第二話:傍迷惑なトランジション
――潮の音より先に、声が聞こえた。
「待ってって! なんでそんな逃げんの!?」
甲高い男の声。 笑っている。 だが、笑い方がうるさい。
遠野は小さく眉を寄せた。
せっかく寄り始めていた魚影が散る。
「……最悪。」
小さく呟き、リールを止める。
足音が近付いてくる。
次の瞬間、 ひとりの女が岩場へ飛び込むように現れた。
肩で息をしている。 髪は乱れ、靴には砂が付いてい
た。
肩まで伸びた黒髪、柘榴石のような瞳。
少し重い印象を与えるが、美人と言って遜色の無い容姿をしている。
女は遠野を見る。
知らない男。 だが、人が居た。
それだけで、一瞬だけ表情が緩む。
「……ぁ……。」
声にならない息。
その数秒後、 赤い坊主頭の男が追いついてきた。
「はっや……! マジ体力あるじゃん!」
鼻ピアス。 首から小型カメラ。 場違いなくらい軽い笑い声。
男は遠野を見る。
「え、なに。釣り?」
遠野は答えない。
竿先だけを見ていた。
「つーかさ、この島ヤバくね? アンタも参加者?」
「……。」
「俺、狂犬チャン!ネットニュースとかで見たことない?結構バズったんだけど!」
「……。」
「無視?」
「……静かにしてくれ。」
「あ?」
遠野は海を見たまま言う。
「魚が逃げる。」
「は?」
チャンが笑う。 馬鹿にしたような笑い方だった。
「いやいや、人逃げてんだけど?」
「見ればわかる。」
「助けるとかないワケ?」
「……。」
遠野は一度だけ視線を上げる。 赤い坊主頭。 騒がしい声。 落ち着きなく動く足。
それだけ確認して、また海へ視線を戻した。
「騒ぐなら向こう行ってくれ。」
「は?」
「魚が散る。」
チャンは数秒、黙った。
普段ならここで相手は怒る。 睨む。 反応する。 なのに、この男は違った。
“自分”を見ていない。
チャンの眉がわずかに動く。
「……何コイツ。」
女は少し離れた場所で立ち尽くしていた。 助かった、のだと思う。 だが空気がおかしい。
遠野は彼女を見ることすらせず、淡々とリールを巻いている。
その時だった。
――コツ。
竿先が小さく跳ねる。
「あ。」
遠野の声色が初めて少しだけ変わった。
「……乗った。」
さっきまでより、ずっと感情がある声だった。
――数秒の沈黙。
潮の音だけが、岩場に残る。
チャンは一度まばたきをして、それから吹き出した。
「なにそれ!魚!?いや今そういう空気!?」
甲高い笑い声。 わざとらしく両手を広げる。
「女の子追いかけられてんの見えてた!?普通そこ、“大丈夫?”とかじゃね!?」
遠野は答えない。 ただ、竿先を見ていた。
女は息を整えながら、少しずつ後ろへ下がる。 この赤い男から距離を取りたかった。 だが同時に、目の前の釣り人も理解できなかった。
チャンはそんな空気ごと踏み潰すように、さらに声を張る。
「ていうか配信映えしそうじゃん! “無人島で謎のおっさん発見!”みたいな――」
その瞬間だった。
海面が、ぱしゃりと弾ける。
遠野の視線がわずかに動く。 潮目が崩れた。 寄っていた魚影が散る。
「……あ。」
遠野が初めて、感情らしい声を漏らした。
チャンは気付かない。 まだ喋っている。
「アンタ名前なんて――」
ガチャン。
遠野がリールを固定する音。
ゆっくり立ち上がる。
チャンが言葉を止めた。
遠野は怒鳴らない。 睨みもしない。 ただ、当然の確認みたいに口を開く。
「お前。」
「……は?」
「うるさい。」
その声音だけで、空気が変わる。
「魚が、散った。」
チャンが一瞬だけ黙る。 理解できなかった。
怒りじゃない。 威嚇でもない。
もっと別の、“釣り場のルール”みたいな温度。
遠野は続ける。
「騒ぐなら向こう行け。」
「いや、何それ……。」
「ここ、潮入ってる。」
当たり前の説明だった。
まるで、 『濡れるから雨の中で火は焚くな』 と言っているような口調。
チャンの顔から、少しずつ笑みが消える。
相手が怒れば、やり返せる。 キレれば、煽れる。 怖がれば、もっと遊べる。
だが遠野は違った。
そこに居るのに、 “反応”がない。
「……は? いや俺、別にアンタに――」
「静かにできないなら、あっち行ってくれ。」
遠野はそれだけ言って、また座る。
完全に、 “会話を終わらせた動き”だった。
チャンは数秒、その背中を見る。
雨宮も黙っていた。
波の音だけが残る。
やがてチャンは、舌打ち混じりに笑った。
「……なにコイツ。 キモ。」
だが、その声には、 さっきまでみたいな勢いが無かった。
「行こーぜ、ねーちゃん。」
女は動かない。
チャンは眉を寄せる。
女の視線は、 もう自分ではなく、 海を見ている男の背中へ向いていた。
「……ちっ。もういいよ!クソが。」
子供のような悪態をつき、チャンは岩場を離れていく。
波の音だけが残る。
遠野は何事もなかったみたいに竿を持ち直した。 数秒後、リールを巻く。
銀色の魚体が朝焼けの光を弾いた。
「……良いアジだ。」
二十センチほど。 遠野は慣れた手付きで針を外す。
女はまだ動けずにいた。
助かった。 そう思っているのに、助けた本人だけが何事もなかった顔をしている。
「食うか?」
「……え?」
「アジ。」
当然みたいな口調だった。
慣れた手付きでエラを外し、腸を取り出す。
女は数秒、言葉を失う。
「あ……えっと……。」
遠野は視線を向けない。 もう次の仕掛けを確認している。
「食わないなら別にいい。」
「あ、いえ……食べます。」
反射的に答えていた。
遠野は「ああ。」とだけ返す。
それから数秒遅れて、女はようやく、自分がまだ名前も名乗っていないことに気付いた。
「……あの、私、雨宮。雨宮澪です。」
「そうか。…遠野だ。」
それだけだった。
雨宮には、少しだけ言葉にできないものが残った。
パチパチと、音を立てながら炎が揺れる。
小枝を刺されたアジから油が垂れる度に、食欲を刺激する香りが立ち込める。
雨宮はその光景を見ていた。
会話が終わった直後なのに、
そこには“余韻”すら残っていない。
まるで最初から、
同じ場所に立っていなかったみたいに。――
――日が落ちる。
焚き火の優しい炎が辺りを照らす。
その明かりだけを頼りに簡易テントを組み立てていく。
何度も組み立てたことがあるように。
的確に、迷いなく。
雨宮の存在は、最初からそこに含まれていなかった。
思い出したかのように遠野が言った。
「火があるうちに、テント。組み立てとけ。」
雨宮は、安心に近いものを感じていた。
今は、ここに居て良いんだ。と。
それでも遠野は、雨宮を見ない。
――会話は、最初から存在していなかったみたいだった。――
――観測記録:遠野恒一(初期値)
――観測対象追加:雨宮澪 (初期値)
――状態:正常範囲内
――行動結果:日常行動継続
――異常刺激:認識せず。
――生体反応:安定維持
――補足情報:遠野恒一を対象A.雨宮澪を対象Bと分類。
――観測継続




