第21話 俺の中に聖女がいる
目が覚めると、腹の中に聖女さまがいた。
正確に言うと、影の中だ。朝日が長屋の窓から差しこんで、寝床の横の床に俺の影を落としている。その影の中で、白い衣の女があぐらをかいていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「あんた、いびきがうるさい」
「知らねえよ」
起き上がった。体が重い。腹の底に石を一個抱えているみたいだ。昨日の夜、壁の上の澱鬼に雷を五発撃った。その疲れがまだ抜けていない。
でも、あの石は減っていなかった。
五発撃っても、腹の底の重さは同じだった。九百十件ぶんの澱は、まだそこにある。
「撃っても、減らないのか」
「減らないわよ。晴らさないと」
イーダは影の中で伸びをした。
「雷はね、怨みを燃やして撃ってるだけ。燃やしても、怨みそのものは残るの。本当に減るのはその怨みの相手に届いたときだけ」
「伯爵夫人と、助祭みたいに」
「そう。あと九百十件」
試しに、寝床の横のろうそくに指を向けてみた。
腹の底の石に、そっと触れる。ほんの少しだけ。糸くらいの細さで。
小瓶はいらなかった。舌の上に何も載せなくても、腹の底から、あの腹の立つ味がじわりと上がってきた。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――ろうそく」
ぱちっ、と音がした。
黒い火花がひとつ、ろうそくの芯に飛んだ。芯に、黒い火がともった。黒いのに、ちゃんと明るかった。
「……つくんだな、これで」
「つくわよ。私、あんたの中にいるもの」
イーダは、黒い火をしげしげと眺めていた。
「ろうそく一本に、私の怨みを使わないでくれる?」
「どの怨みを使った」
「たぶん、門番の鼻毛」
黒い火は、少しだけ、鼻毛みたいにちりちり揺れた。
俺は吹き消した。
「一日一件で」
「三年ね。雨の日は休むとして、四年」
俺は天井を見上げた。
四年。この女を影に入れたまま、四年。
「……狭いって言ってたろ」
「狭いわよ。でも、慣れたら悪くないかも。あんたが何を食べてるか分かるし。何を考えてるかは分からないけど」
「分からなくていい」
「今、ちょっと嫌な顔したでしょ」
「影の中からでも分かるのかよ」
◇
ネリが台所で湯を沸かしていた。
咳はほとんど出なくなっていた。朝の光の中で、白い顔に少しだけ色が戻っている。
「お兄ちゃん、昨日すごかったね」
「寝てろって言ったろ」
「寝てたよ。窓から見てただけ」
ネリは湯を椀に注いで、俺の前に置いた。白湯だ。茶葉は高い。
それから、妹は俺の足もとをじっと見た。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「お兄ちゃんの影、なんか変じゃない?」
白湯を吹きそうになった。
「変って、何が」
「濃い」
ネリは首をかしげた。
「ほかのものの影より、黒い気がする。あと、ちょっと、もぞもぞしてる」
影の中で、イーダが固まった。
「……もぞもぞ?」
「気のせいかな」
「気のせいだ」
「そっか」
ネリはあっさり引き下がった。それから、自分の白湯を飲みながら、また俺の影をちらっと見た。
「見えてるの、あの子」
イーダが小声で聞いてきた。
「見えてねえよ。たぶん」
「たぶん?」
「あいつ、昔から勘がいいんだ」
◇
小屋に行った。
半分焼けた小屋は、朝日の中で見ると、ひどいありさまだった。屋根はない。壁は三枚しかない。洗い台だけがぽつんと真ん中に残っている。
床下の穴には、煤を溶かした水の鍋が沈んでいた。
ひとつ、ふたが開いていた。
穴のふちに、長靴の跡が残っていた。聖堂兵のものだ。夜のうちに来て、鍋を開けて、中身を確かめて、そのまま帰っていったらしい。
鍋の横に、紙が一枚置いてあった。
きれいな字で、短く書いてあった。
——墨と煤の比率がよくない。闇市の偽物のほうが、まだ出来がいい。セルジュ
「……ばれてる」
「ばれてるわね」
「なんで持っていかねえんだ」
「持っていく意味がないからでしょ。本物はもうあんたの中」
イーダは影の中で腕を組んだ。
「つまり、あの男は知ってるの。私の澱があんたの中にあるって」
背中がひやりとした。
「じゃあ、なんで捕まえに来ない」
「さあ。捕まえても、取り出せないからじゃない?」
捕まえても、取り出せない。
俺を殺して、澱を抜けば取り出せる。屍洗いなら誰でも知っている。
それをしない理由が、分からなかった。
◇
昼過ぎ、バルボ婆が来た。
腰を曲げて、焼けた小屋の中をぐるりと見回した。鼻をひくひくさせた。
「空っぽだね」
「見りゃ分かるだろ」
「床下も、空っぽ。煤と水だけ」
婆さんは床下の穴をのぞきこんで、鼻を鳴らした。それから、ゆっくり振り返って、俺の顔に鼻を近づけた。
すん、すん、と嗅いだ。
婆さんの目が細くなった。
「……あんたから、匂うね」
「汗だろ」
「汗の奥から、匂う。とんでもなく濃いのが」
婆さんは俺の影を見下ろした。
長いこと、見ていた。
「飲んだのかい。全部」
俺は答えなかった。
婆さんははあっとため息をついた。
「馬鹿な子だね。そんなもん腹に入れたら、いつか体が割れるよ」
「割れる?」
「澱ってのは死人のもんだ。生きてる人間の腹に長く置いとくもんじゃない」
婆さんは煙管を取り出して、火をつけずにくわえた。
「……まあ、あんたが割れても、あたしは困らないけどね。割れたら、洗ってやるよ。一滴金貨十枚で、中身は買い取ってやる」
「ケチくせえ」
「商売だよ」
婆さんは背中を向けた。小屋を出かけて、ふと足を止めた。
「ヴィム坊」
「なんだよ」
「その子に、あんまり怒らせすぎないようにしな」
「……その子?」
「あんたの影の中の子さ」
婆さんは振り返らなかった。
「聖女ってのは、腹の中にいても、たいてい一人で我慢しちまうんだ。我慢させすぎると、ろくなことにならない」
婆さんはそのまま坂を上っていった。
影の中で、イーダが黙っていた。
「……あのおばあさん、見えてるの?」
「さあな」
「見えてないのに、分かってる感じだった」
イーダは膝を抱えた。
「なんで、聖女のこと、あんなに知ってるのかしら」
俺も知らなかった。七十年、あの鼻で食ってきた。本人はそう言っていた。
夕方、窪地の空が赤く焼けた。
西の城壁の上で、見張りの兵が、見たことのない数の篝火を焚いていた。
壁の向こうで、何かがまだ、うろうろしていた。
第21話 了




