第16話 聖女のいない聖女像
夕方、ネリは約束どおり帰ってきた。
白い衣を脱いで、いつもの擦り切れた服に着替えていた。「楽しかった」とだけ言って、すぐに寝床にもぐりこんだ。疲れたらしい。
寝息を確かめてから俺は長屋を出た。
行き先は広場だった。
灰都の真ん中の、大聖堂の前の広場。そこに聖女さまの像がある。
日が沈みかけていた。広場は昼間の行列の名残で散らかっていた。踏まれた花。燃え尽きた蝋燭。泣き女が落としていったらしい、黒い付け袖。
像の前に、ひとりだけ人がいた。
白銀の鎧。金色の髪。膝をついて、光らない剣を胸の前に立てている。
アルヴィドだった。
「毎日、ここで祈ってるって本当なんだな」
声をかけると、アルヴィドは目を開けた。俺を見て、少し驚いた顔をした。
「君か。どうしてここに」
「別に」
特に理由はなかった。昼間の行列を見てから、なんとなく、この像を見ておきたくなった。
像を見上げた。
白い石の聖女さまが、両手を胸の前で組んで、空を見上げている。口の端がきれいに同じ角度で上がっていた。
頭のてっぺんに、鳩の糞が乗っていた。
「……おい」
「ああ」
アルヴィドは立ち上がって、外套の端で、像の頭を拭いた。背伸びをして、丁寧に。石が白く戻るまで。
「毎日、拭いている。毎日、鳩が来る」
「鳩に怒れよ」
「鳩に罪はない」
アルヴィドは汚れた外套の端をたたんだ。
隣で、イーダが像を見上げていた。自分の像だ。
「私、あんな顔で空なんか見上げたことないわ」
「見上げてなかったのか」
「下ばっかり見てた。足もとの、施療院の床とか。祈りのときの、膝の前の石とか」
アルヴィドが不思議そうに俺を見た。
「誰と話しているんだ?」
「独り言だ」
「……君は、独り言が多いな」
◇
俺たちは像の台座に並んで座った。
夕日が大聖堂の尖塔の向こうに沈んでいく。広場に長い影ができた。
「彼女とは、十三のときに出会った」
聞いてもいないのに、アルヴィドが話し始めた。
「私の父は聖騎士団長だ。父に連れられて、大聖堂に来た。そこに、新しい聖女候補の娘がいた。施療院から拾われてきたばかりの、痩せた子だった」
「……」
「彼女は、ずっと笑っていた。初めて会ったときから。ひどい熱が出たときも。足を怪我したときも。先代の聖女さまのことを何も知らないまま、いきなり聖女の勉強をさせられて、朝から晩まで祈りを覚えさせられても」
アルヴィドは光らない剣を見下ろした。
「私はそれを尊敬していた。彼女は強い人だと思っていた。一度も弱音を吐かなかった」
「吐けなかったんだろ」
口から出ていた。
アルヴィドがこっちを向いた。
「……何?」
「一度も弱音を吐かなかったんじゃなくて、吐けなかったんだろ。周りの全員があいつが笑うと安心した顔をするから」
イーダが俺の横で、息を止めたのが分かった。
「あんた、あいつが笑ってない顔、見たことあるか」
アルヴィドは答えなかった。
しばらく口を開けて、閉じて、また開けた。
「……ない」
「一度も?」
「一度も」
「じゃあ、知らねえんだよ」
言ってからしまったと思った。
今のは黒い澱の酔いじゃない。今日は一滴も舐めていない。
ただの、俺の言葉だった。
アルヴィドは長いこと黙っていた。夕日が完全に沈んだ。広場の灯りがぽつぽつと点り始めた。
「君は、彼女を知っているような口ぶりだ」
「知らねえよ。死体しか知らねえ」
「死体を見て、分かるのか」
「顎の筋」
俺は自分の顎を指でつついた。
「毎日同じ角度で笑ってた奴は、ここの筋が固まってる。死んでも戻らない。洗ってて、すぐ分かった」
嘘ではなかった。初日の夜、顔を拭いたとき、指に当たった。石みたいに固い顎の筋。
アルヴィドは自分の顎に手をやった。それから、手を下ろした。
「……そうか」
それだけ言って、また像を見上げた。
イーダがアルヴィドの横顔を見ていた。
「祈らなくていいのに」
小さな声だった。アルヴィドには聞こえない。
「私のために祈るくらいなら、一回でいいから、『休め』って言ってほしかった」
俺はそれをアルヴィドに伝えなかった。
伝えたって、どうしようもない。死人の言葉を、死人の代わりに言うのは、屍洗いの仕事じゃない。
たぶん。
◇
「そうだ」
帰りぎわ、アルヴィドが思い出したように言った。
「今夜は、小屋の見張りに行けない。すまない」
「なんで」
「大聖堂で、聖女さまの通夜がある。聖騎士は全員、夜通し祈りに立つよう命じられた。副司教からの命令だ」
副司教。
セルジュだ。
聖堂兵を二十人連れてきて、金色の巨人に放り出された男。「今日は引こう」と言って帰った男。
聖騎士を全員、今夜だけ大聖堂に集める。
窪地の小屋が今夜だけ、がら空きになる。
「……ヴィム?」
「なんでもない」
背中がじわりと冷たくなった。
昨日の夜、広場の暗がりで聞いた声を思い出した。
明日の晩、もらいに行くよ。
今夜だ。
「アルヴィド」
「なんだ」
「副司教って、あの一座とつながってたりするか」
「一座?」
「澱喰いの。聖油商会の樽を積んでる」
アルヴィドは眉をひそめた。
「……聖油商会は、教会の認可を受けた商会だ。副司教がその管理をしておられる。それがどうした」
管理。
俺は答えずに、走り出した。
「ヴィム!」
背中でアルヴィドが呼んだ。振り返らなかった。
イーダが俺の横を並んで飛んでいた。足を動かしていないのに、俺と同じ速さで。
「急いで、ヴィム」
「分かってる」
「私の体、燃やされるのはいいの。どうせ明日の朝には燃えるから」
「じゃあ、何が」
「床下の澱」
聖女さまは前を見たまま言った。
「あれを喰われたら、九百十件、全部、あの道化のごちそうになる」
窪地の坂の下で、何かが燃える明かりが、ちらりと見えた。
第16話 了
励みになりますので、高評価ブックマークをよろしくお願いします。
毎日19:30に更新します。




