◆2-2
ウィルトンと様々な打ち合わせを終え、ヤズローが女子寮に戻ってきたのはもう夕方だった。玄関を開けた瞬間、主の娘の声が、いつもと全く違う感じで響く。
「『嗚呼、願わくば君の故郷が、原初の七竜に愛される地に戻るように。どうか君という華を、今この時だけ摘んでゆくことをお許し願いたい!』」
二階に繋がる階段に足をかけ、仰々しい手ぶりと共に振り仰いだラヴィリエの顔は真剣で、愛する相手に対して睦言を囁くにしては少々大き目の声で喋っている。階段前には椅子が二脚置かれ、きちんと背筋を伸ばして座ったグラナートと、椅子を逆向きにして背凭れに肘を預けた紫花が、ラヴィリエの振る舞いを見詰めていた。
ヤズローが僅かに眉間の皺を寄せている内に、次は素早く階段下にしゃがみこんだラヴィリエは、先刻とは全く違った弱々しい声音で語る。
「『――貴方はいつもそうだわ。わたしの平穏を乱していく嵐。このままこの森で、枯れ果ててゆくつもりだったのに、貴方がそうだから、わたしは夢を見てしまうのよ』」
目の前にいる男が愛しくて仕方なく、だからこそ苦しいと言いたげに。先日、ラヴィリエが図書館から借りてきた本の一節だろう。
その本には聖騎士と仲間達の間にある恋愛模様の描写が細かく記されており、彼女自身も夢中になって夜中まで読み耽っていた。すっかり台詞も覚えてしまったらしく、演技は止まらない。……まだ彼女が幼い頃、父である男爵が起きる時間も長かった頃に、よく見た風景だ。
ヤズローにはすぐに思い出せる。ベッドの上に寝転んだ男爵と、それに寄り添うように座る男爵夫人の前で、読んだ本を元に幼いラヴィリエはこうやって一人芝居をして見せた。そうすれば、父と母や使用人達が、とても喜んで笑ってくれるから。……最初はヤズローもその芝居に巻き込まれたけれど、彼女が匙を投げるくらい演技というものが出来なかった為、如何にか免除されるようになったのも、また忸怩たる思いはあるが。
「『わたしがここに留まれば、貴方は旅立つのでしょう、わたしを置いて。そしてわたしの居ない所で、血を流し、命を果てるでしょう。嗚呼、嗚呼、そんなことは耐えられない。行きましょう、憎らしき、私の愛するルグラーツェ!』」
切々と愛しい相手に対する恨み言にして睦言を叫び、魔女は虚空に手を伸ばす。その視線の先には、階段上に立っていた愛しい男の姿しか見えていないのだろう。
一瞬、しんと沈黙が降り――ラヴィリエがすっと立ち上がり、階段上で、静かに、礼。途端に響く拍手。真剣に彼女の舞台を見て、その礼で我に返った紫花とグラナートのものだ。後ろに控えていたグラナートの従者である幽霊達すら、控えめに音の無い拍手を打っている。
「うふふふ、万雷の拍手をありがとう! 楽しんで頂けたかしら?」
今までの嘆く女の顔が嘘のように、立ち上がったラヴィリエは満面の笑みで顔を上げ、今度は制服のスカートを抓み、気取って礼をした。
「ええ、悪くありませんでした。一人芝居というものは初めて見ましたが、いつの間にか物語に引き込まれてしまいましたわ。ルグラーツェが魔女を祓魔の旅に連れていくシーンが、此処まで感情を揺さぶるものになるなんて……」
ビェールィの伝統的な宗教劇ばかり見てきた、グラナートの琴線にも触れたらしい。扇で口元を隠すのも忘れ、握り締めたまま夢中になっていたようだ。
「面白かったヨ、聖騎士なんて言いながら悪い男だナ、て思ったけド。ラビー、本当に演技上手いネ! いっそ役者になればいいじゃないカ」
紫花も椅子に横座りしたままで、言い方はいつも通り冗談交じりではあるが、友人の一人舞台を楽しんだらしい。友人達に褒められて、ラヴィリエも嬉しそうに両手を頬に当てて体をくねらせている。どうやら、結界の調査中に漏れ聞いた、春の祭りに訪れるカリヨン演劇団に対して、期待と嬉しさが抑えられなくなった結果、一人芝居をしていたらしい。主の娘の楽しみを遮るつもりは決して無いが、そろそろ良い時間だ。
「うふふふふ、ふふふふふふ! 二人とも褒め過ぎよ! でももっと褒めてもいいわ!」
「お嬢様、図々しく称賛を求めないでください。本日の勉学はもう終了しましたか」
「勿論よヤズロー! でなかったらグラニィがこんな舞台を許してくれるわけがないもの!」
「わたくしに戒められなくても自覚的でいなさいな」
「ケッケッケ! でも本当ニ、楽しかったからまたやっておくれヨ」
「勿論よ! 次は聖女と戦乙女と魔女の、三人揃った対話シーンを演じようかしら! 三人だと演じ分けが難しそうだけれど、もう台詞はしっかり頭に入っているから任せて頂戴!」
「お嬢様、その記憶力を歴史上の人物名を覚える方に回してください」
「なんてこと! 正論の切れ味が鋭いわねヤズロー!」
ご尤もなことを言われてラヴィリエが仰々しく階段上でよろけて見せたので、紫花がまた声をあげて笑った。
×××
夕食後、部屋で一人机に向かっていたグラナートがふう、と息を吐いた途端、部屋の中にずっと気配を消していた霊達が浮かび上がる。
