第10話 聖騎士アルヴィド
坂を下りてきたのは金色の髪の男だった。
背が高い。白銀の鎧。肩から青い外套を垂らしている。腰の剣の柄に、教会の紋章が彫られていた。
顔が腹が立つほど整っていた。絵本の騎士がそのまま出てきたみたいだった。
男は屋根の吹き飛んだ小屋の前で足を止めた。
壊れた壁。散らばった瓦。床に尻もちをついている俺。そして、雨ざらしになった洗い台の上の、白い衣の遺体。
男の顔が歪んだ。
「……イーダ」
男は俺の横を素通りして、洗い台に駆け寄った。
膝をついた。震える手を、遺体の頬に伸ばした。
「触るな」
俺の口から、声が出ていた。
男の手が止まった。
「今朝、拭いたばっかりだ。籠手のままで触るな。傷がつく」
男はゆっくりこっちを向いた。青い目だった。赤く充血していた。
怒鳴られるかと思った。
男は黙って籠手を外した。素手になって、もう一度手を伸ばした。今度は頬に触れる直前で止めた。指先が宙で震えていた。
触れなかった。
「……すまない」
男は俺に向かって頭を下げた。
「聖騎士アルヴィドだ。聖女さまの護衛を務めていた」
知っている。灰都で、この男を知らない奴はいない。聖女さまのいちばん近くにいた騎士。幼なじみで、聖女さまが露台に立つときは必ず後ろに控えていた。いつか聖女さまと結ばれるんじゃないかと、酒場の女たちが噂していた男。
聖女さまが死んでから、毎日広場の像の前で祈っている。国じゅうがそれを見て、また泣いた。
「副司教が聖堂兵を連れて窪地に下りたと聞いた。止めに来たが遅かったようだ」
「止めに?」
「聖女さまのお体がある場所に、兵を入れるべきではない」
アルヴィドは吹き飛んだ屋根を見上げた。それから、坂の上に転がっている兵たちを見た。
「……あれは君が?」
「知らねえ」
「金色の巨人が暴れていたと、兵たちが言っていた」
「知らねえって」
アルヴィドはしばらく俺を見ていた。
それから、腰の剣を抜いた。
俺は身構えた。ポケットの中の小瓶を握る。
アルヴィドは剣を、切っ先を下にして胸の前に立てた。目を閉じた。唇が動いている。祈りの言葉だ。
聖騎士の剣は祈りで光る。そう聞いている。聖騎士団長ともなれば、剣が昼の太陽みたいに白く輝くらしい。
アルヴィドの剣は、光らなかった。
鈍い鉄の色のままだった。
アルヴィドは目を開けた。自分の剣を見下ろした。ほんの一瞬、口もとが引きつった。
「……聖女さまが亡くなってからずっとこうだ」
それは俺に言ったのか、自分に言ったのか。
「祈りが足りないのだと思う。毎日、像の前で祈っている。それでも光らない」
アルヴィドは剣を鞘に戻した。
「君を斬るつもりはない。ただ確かめたかった。今の私に、ここを守る力があるのかどうか」
イーダが洗い台の向こうに立っていた。
アルヴィドのほうを見ていなかった。顔をそむけて、壊れた壁の外を見ていた。
「どうした」
小声で聞いた。
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃねえだろ」
「……あの人の前では、笑わなきゃいけなかったの」
聖女さまの声は平らだった。
「子どものころから、ずっと。あの人は私が笑うと安心するの。だから、毎日笑ってた。顎が痛くても」
アルヴィドがまた遺体の顔を見下ろしていた。
目が指輪で止まった。
「……指輪を」
アルヴィドの声が震えた。
「指輪を、まだつけていてくれたのか」
俺の背中に、冷たい汗がどっと出た。
初日の夜、あの指輪を抜こうとした。イーダが止めなければ、今ごろバルボ婆の店に並んでいた。
「騎士の給金三日ぶんだった。安物だと、笑われると思った」
アルヴィドは遺体の手の横に額をつけた。肩が震えていた。
「イーダ。私は君に何もしてあげられなかった」
イーダはそっちを見なかった。
「『安物ね』って言えばよかった」
小さな声だった。アルヴィドには聞こえない。
「一回くらい。本当のこと」
◇
アルヴィドは夕方まで小屋にいた。
壊れた屋根の代わりに、自分の外套を梁に渡して、遺体の上に雨よけを作った。散らばった瓦を片づけた。黙々と、騎士が屍洗いの小屋の掃除をした。
俺は手伝わなかった。見ていた。
変な奴だと思った。
貴族街の連中は窪地を汚いものみたいに見る。この男は違った。俺の小屋の床を、自分の手で掃いた。泥のついた箒を、嫌な顔ひとつせずに握った。
いい奴だ。たぶん。
それがなんだか腹立たしかった。
「葬儀は三日後の朝だ」
帰りぎわ、アルヴィドが言った。
「私はこの小屋の外で、聖女さまのお体をお守りする。副司教がまた来ないとも限らない」
「……外で?」
「夜通し。迷惑はかけない」
迷惑だ。
床下には、聖女さまの澱がある。この男に見張られていたら、動かせない。
でも、断る理由が言えなかった。
「勝手にしろ」
「ありがとう」
アルヴィドは小屋の前の石に腰を下ろした。剣を膝に置いて、背筋を伸ばして、坂の上をじっと見ている。
光らない剣を、大事そうに握っていた。
俺は小屋の中に戻った。
イーダが洗い台の縁で膝を抱えていた。
「ねえ、ヴィム」
「なんだよ」
「怨み帳。二件目から、十件くらい先。見て」
俺は帳面を開いた。二件目は助祭のプリン。三件目は指揮者。めくっていく。
十四件目で、指が止まった。
十四、アルヴィド。
それだけ書いてあった。名前だけ。何を怨んでいるのか、書いていない。
「……これ、なんだ」
「まだ書けなかったの」
聖女さまは膝に顎を乗せた。
「何が嫌だったのか、自分でも分からなかったの。あの人、何も悪いことしてないもの。いつも優しくて、いつも正しくて」
外で、アルヴィドが小さく咳払いをした。
「それが、いちばん嫌だったのかもしれない」
ランプの火がぱちりと鳴った。
俺は十四件目のページを閉じた。
翌朝、帳面の二件目を開くことになる。プリンの助祭。窪地の死体車を、三日止めた男だ。
第10話 了




