第一話:水平線のエチュード
――砂。砂の感触がした。
妙に冷たい。
潮の匂いが鼻を突く。
遠くで、波の崩れる音。
無意識に、右の胸ポケットを確認していた。
「――……野さん!」
声がする。
女の声。
近い。
「遠野さん。聞こえますか?」
肩を軽く揺らされる。
重たい瞼を開く。
白い空。逆光。
その向こうに、人影。
「……っ。」
頭が痛む。
脳の奥を無理やり掻き回されるような鈍痛。
視界がゆっくり輪郭を取り戻していく。
そこに居たのは、見覚えのある女だった。
「……白瀬?」
自然と名前が出た。
女は、ほんの少しだけ安心したように息を吐く。
「良かった。意識はあるみたいですね。」
事務所で見た時と同じ声。
同じ顔。だが、違う。スーツではない。
ラフなアウトドア用の上着に、動きやすそうなカーゴパンツ。
事務所で見た時より、少し年相応に見えた。
「……ここ、どこだ。」
喉が焼けるように痛い。
白瀬はすぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ、 言葉を選ぶように視線を落とす。
「説明は後でします。今は立てますか?」
波の音が強くなる。
風が吹く。
潮の匂い。
肌に張りつく湿気。
全部、本物だった。
遠野はゆっくり身体を起こす。
服の隙間から砂が落ちる。
頭が重い。
記憶が上手く繋がらない。
最後に覚えているのは――
『では、良い休暇を。楽しんできてくださいね。』
白瀬の声。
そこで途切れている。
「……無人島、企画……だったか。」
自分でも驚くほど、 声に感情が乗っていなかった。
白瀬は曖昧に頷いた。
「そういう認識で、大丈夫です。」
妙な言い方だった。
だが、今はそこまで頭が回らない。
その時だった。
右腕に違和感を覚える。
視線を落とす。
黒い腕時計のようなものが、 いつの間にか装着されていた。
「……なんだ、これ。」
指先で触れた瞬間。
――ピ
乾いた電子音。
小さな画面に文字が浮かぶ。
《PDA 起動》
《参加者認証中》
《参加者:遠野恒一》
《バイタル:正常範囲内》
画面が切り替わる。
《現在座標:取得中》
《脱落者数:0》
《未確定:256》
「……は?」
意味が分からない。
脱落者?
未確定?
まるで、何かのゲームみたいな表示だった。
白瀬が静かに口を開く。
「それが、この島で配布される携帯端末です。」
白瀬が淡々と言う。
遠野はもう一度、画面を見る。
《脱落者数:0》
意味は分からない。
だが、どうでもよかった。
「……なるほどな。」
適当に返す。
白瀬が少しだけ眉を動かした。
予想外、という顔だった。
「質問とか、ないんですか?」
「別に。」
遠野は立ち上がる。
砂を払う。
遠くに岩場が見えた。
潮の流れも悪くない。
「……魚、居そうだな。」
「え?」
「釣り。道具を持ってきたよな。」
白瀬が数秒、黙る。
「……ありますけど。」
「じゃあいい。」
それだけ言って、 遠野は歩き出す。
「待ってください。まだ説明が――」
「もう充分だ。」
振り返りもしない。
波打ち際へ向かう背中を、 白瀬は黙って見ていた。
《観測対象:遠野恒一》
《ストレス反応:軽微》
《行動傾向:解析不能》
白瀬は、初めて小さく息を吐く。
「……本当に、“正常範囲内”なんですか?」
誰に言うわけでもない。 ただ、波の音だけが返ってくる。
白瀬は数秒、遠野の背中を見ていた。
荷物を肩に担ぎ、 潮の流れを見る男。
まるで休日の防波堤に来た中年みたいだった。
やがて白瀬は、小さく息を吐く。
「……では、私は別行動を取ります。」
遠野は振り返らない。
「ああ。そっか。じゃあな。」
興味も無さそうな返事。
「後ほど、必要があれば接触します。」
「好きにしろ。」
