第17話 ザザの夜襲
小屋が燃えていた。
屋根の代わりに張ってあったアルヴィドの外套が、炎をまとって垂れ下がっている。壁の板の隙間から、緑の火が噴き出していた。普通の火じゃない。澱の火だ。
小屋の前に、四つの影が立っていた。
太った女。双子の少年。片腕の男。みんな顔に赤い笑いを描いている。
そして、屋根の残骸の上に、手足の長い影がしゃがんでいた。
「やあ、来た来た」
ザザだった。
「遅かったね、きみ。もうちょっとで全部いただくところだった」
ザザの足もとで、洗い台の上の遺体に、火の粉が降りかかっていた。白い衣の裾がちりちりと焦げている。
そして、小屋の床が、剥がされていた。
床下の穴が口を開けていた。黒い鍋がまだ半分以上沈んでいる。いくつかはもう引きずり出されていた。
片腕の男が鍋をひとつ抱えていた。
「そいつに触るな」
「どうして?」
ザザは首をかしげた。
「死んだ人の澱は、誰のものでもないよ。きみのものでもない。教会のものでもない。喰ったもん勝ちさ」
「俺が抜いた」
「抜いただけでしょ?」
ザザはにいっと笑った。
「屍洗いは、抜いて、捨てるのが仕事。拾って食べるのはザザの仕事」
イーダが俺の後ろで低く言った。
「ヴィム。ポケットに、あとどれくらい残ってる」
小瓶を出した。黒い澱は底に二、三滴ぶんしか残っていなかった。
「……少ねえ」
「床下まで行けば、いくらでもあるわ」
「その床下の前に、五人いる」
◇
太った女が動いた。
小瓶をあおる。紫だ。
「ハグ・ザ・ネ・モゥ!」
女の口の前に、紫の牙が生えた。俺の出したやつより、ずっと大きい。
牙がこっちに飛んできた。
横に転がった。牙がさっきまで俺が立っていた地面を、土ごと噛み取っていった。
双子の少年が同時に小瓶を飲んだ。赤い霧が湧いて、ふたりの姿が消えた。
どこだ。見えない。
背中に衝撃が来た。蹴られた。前に吹っ飛んで、小屋の壁に叩きつけられる。熱い。緑の火が袖に燃え移った。叩いて消した。
見えない拳が脇腹に入った。息が止まった。
「ヴィム!」
小瓶を口に運ぼうとした。手を蹴られた。小瓶が飛んだ。地面を転がる。
片腕の男がそれを拾い上げた。
「あ」
ザザが嬉しそうな声を上げた。
「それ、聖女さまのでしょ。ちょうだい」
片腕の男が小瓶をザザに放った。
ザザは片手で受け取って、ふたを歯で外して、残りの二、三滴を舌の上に落とした。
ザザの顔がぐにゃりと歪んだ。
「――――っ」
白塗りの顔の上で、描いた笑いの線が引きつった。
ザザは口を大きく開けた。喉の奥の黒いものが、それを噛もうとした。
噛みきれなかった。
「朝の祈りが長ぇ!!」
ザザが叫んだ。
「三刻は長ぇだろ! 膝が死ぬわ! あとプリン! プリン返せ! 香水くせぇ! 鼻毛! 鼻毛出てんだよ門番! 毎日毎日同じ話すんなババア!」
一座の四人がぎょっとしてザザを見た。
ザザは頭を抱えて、屋根の残骸の上で転げ回った。
「なにこれ、なにこれ、喰っても喰っても湧いてくる! 怨みの中に怨みがある! しょうもねえ! しょうもねえのに重てえ! あはは、あははは!」
笑っていた。泣きながら。
「……私の澱、そんなに重いんだ」
イーダがぽかんと呟いた。
「感心してる場合かよ」
◇
隙ができた。
俺は床下の穴に向かって走った。
見えない拳がまた横から来た。双子だ。避けきれない――
「オルド・ネ・カスカ・ヴィ」
澄んだ声がした。
青い鎖が闇の中から噴き出した。
鎖は何もない空中に巻きついた。何もないはずのところで、ぴんと張った。赤い霧がはがれて、双子の少年が鎖でぐるぐる巻きになった姿が現れた。
