第22話 壁が割れた日
葬儀から十日たった夜、西の城壁が割れた。
鐘が鳴るより先に、音が来た。
ごごご、と地面の下から響く音。長屋の床が揺れて、棚の椀が落ちて割れた。ネリが飛び起きた。
窓を開けた。
窪地の西の端で、城壁の一角が、ゆっくりと内側に倒れていくところだった。
石が崩れる。土煙が上がる。壁に、家が三軒並ぶくらいの穴が開いた。
その穴から、澱鬼があふれ出てきた。
十日前の比じゃなかった。百、いや二百。黒ずんだ体が土煙の中から次々と湧いてくる。穴を押し広げるように、我先にと窪地になだれこんでくる。
「ネリ」
「うん」
「長屋のみんなを起こして、坂の上に逃げろ。施療院まで」
「お兄ちゃんは」
「仕事だ」
ネリは一瞬、何か言いかけた。それから、ぎゅっと唇を結んで、うなずいた。
俺は長屋を飛び出した。
◇
窪地の西の路地は、澱鬼で埋まっていた。
住人たちが悲鳴を上げて逃げてくる。その流れに逆らって、俺は走った。
影の中で、イーダが言った。
「多いわね」
「見りゃ分かる」
「名前、ひとりも分からないでしょ」
「分からねえ」
「じゃあ、雑に撃つしかないわね」
「雑でいい」
俺は路地の真ん中で足を止めた。
正面から、澱鬼の群れが押し寄せてくる。白く濁った目。骨の浮いた腕。ぼろぼろの、何百年も前の布切れ。
腹の底の石に、手を伸ばした。
香水。プリン。長い祈り。
それから、十日間ずっと見てきたもの。壁の上に篝火を焚くだけで、一度も外に出なかった見張りの兵。「窪地だから仕方ない」と言った東の役人。壁の修理を頼みに行った窪地の年寄りを、門の前で追い返した聖堂の門番。
腹が立つ。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――全部だァ!!」
黒い雷が路地に降った。
ざあっと音を立てて、稲妻の雨が澱鬼の群れを打った。先頭の十体がまとめて崩れた。黒い澱が噴き上がって、夜空に吸いこまれていく。
後ろから、次の十体が来た。
撃った。
また来た。
撃った。
五発。十発。数えるのをやめた。撃っても撃っても、壁の穴から次が湧いてくる。
腕がしびれてきた。喉が焼ける。澱酔いで頭の中が真っ赤になる。
「くそったれがァ! どんだけいんだよ! 列に並べ! 順番に来い!」
「ヴィム、右!」
右の家の屋根から、澱鬼が飛び下りてきた。
避けきれなかった。肩に食いつかれた。歯が肉に入る。痛い。
そのとき、屋根の上から、何かが降ってきた。
水だった。
桶いっぱいの水が、澱鬼の頭にばしゃりとかかった。澱鬼が一瞬ひるんだ。俺はその隙に振りほどいて、至近距離で雷を叩きこんだ。
屋根の上を見た。
井戸端のおかみさんが、空の桶を持って立っていた。
「何ぼさっとしてんだい! 次、来るよ!」
「……おばちゃん、逃げろって」
「逃げたって、あんたが負けたら、どうせ食われるんだろ!」
おかみさんの横に、もうひとり上ってきた。鍛冶屋の息子だ。手に、真っ赤に焼けた鉄の棒を持っていた。
その隣に、死体車の御者。松明を二本。
屋根の上に、窪地の人間が、ひとり、またひとりと上ってきた。桶。鍋。棒。松明。石。
「黒雷の兄ちゃんの邪魔すんな!」
子どもの声がした。
屋根の上から、石が雨みたいに降った。澱鬼たちの頭に、肩に、こつんこつんと当たる。痛くも何ともないはずだ。澱鬼は死体だ。
でも、澱鬼たちが、一瞬、上を見た。
その一瞬で、俺は撃てた。
「……勝手なことしやがって」
声が震えた。澱酔いのせいだ。
影の中で、イーダが笑った。
「嬉しいくせに」
「嬉しくねえ」
「顔、にやけてる」
「にやけてねえ!」
◇
夜が明けるころ、壁の穴から湧いてくる澱鬼が、ようやく途切れた。
窪地の西の路地は、崩れた澱鬼で埋まっていた。住人たちが屋根から下りてきて、座りこんだ。みんな煤だらけで、疲れきっていた。
俺は壁の穴の前に立っていた。立っているだけで精一杯だった。
蹄の音がした。
東の坂を、白銀の鎧の騎馬隊が駆け下りてきた。二十騎。先頭の騎士の剣が、朝日の中で白く光っていた。
聖騎士団だ。
夜が明けてから来た。
先頭の騎士が壁の穴の前で馬を止めた。白い髭の、厳めしい顔の男だった。行列で見た。聖騎士団長だ。
団長は崩れた澱鬼の山を見回した。それから、俺を見下ろした。
「貴様が、黒雷の屍洗いか」
「……遅えよ」
団長の眉が動いた。
「何と言った」
「遅えって言ったんだよ。夜中に壁が割れたんだぞ。朝まで何してた」
団長の後ろの騎士たちがざわめいた。
「東の守りを固めていた。それが命令だ」
「東は割れてねえだろ」
「割れるかもしれなかった」
団長の声は冷たかった。
「それより、貴様だ。澱術師ギルドの鑑札を持っているか」
「……鑑札?」
「持っていないな。無鑑札の澱術は教会の禁制だ。本来なら、今この場で捕らえる」
屋根から下りてきた住人たちが、一斉に団長をにらんだ。
団長はそれを見回した。騎士たちの剣の柄に、手がかかる。
「――父上」
騎馬隊の後ろから、ひとりの騎士が馬を進めてきた。
アルヴィドだった。
「この者がいなければ、窪地は壊滅していました」
「だからどうした。禁制は禁制だ」
「今、この者を捕らえれば、次に壁が割れたとき、誰が窪地を守るのですか」
団長は息子を見た。
アルヴィドの腰の剣は、光っていなかった。団長の剣は白く光っていた。
団長は鼻を鳴らした。
「……今回だけだ。次に無鑑札で撃てば、捕らえる」
団長は馬首を返した。騎馬隊がそれに続いた。壁の穴の見張りに、五騎だけを残して。
アルヴィドだけが、残った。
馬から下りて、崩れた澱鬼の山の前に立った。しばらく黙って見ていた。
「……すまない」
また、それだった。
「あんたが謝ることじゃねえだろ」
「騎士が守るべきものを、屍洗いが守った。それは騎士の恥だ」
アルヴィドは光らない剣の柄を握った。
その手が震えていた。
イーダが影の中から、アルヴィドを見上げていた。
「……あの人、悔しいのね」
「悔しいと、光るんじゃないのか」
「光らないわ。あの人の悔しさは、綺麗すぎるもの」
綺麗な感情は燃えない。
アルヴィドは頭を下げて、馬に乗って帰っていった。
俺は崩れた澱鬼の前にしゃがみこんだ。顔を拭いた。知らない顔だった。
住人たちが黙って桶を持ってきた。
第22話 了




