第18話 葬儀の前夜
「バルボ婆に預ける」
「一晩で闇市じゅうに知れ渡るわよ」
「カティアの屋敷」
「あの子、自分で言ってたでしょ。借りにしとくって。借りは返すまでの話よ」
「窪地の井戸に沈める」
「ザザが井戸ごと喰うわ」
「墓地。師匠の墓の下」
「……それはちょっと考えた」
「考えたのかよ」
半分焼けた小屋の中で、俺とイーダは、床下の穴を挟んで向かい合っていた。
ランプの油が切れかけていた。月の光だけが壊れた屋根から差しこんでいる。
鍋はまだ十いくつ残っていた。全部、真っ黒な澱で満ちている。
夜が明ければ、聖女さまの遺体は大聖炉に運ばれる。遺体がなくなれば、この小屋に用のある人間はいなくなる。教会はそう思うはずだ。
思わないやつがいる。セルジュだ。あの副司教は床下を知っている。葬儀が終われば、必ず兵を連れて戻ってくる。
ザザも来る。「この味、忘れないよ」と言っていた。
「売るか」
口に出してみた。
バルボ婆は一滴金貨十枚と言っていた。ザザは一滴金貨百枚。
この鍋ぜんぶを売れば、灰都の外に家が建つ。馬車の札なんか、百枚買える。
「売れば、全部解決するな」
「そうね」
イーダはあっさりうなずいた。
「怨み帳も、あんたにあげる。好きにしていいわよ」
「……」
「私はたぶん、どっかの誰かのお腹の中で消えるわ。道化とか、貴族とか。それも、まあ、悪くないかもね。聖女が最後に誰かのごちそうになるって、それっぽいじゃない」
「本気で言ってんのか」
「半分」
聖女さまは膝を抱えた。
「もう半分はね、燃やされたくないの」
「燃やされる?」
「大聖炉に入ったら」
イーダは窓の外を見た。東の丘の上。大聖堂の尖塔の下のほうで、ぼんやり赤い光が脈打っていた。大聖炉の火だ。都のどこからでも見える。
「死んでから、ずっと聞こえるの。あっちのほうから。女の人の声が。ひとりじゃなくて、何人も」
「……声?」
「何を言ってるかは分からない。でも、怒ってるの。ずっと、ずっと」
背中の毛が逆立った。
「私の怨みもあそこに入ったら、あの声の仲間入りをする気がするの。そうしたら、たぶん、もう二度と誰にも届かない」
イーダがこっちを向いた。
「だからね、ヴィム」
「なんだ」
「私を飲んで」
◇
「……は?」
「全部。この鍋、全部。あんたの中に隠して」
「死ぬだろ、そんなもん」
手のひら一杯でさえ、喉が焼けて、腹の底が爆発した。鍋ひとつで何人分の手のひらだ。それが十いくつ。
「死なないかもしれない」
「なんで」
「あんた、変なのよ」
イーダは指を一本立てた。
「伯爵夫人のとき、あんた、赤い澱を舐めたあとで黒を舐めたでしょ。今朝は紫と黒を続けて。この前は金も。普通、二色以上を続けて飲んだら、頭がおかしくなるの。カティアだって青しか使わないでしょ」
「ザザは四色使ってた」
「あいつは喰って、消してるの。あんたは違う。混ぜずに、全部抱えてる」
言われてみれば、そうだった。赤の恥ずかしさと、黒の怒りが、別々に胸の中にあった。まざらなかった。
「器が大きいのよ、あんた。なんでかは知らないけど」
「褒めてるのか」
「褒めてない。気持ち悪いって言ってるの」
聖女さまはにっと笑った。
「でも、今はそれに賭けるしかないでしょ」
俺は鍋を見た。
売れば、金になる。飲めば、一銭にもならない。
飲んで死んだら、ネリはひとりになる。
「……で、いくら?」
イーダがぽかんとした。
「今? 今それ聞く?」
「命張るなら金だって、言ったろ」
「……」
イーダは天井を見上げた。長いこと。それから、ため息をついた。
「九百十件、晴らすたびに一割。最後まで付き合ってくれたら、たぶんひと財産になるわよ」
「たぶん?」
「たぶん。相手によるもの」
俺は鍋のふたを開けた。
◇
一杯目は喉を焼いた。
二杯目は胃を焼いた。
三杯目で、膝が崩れた。
頭の中に、声が流れこんできた。香水。プリン。鼻毛。長い祈り。毎日同じ話をする婆さん。痩せろと言う仕立て屋。手の甲を打つ指揮者の棒。舐めてくる貴族の唇。
九百十件。全部、一度に。
腹が立つ。
腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ。
鍋を抱えたまま、床に転がった。のたうち回った。壁を殴った。叫んだ。何を叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
「ヴィム」
イーダの声がした。
「息して」
「……っ、無理、だ」
「無理じゃない。数えて。一件ずつ」
「一件、ずつ?」
「香水。一」
「……こう、すい。いち」
「プリン。二」
「プリン……に」
聖女さまの声に合わせて、数えた。
三。手の甲。四。日記。五。朝の祈り。
数えるたびに、胸の中の火が、少しずつ形になっていった。ばらばらに暴れていた怒りが、一本ずつ、棚に並ぶみたいに。
九百十一件目まで、数えた。
九百十二件目はなかった。
鍋が全部、空になっていた。
◇
気がつくと、夜が白み始めていた。
俺は床に仰向けになっていた。体じゅう汗まみれだった。服が黒い染みでまだらになっていた。
生きていた。
腹の底に、ずっしりと重いものがあった。熱くも冷たくもない。ただ、重い。石を一個、飲みこんだみたいな。
「……イーダ?」
返事がなかった。
洗い台の縁を見た。誰も座っていなかった。
小屋の中を見回した。いなかった。
「イーダ!」
「ここよ」
声は下から聞こえた。
俺の影の中からだった。
朝の光が壊れた屋根から差しこんで、床に俺の影を落としていた。その影の中に、白い衣の女が、膝を抱えて座っていた。影の黒さに溶けるように、半分沈んでいた。
「引っ越したみたい。あんたの中に」
「……出られるのか」
「影の中なら、自由に動けるわ。でも、あんたから離れられない」
イーダは影の中で伸びをした。
「狭い」
「文句言うな」
「汗くさい」
「屍洗いだからな」
俺は起き上がった。
洗い台の上に、聖女さまの遺体があった。
顔を拭いた。額。瞼。鼻の横。口の端。これが最後だ。
「……イーダさん。洗い終わりました」
影の中のイーダが、自分の遺体の顔を見上げていた。
「じゃあね、私」
小さな声だった。
「顎、お疲れさま」
それから俺は空になった鍋に井戸の水を張った。竈の煤を溶かしこんで、真っ黒にした。闇市の偽物と同じやり方だ。ふたをして、床下の穴に沈めた。
「何してるの」
「副司教への土産」
坂の上から、鐘の音が下りてきた。
葬儀の朝の鐘だった。
第18話 了