窪地の坂の上に、深い青の外套の女が立っていた。
カティアだった。
「……なんでいる」
「偶然」
「偶然で夜中に窪地に来るかよ」
「偶然よ」
カティアは鎖を引きしぼった。双子がどさりと地面に落ちた。
「あの樽の焼き印。聖油商会の。あれを追ってたら、たまたま、ここに来たの」
カティアの目が一座の馬車の樽を見ていた。冷たい目だった。今まで見たどの顔より冷たい。
太った女が紫の牙をカティアに向けた。
「ヴィム! 鍋!」
イーダが叫んだ。
俺は穴に飛びこんだ。鍋のふたを開けて、手で黒い澱をすくった。手のひらいっぱい。舐めた。
喉が焼ける。腹の底が爆発する。
二、三滴じゃない。手のひら一杯の、聖女さまの怒り。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――」
名前。一座の連中の名前は知らない。
知っている名前は、ひとつだけだ。
「――ザザ!!」
窪地の空が黒く割れた。
雷が一本じゃなかった。十本、二十本。黒い稲妻が束になって、屋根の残骸の上のザザに降り注いだ。
ザザは転げ回るのをやめた。
口を、限界まで開けた。
黒い雷を、喰おうとした。
半分、喰った。半分は喰いきれずに、ザザの体を叩いた。つぎはぎの外套が吹き飛んだ。白塗りの顔が焦げて半分剥がれた。
ザザは屋根の残骸ごと、坂の下まで吹き飛んでいった。
土煙が上がった。
しばらくして、土煙の中から、けたけたと笑い声がした。
「こりゃ、濃すぎる」
ザザが起き上がっていた。顔の白塗りが半分なくなって、その下の素顔が見えていた。普通の、痩せた、疲れた中年の男の顔だった。
「一晩じゃ、喰いきれないね。胃がもたない」
ザザは指を鳴らした。一座の四人がそれぞれ霧になったり、鎖をほどいたりして、ザザのもとへ下がっていった。片腕の男は鍋をひとつ抱えたままだった。
「それは置いてけ!」
「ひとつくらい、いいでしょ? 手間賃」
ザザは半分だけ残った笑いの線で、にいっと笑った。
「またね、屍洗いくん。この味、忘れないよ」
赤い霧が湧いた。一座の姿が馬車ごと消えた。
◇
火はカティアの青い鎖で壁を引き倒して、ようやく消えた。
小屋は半分なくなっていた。
洗い台は無事だった。聖女さまの遺体は、衣の裾が焦げただけだった。床下の鍋はひとつだけ減っていた。
俺は地面に座りこんで、しばらく口の悪さと戦っていた。
「くそ」「あの道化」「鍋返せ」「顔、半分しか塗ってねえくせに」
カティアが洗い台の横に立っていた。
遺体の顔を見下ろしていた。焦げた衣の、金の刺繍を見ていた。
「……これ」
カティアの声が震えた。
「聖女さまの、ご遺体?」
俺は答えなかった。
「じゃあ、あんたの黒い澱は……」
「言ったら、撃つ」
カティアは長いこと遺体を見ていた。それから、ふうっと息を吐いた。
「言わないわよ」
「なんで」
「借りにしとく。今夜のは」
カティアは外套を翻した。
「私が追ってるのは聖油商会。あんたが追ってるのも、たぶん同じ。だったら、そのうちまた会うでしょ」
坂を上りかけて、振り返った。
「それと、ひとつ忠告」
「なんだよ」
「明日、葬儀でしょ。ご遺体は大聖炉に入る。床下の澱も、教会が必ず探しに来る。今夜みたいな連中も、また来る」
カティアは焦げた小屋を見回した。
「ここに、隠す場所はもうないわよ」
青い外套が闇に消えた。
俺は床下の穴を見下ろした。黒い鍋が月の光を吸いこんで沈んでいた。
イーダが穴のふちにしゃがんでいた。
「……どうする、ヴィム」
夜明けまで、あと四刻だった。
第17話 了