それだけだった。
白瀬は少しだけ目を伏せる。
《観測対象:遠野恒一》
《精神状態:安定》
《危険度評価:測定不能》
表示を閉じる。
そのまま、 白瀬は森の方へ消えていった。
波の音だけが残る。――
「…まぁ、こんなもんか。」
持ち込みアイテムのウォッカは、 安酒ブランドの物だが充分飲める。
タバコも、普段吸っている銘柄だった。
問題は釣具だ。
ケースを開く。
「子供用セットか……。」
短いロッド。 安っぽいリール。
予備に、もう一本入ってはいるが、 どちらも本格的とは言い難い。
「……仕方ない。」
遠野は岩場に腰を下ろす。
潮を見る。
風を見る。
空気を吸う。
その時だった。
――ピ。
右腕が震えた。
黒い端末の画面が、 ひとりでに点灯する。
《周辺潮位データ 更新》
《現在時刻:04:12》
《潮位:上げ七分》
《朝まずめ予測:04:48〜05:31》
遠野は数秒、無言で画面を見る。
《周辺釣果予測:高》
「……潮位、読めるな。」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
さらに画面が切り替わる。
《周辺確認可能魚種》
《アジ》
《クロダイ》
《メバル》
「……魚種もわかるのか。便利な時計だな。」
そう呟きながら、 遠野は自然な動作で煙草に火をつけた。
遠野は、もう一度画面を見た。
潮位、時間、釣果予測。 どれも、釣りをするには便利すぎる情報だった。
「……漁協の貸し出し端末か何かか?」
そう呟いて、特に深くは考えないまま画面を閉じる。
閉じた瞬間、またすぐに別の通知が点灯した。
《簡易マップ更新》
《現在位置:東側沿岸セクターB-3》
《安全区域:未設定》
「……安全区域?」
その単語だけ、少しだけ引っかかった。
だが、それもすぐに風に流れる。 遠野は岩場に腰を落とし、タバコを咥え直した。
潮風で少しだけ煙が流れる。
それを眺めながら、どうでもいいこととして処理する。
「まぁ……島だしな。」
そういう場所なら、そういう表示もあるのだろう。
そう結論づけて終わる。
その数分後だった。
――ピ。
また、腕が鳴る。
今度は通知ではなく、短いアラート。
《朝まずめ開始まで残り10分》
遠野は一度だけ目を細める。
「……ほんとに釣らせる気満々だな。」
冗談とも本気ともつかない声。
そして、立ち上がる。
岩の上へ移動しながら、リールを軽く確認する。
その動作は、完全に“日常の釣り人”だった。
遠野は海を見ている。
まだ“ゲーム”を理解していない目で。
ただ、潮と風と、釣りのことだけを考えている目で。――
「……この道具なら、アジかメバルか。」
頼りない竿に慣れた手付きで、仕掛けを取り付ける。
波はまだ暗い色をしているのに、空の端だけがうっすらと白んでいた。
朝まずめ前特有の、時間がほどける直前の静けさがある。
遠野は仕掛けを落とす前に、一度だけ海面を見渡した。
「アジかメバル……まあ、どっちでもいいか。」
そう言いながらも、結び目は無駄がない。手元の動きだけ見れば、初心者のそれではなかった。長くやってきた人間の“癖”だけが残っている。
軽くロッドを振る。
――ひゅっ。
小さなルアーが弧を描いて、岩場の際へ落ちていく。
着水。
同時に、潮の流れがわずかに竿先へ伝わる。
「……いい感じだな。」
独り言は、海に吸われていった。
海面の奥で、小さな影が一瞬だけ翻る。
「……いたな。」
遠野の声は、少しだけ嬉しそうだった。――
――観測記録:遠野恒一(初期値)
――状態:正常範囲内
――行動結果:日常行動継続
――異常刺激:未応答
――生体反応:安定維持
――補足情報:対象は観測基準に依存しない挙動を示す
――分類:保留
――観測継続




