プロローグ:終演。或いは、開演のブザー
寒さが消え、少し生暖かい風が吹く季節。
――NEST本社の爆発事故から5年が経ちました。
遺族たちは、いまだにその映像を“過去のニュース”として消費されている。
食堂のテレビは、食欲を失くすような話題を流し続けていた。
「もう、5年も経つんだとよ。復旧作業でウチも稼がせてもらったよなぁ。」
奥の席に座る社長が、何でもないことのようにそう洩らしている。
なんて事はない日常。ただ、ひたすらに平凡な日常。だが俺にとっては──少なくとも、二ヶ月と二十九日前の俺にとっては、その“平凡”すら少し違って見えていた。
「遠野。明日は面会日だろ。今日は少し早く上がれ。銭湯でも行って、油でも落としてこい。」
社長の言葉に、俺は油まみれの軍手をはめたまま、短く
「ありがとうございます。」
とだけ返した。
胸の奥が、二ヶ月と二十九日ぶりに、ほんの少しだけ自重を取り戻す。
作業着の右ポケットには、もう指が形を覚えてしまった使い古した定期入れが入っている。
中には、去年の春、テーマパークの巨大な噴水の前で、少し眩しそうに笑う娘の写真。
明日を、ただそれだけを待っていた。
そのために、この三ヶ月、安ウォッカで胃を焼き、煙草の煙で飢えを凌ぎ、金のかからない近所の波止場で釣竿を振って、ただ時間を、ただ日常を削り続けてきた。
油の匂いが染みついた休憩室で、スマホの画面を見る。
12時50分。
予鈴を告げる工場のサイレンが、遠くで物憂げに鳴り響いた。
その直後だった。
手の中で、電子音が、ひどく無機質に爆ぜた。
液晶に表示されたのは、登録名ではなく、見覚えのある十桁の数字。
元妻からだった。
胸の奥の自重が、一瞬で冷たい塊に変わる。
なぜ、前日の、こんな時間に。
恐る恐る親指を動かし、通話ボタンを押す。
耳に当てた受話口から聞こえてきたのは、かつて愛した人の声ではなかった。
ただ事務的に、システムがエラーコードを吐き出すような、冷徹な響き。
『――恒一さん? 急に悪いのだけど。明日のこと、無かったことにしてくれないかな。』
遠くで、社長がまだテレビのニュースを見て笑っている。
作業場の奥で、冷えた鉄の匂いが鼻を突く。
世界はまだ、ひたすらに平凡な日常のフリを続けていた。
『あのね、あの子、新しいお父さんのことを本当の父親だと思い始めてるの。だから……あの子の幸せのために、もう会わないで。』
ツーツーツー、と。
機械的な音が、耳の奥でブザーのように鳴り響く。
理解が追い付かない。感情が追い付かない。血の気が引いているのか、高揚しているのかさえ分からない。
ただ、何かが弾けて終わった音がした。
「面会楽しみだな。頑張れよ。」
同僚の何気ない一言が、何よりも重く響いた。
――次のニュースです。警察は、集団行方不明事件の有力な情報を集めています。
相変わらず、食欲の失せるような話題を垂れ流している。
その後の数日間の記憶は、ひどく泥濁りしていて、断片的にしか思い出せない。
気づけばアパートの万年床の上で、夜なのか昼なのかも分からない薄暗さの中、ただ天井の雨染みを見つめていた。
鉄工所には、無断欠勤の連絡すら入れなかった。
スマホは数え切れないほどの着信で震えていたが、やがて電池が切れて静かになった。世界との繋がりが物理的に死んでいく感覚が、妙に心地よかった。
腹が減れば、這いずるようにして安ウォッカのペットボトルを煽った。
胃袋が痛烈に焼け、アルコールが脳を麻痺させる。まともな食事など喉を通るはずもなく、部屋の隅にはコンビニの安煙草の吸い殻が、灰皿から溢れて床に散らばっていた。
かつて、娘と会うための貯金を一円でも減らしたくなくて、一本一分を惜しむように吸っていた煙草を、今はただ、肺を黒い煙で満たすためだけの“作業“として、チェーンスモークし続けている。
三日目の夜だったか、四日目の朝だったか。
ふと、右のポケットに手が触れた。
指先が、その形を、厚みを、完全に記憶している“使い古した定期入れ“。
取り出し、蓋を開ける。
眩しそうに笑う娘の顔があった。
『お父さん。』
耳の奥で、幻聴が響く。
その瞬間、俺の中で何かが決壊した。
「あああああ、あああああッ!!」
言葉にならない獣のような咆哮が、喉を裂いて飛び出した。
定期入れを床に叩きつけ、踏みにじり、壁に投げつけた。安ウォッカのボトルを掴み、壁の娘の写真に向かって投げつける。プラスチックが砕け、アルコールが壁を濡らし、娘の笑顔が惨めに歪んでいく。
