第20話 空の炉、黒い雷
その夜、西の城壁の鐘が鳴った。
かん、かん、かん、かん。
速い鐘だった。聞いたことのない打ち方だった。窪地じゅうの家から、人が飛び出してきた。
「なんだ、火事か?」
「違う、西の壁だ!」
「壁の鐘だぞ、あれ!」
俺は長屋の窓から身を乗り出した。
窪地の西の端に、城壁がある。灰都をぐるりと囲む、古い石の壁。窪地はいちばん低いところにあるから、壁もいちばん低く見える。
その壁の上で、何かが動いていた。
影だった。
壁の向こうから、手が伸びてきていた。何本も、何十本も。黒ずんだ、骨の浮いた手が、壁のふちをつかんで、よじ登ってくる。
頭が見えた。白く濁った目が見えた。
「……澱鬼」
壁の外は澱鬼の野だ。
昔から、壁の外には澱鬼がうろついている。だから誰も外に出ない。都の外に出る馬車は、昼間だけ、聖騎士の護衛つきで、決まった街道だけを走る。
でも、壁を越えてきたことは一度もなかった。
大聖炉の火が燃えている限り、澱鬼は壁に近づけない。
そう教わってきた。
影の中で、イーダが言った。
「炉が、弱ってるのよ」
「……」
「今朝の火、見たでしょ。私が入らなかったから」
壁の上の澱鬼がひとつ、窪地の側に転がり落ちた。ふたつ。みっつ。
悲鳴が上がった。
ネリが寝床から体を起こしていた。
「お兄ちゃん……」
「窓、閉めてろ。絶対に出るな」
俺は長屋の階段を駆け下りた。
◇
窪地の西の路地は、もう地獄だった。
澱鬼が十、二十と転がり落ちてきて、家の戸を叩き破っていた。住人たちが子どもを抱えて坂の上に逃げていく。
城壁の見張りの兵たちが、槍を捨てて逃げていくのが見えた。
「聖騎士は!?」
誰かが叫んだ。
「東だ! 聖騎士団は、東の貴族街を固めてる!」
「こっちには来ねえのかよ!」
「来るわけねえだろ、窪地だぞ!」
来ない。いつものことだ。
俺は路地の真ん中に立った。
ポケットに手を入れかけて、やめた。小瓶はもういらない。
腹の底に、重いものがある。昨日の夜、鍋を十いくつ飲み干した、聖女さまの怨み。九百十件ぶん。
「イーダ」
「いつでも」
「名前が分からない」
目の前の澱鬼たちは、知らない顔ばかりだった。窪地の人間じゃない。着ているものが変だった。ぼろぼろの布切れ。何十年も、何百年も前の服みたいな。
「名前を呼ばない雷は、狙いが定まらないわ」
「当たらないのか」
「当たるわよ。広く。雑に」
イーダが影の中で笑った。
「好きでしょ、雑なの」
俺は腹の底の石に手を伸ばした。
腹が立つ。
香水。プリン。長い祈り。それから、窪地には来ない聖騎士。東だけを守る壁の兵。泣き女を雇う貴族。清らかすぎて天に昇った、と言った大司教。
全部、腹が立つ。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――」
名前の代わりに、叫んだ。
「――全部だァ!!」
◇
空が裂けた。
窪地の上空に、黒い雲が渦を巻いた。雲の底から、黒い雷が降ってきた。
一本じゃない。雨だった。黒い稲妻の雨が西の路地に、城壁の上に、壁の外の野に、ざあざあと降り注いだ。
澱鬼が雷に打たれて崩れていく。ひとつ、またひとつ。黒い澱が噴き上がって、空に吸いこまれていく。
壁をよじ登っていた手が、一斉に離れた。
雷の音が窪地じゅうの窓を震わせた。屋根の瓦が跳ねた。住人たちが坂の途中で足を止めて振り返った。
俺は止まらなかった。
二発目。三発目。腹の底から、次から次へと怒りが湧いてくる。九百十件。いくら撃っても、減った気がしない。
四発目で、壁の向こうの野が真っ黒に焦げた。
五発目で、最後の一匹が崩れた。
音が消えた。
城壁の上に、もう何もいなかった。
俺は路地の真ん中で、肩で息をしていた。
坂の途中から、人が戻ってきた。ひとり、またひとり。窪地の住人たちが、焦げた路地と、倒れた澱鬼と、真ん中に立っている俺を見ていた。
「……ヴィムだ」
「黒い雷の」
「屍洗いの、ヴィムだ」
誰かが手を叩いた。
ひとりが叩くと、もうひとりが叩いた。子どもが叫んだ。
「黒雷の兄ちゃん!」
「黒雷の屍洗いだ!」
拍手が広がった。窪地じゅうに。
俺は口を開いた。
「うるせえ!!」
拍手が止まった。
「手ぇ叩いてる暇があったら水汲んでこい! 壊れた戸を直せ! ガキは寝ろ! 明日も仕事だろうが! だいたいな、壁の兵が逃げるのを黙って見てたのはどこのどいつだ! 聖騎士が来ねえのに毎年黙って税払ってんのは誰だ! ちょっとは怒れよ! 怒っていいんだよ、あんたらは!」
窪地がしんとした。
影の中で、イーダが頭を抱えていた。
「……ごめん、それ私の澱のせい」
「半分は俺だ」
小声で返した。
井戸端のおかみさんが、ぷっと吹き出した。
それから、窪地じゅうが笑った。怒鳴られて、笑っていた。誰かが「怒れってよ」と言って、また笑いが起きた。
俺は倒れた澱鬼のそばにしゃがみこんだ。
顔を拭いた。知らない顔だった。何百年も前の服を着た、知らない男。
「……名前、分かんねえ。すまん」
それでも拭いた。
ひとり。ふたり。窪地の住人が黙って桶を持ってきて、俺の横に置いた。
◇
同じころ。
東の丘の、大聖堂のいちばん高い塔の窓から、ひとりの男が西を見下ろしていた。
白と金の法衣を脱いで、ただの寝間着姿だった。手に持った燭台の火が、震える指のせいで揺れていた。
窪地の上に、まだ黒い雲の名残が渦を巻いていた。
黒い雷。
五十年前、炉に入った先代の聖女の炎と、同じ色だった。
「……大司教さま」
背後から、痩せた男が声をかけた。黒い法衣。インクで青黒く染まった指。
「西の窪地です。例の、屍洗いの少年かと」
大司教グラウスは、答えなかった。
窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
それから、ぽつりと言った。
「見つけた」
その声は怒っていなかった。
ただ、ひどく疲れていた。
第20話 了
◆ 第一部「聖女の遺体は口が悪い」 終




