銅貨が俺の手のひらに一枚ずつ載っていった。一枚の家もあった。三枚の家もあった。払わずに帰っていった家もあった。
払わずに帰っていった家の爺さんは、夕方になって、戸口に芋を三つ置いていった。
日が暮れてから、集まった銅貨を数えた。
三十八枚。
洗い台の上に並べて、山を分けた。
十枚は、ネリの咳止めの分。伯爵家から持ち出した瓶は、もう残り少ない。
十枚は、飯の分。
五枚は、小屋の屋根の分。屋根がないと、雨の日に死体が洗えない。
五枚は、師匠の墓の草むしりの鎌の分。墓守との約束だ。
残りの八枚を見て、少し考えた。
「……それ、どうするの」
影の中で、イーダが聞いた。
「貯める」
「何のために」
「知らねえ」
八枚を、別の布にくるんで、懐にしまった。
イーダは、それ以上聞かなかった。
◇
日が傾くころ、見慣れない男が来た。
窪地の人間じゃなかった。仕立てのいい上着。磨いた靴。商人の使いだ。手巾で鼻を押さえている。
「黒雷の屍洗いさま、ですね」
「さまはいらねえ」
「私の主人が、あなたに仕事を頼みたいと申しております」
男は懐から革袋を出した。ずしりと重そうだった。
「東の商人街の、ある店の主人です。私の主人の商売の邪魔をしておりまして。その店の屋根に、一発。黒い雷を。人は殺さずに、店だけ」
男は革袋を、俺の前の台に置いた。
「前金で金貨十枚。終われば、あと十枚」
金貨二十枚。
俺は革袋を見た。
手が伸びかけた。
「で、いく――」
「だめ」
影の中から、イーダが言った。
「私の澱は、私の怨みにしか使わせない」
「……」
「知らない商人の店に落とすくらいなら、あんたの中で腐らせる」
聖女さまの声は本気だった。
影がほんの少し濃くなった気がした。腹の底の石がずしりと重くなった。
俺は伸ばしかけた手を引っこめた。
使いの男が首をかしげた。
「いかがなさいました?」
「……断る」
「は?」
「断るって言ってんだよ」
男は信じられないという顔をした。
「金貨二十枚ですよ?」
「知ってる」
「窪地の人間が、一生かかっても――」
「知ってるって言ってんだろ! 帰れ!」
澱酔いはほんの少しも起きていなかった。ただ、腹が立った。自分に。
使いの男は革袋をつかんで、逃げるように坂を上っていった。
俺は台の上に突っ伏した。
「……金貨二十枚」
「断ってくれて、ありがと」
「礼はいらねえ」
「感謝は燃えないもんね」
「腹も膨れねえ!」
◇
夜、ランプの下で帳面を開いた。
イーダの怨み帳じゃない。俺の帳面だ。
古い帳簿の裏紙を束ねて、紐で綴じただけの、汚い帳面。師匠が死ぬ前から、ずっとつけている。
洗った死体の名前を書いている。
日付。名前。どこで死んだか。澱の色。
ペールじいさん。フロリアンさん。鍛冶屋のマーヤ婆さん。ドゥーゴ。ティボー。
昨日の夜、壁の穴の前で拭いた澱鬼たちの欄は、全部、名前が空白だった。
名無し。名無し。名無し。四十三人ぶん。
「……あんたも帳面つけてるのね」
イーダが影の中からのぞきこんでいた。
「師匠に言われた。『名前を呼ばれない死人が、鬼になる』って」
「本当なのかしら、それ」
「知らねえ。でも、書いとくと、手が落ち着く」
イーダは帳面の空白の欄を、じっと見ていた。
「私のは怨み帳。あんたのは死人帳」
「死人帳って言うな。縁起でもねえ」
「屍洗いが縁起を気にするの?」
そのとき、屋根のない小屋に、ひょいと顔が出た。
深い青の外套。銀の留め金。
「相変わらず死体くさいわね」
カティアだった。
「……何しに来た」
「借りを返しに」
カティアは一枚の紙を、俺の帳面の上に放り投げた。
立派な紙だった。封蝋が押してある。澱術師ギルドの紋章だ。
「上級鑑札の試験。十日後。推薦状を書いてあげたわ」
「……は?」
「団長に言われたんでしょ。無鑑札で撃ったら捕まえるって。鑑札を取れば、撃ち放題よ。壁守りでも、何でも」
カティアはふんと鼻を鳴らした。
「言っとくけど、私も受けるから」
「あんた、鑑札持ってるだろ」
「下級のね。上級を受けるの。今年こそ首席で」
カティアは腕を組んで俺を見下ろした。
「あんたを推薦したのは借りを返すため。それと、もうひとつ」
「なんだよ」
「試験場で、あんたを叩きのめすため」
青い外套の背中が、坂を上っていった。
影の中で、イーダが笑いをこらえていた。
「あの子、かわいいわね」
「どこがだよ」
俺は推薦状を、死人帳のあいだに挟んだ。
第23話 了
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