娘と行くはずだった劇場のチケットを破り捨てる。
泣いたのか、怒ったのか、それすら分からない。
ただ、狂ったように部屋中のものを破壊し、暴れ狂った。
――だが、それも、長くは続かなかった。
激しい嵐のあとに訪れるのは、静寂ではなく、完全な“無“だった。
体中の水分と熱量をすべて吐き出し尽くした五日目の朝。
俺は、散らかり放題のゴミの真ん中で、文字通り、空っぽの抜け殻になって横たわっていた。
もう、怒りも湧かない。
悲しみも、悔しさも、何もない。
ただ、心に巨大なブラックホールが空いたまま、心臓だけがドク、ドクと、持ち主の意思を無視して“自動的“に動き続けている。
それが、ひどく滑稽で、気味が悪かった。
ふと、床の隅に転がっている定期入れが目に入った。
あんなに憎んで、あんなに踏みつけたはずなのに、俺の身体は、また“いつもの習慣“の通りに、無意識にそれを拾い上げ、埃を払い、中身も見ずに右のポケットへと仕舞い込んでいた。
悲しみからでは無く、そう動いていた。それ以外に行動がなかった。
部屋にはもう、安ウォッカのストックも、煙草の煙もない。
ただ、静まり返った絶望だけが満ちている。
それでも、呼吸は止まらない。
心臓は酸素を脳に送り、脳は、生きようと腹を鳴らす。
「…飯買って、釣りにでも行くか。」
日常は、無邪気で残酷だ。
ただ、立ち上がる。
それが、当然の動作のように。
半額になっていた弁当で腹を満たし、通いなれた波止場へ向かう。
途中で誰かと肩がぶつかり、謝られた気がする。思い出そうとしても輪郭が曖昧だった
いつもの場所で釣糸を垂らす。
潮の匂いと、工業地帯の重油の臭いが鼻を突く。
いつも通りの、ただの日常。
生暖かい風が頬を撫でる。
当たりは無い。別に良い。こうしてないと、保てない。
何本目か分からないタバコに火を着けた所でコンビニ袋に入ったチラシに目が止まった。
――無人島でソロキャンプ気分でゲームに参加しませんか?契約金10万円!!優勝賞金最大数億円!!
※詳細は契約時に説明。途中離脱不可。
気付けば、電話をかけていた。
日常から、逃げようとしたのか。
余暇が欲しかったのか。
酒とタバコを買い足したかったのか。
理由など無く、足は指定された事務所に向かっていた。
駅前にある繁華街の雑居ビルの3階。
お世辞にも、景観が良いとは言えない場所にそのドアはあった。
安っぽいアクリル看板に
“NEST極東支部第3分署“
と書かれている。
自然な流れで、ノックもせずにノブを回す。
不自然なくらいに、軽く感じた。
「お待ちしておりました。遠野恒一様。こちらへ。」
ポニーテールにした銀髪を揺らす。聡明そうな女性だ。
案内されるまま席に通される。
「私、この度遠野様を担当させて頂きます。白瀬と申します。」
差し出された名刺を受けとる。
NEST極東支部第3分署 白瀬律
そう書かれている。
「先ほど電話でも説明させていただいた通り、このプログラムへの参加をしていただけるのであれば参加報酬として10万円。ゲームクリア達成報酬として、最大数億円の賞金をお支払いたします。」
そんな説明を聞きながら、名前を書き終えていた。
遠野 恒一と。
「ありがとうございます。参加手続き完了でございます。遠野様のゲームクリア条件をお伝えいたします。『ゲーム終了時点で、生存していること。』でございます。ここまでに何か質問は、ございますか?」
ほとんど、聞いていなかったがどうでもいい。
首を横に振った。
「では、次の説明に入らせて頂きますね。遠野様には、数日分の水分や食料と簡易テントなどの支給がございますが、携帯可能な荷物を5点まで持ち込めますがいかがなさいますか?」
そう言いながら、持ち込み物申請書と書かれた紙を渡された。
持ち込めるもの……か。
「4Lのウォッカ、タバコを持てるだけ、ライター、あと…釣具。」
白瀬が数秒、沈黙した。
「タバコを持てるだけ……ですか。まぁ、大丈夫でしょう。タバコという品目として持てるだけ許可します。あと、1点持ち込めますがどうしますか?」
自然すぎる動作で、右の胸ポケットから定期入れを出していた。
「……じゃあ、これで。」
白瀬が不思議そうな顔をしていたが、どうでもいい。
「では、良い休暇を。楽しんできてくださいね。」
その声を最後に、視界がゆっくり崩れた。
遠くでサイレンが鳴っていた。――
――観測記録:遠野恒一(初期値)
――状態:正常範囲内
――※一部、記録不能領域
――観測開始