かなり年季物のメイド服を纏った彼女達は、グラナートが書き終えた手紙を銀盆で恭しく受け取り、手早く封筒に込めて封蝋を押す。遠いビェールィの、侯爵家の家族達宛の手紙だ。一巡りに一度は勉学の進捗やネージ国の状況などを綴って送っているが、今日は春祭りの劇団への招待についても付記しておいた。まだビェールィの冬は終わっておらず、山を越えるのは難しいかもしれないが、もし時間があればと言い添えて。
立ち上がったグラナートの制服を侍女達が脱がせ、部屋着に着替えさせ、髪を梳り――と何も言われぬまま滑らかに主の身を整える。長年フルゥスターリ侯爵家に仕え、その忠誠を死後も捧げることを誓った者達の成れの果てだ。
グラナートと年の離れた兄には死霊術師としての才が無く、遅くに生まれた彼女は侯爵家全体の希望となった。細い両肩には、今の家だけでなく、それに連なる死者達の命すら全て覆い被さっている。勿論重さは感じるけれど、それを投げ出すつもりは無い。
それでも――寮に帰ってきてからの一時を思い返して、そっと唇を綻ばせてしまう。弛みであると、解っているのに。ラヴィリエが見せた一人芝居は素人のものにも関わらず大変見応えがあったし、今日の夕飯でも紫花はグラナートの皿から酢漬けの野菜を浚って行った。……こんなに気安く、同じ年頃の相手と過ごすことは、生まれて初めてだった。
家の誇りと責任だけを持ってこの学院に来た彼女にとって、突拍子も無い男爵令嬢と、飄々とした南方国の平民に出会ってからは、正に青天の霹靂と呼んでもいいほどに驚愕することばかりだった。母国にいる頃は、そんな者達を周りが近づけようとしなかったし、その地位と性格の苛烈さから同年代の子女は身を引いていたし、それが当然だと思っていたのに。
あの二人がどうにも不真面目な部分を見せると、ついついグラナートは叱ってしまうけれど、どちらも本当に懲りない。ラヴィリエは笑顔で詫びと礼を言ってくるし、紫花は皮肉げに笑いながらあしらってくる。腹を立てるべきなのに――怯えたり恐縮したりせず、笑って話しかけてくれる友人というものが、こんなにも心地良いことを、この学院に来て初めて知った。
だから、無理を言っていると解っていても、父母や兄がこちらに来てくれれば、胸を張って紹介できる友人であると――そこで自分の口元が緩みすぎていることに気付き、ぎゅっと唇に力を込めた。
幼い頃から肩肘を張っている彼女が、この国に来てからそうやって刺激的な日々を過ごしていることを、幽霊の従者達も当然気づいており、どこか柔らかな空気を出しているが――こつ、こつ、と小さなノックの音が聞こえたので、一体がすうと扉を抜けて廊下に出る。少々無作法だが、主であるグラナートを守るための当然の動きだ。そして霊はすぐに戻ってきて、主の耳元へそっと囁く。
【――お姫様。シアン・ドゥ・シャッス男爵家の従者が、お目通りを願いたいと】
「彼が? ……解りました、通しなさい。上着を」
すぐに部屋着の上にガウンを纏い、椅子に座り直して扉が開くのを待つ。やがて侍女に開かれた扉の先に立つのは、間違いなくラヴィリエの従者であるヤズローだ。彼も今時分の訪問が無作法であると解っているのだろう、部屋の中には踏み込まず廊下に膝を下ろし、使用人としての礼を取った。
「夜分に、失礼致します。お目通りが叶いました事、感謝を」
「形式ばった礼は不要です。貴方の従者としての忠誠を疑ったことはございませんわ。お入りなさい」
侯爵家の息女として男爵家の従者にする対応としては破格で、侍女達がいるとはいえ夜分に男性を部屋の中に招き入れるのは、本来許されないことだ。しかし同時に、入学して以降、ヤズローが如何に友人の従者として、実力と忠誠が高いかを、グラナートが良く理解しているが故の許しだ。恐らく、主であるラヴィリエが知らず、知らせたくも無い要件であることも読んでいる。彼女ならば自分の用は従者の口を使わず、自ら言ってくる筈なので。
鳥の骨で編まれたお気に入りの扇をぱらりと開き、口元を隠して静かに頷くだけで要件を促す。ヤズローも漸く立ち上がって一歩だけ部屋に入り、閉じられた扉の前で再び跪いた。
「恥を承知で、お願いがあって参りました。お嬢様の護衛に、フルゥスターリ侯爵令嬢の従者方を、借り受けたいと望んでおります」
驚きは隠したが、グラナートは僅かに目を瞠った。彼がラヴィリエに仕えることに対する矜持がどれだけ高いかは、短くない付き合いで疑いようが無い。にも拘らず、それを曲げてまで、他者に頭を下げてまで、自分の不足を埋めようとしている。己の実力が足りないことを、誰よりも彼自身が悔しく思っているのが、床に着いた金属の拳が僅かに軋む音を立てていることで解るのに。
「……そう願う理由を述べなさい。あの、水銀の魔絡みですか?」
それ以外に理由が思いつかないまま問うたが、どうやら正解だったらしい。僅かに若白髪の頭が頷き、静かだが堪え切れぬ熱が籠った言葉が続く。
「仰る通りにございます。彼奴は未だ諦めておらず、こちらの隙を突いて学院の守りを突破する危険がございます。今、その対応をウィルトン殿と共に行ってはおりますが、その分私がお嬢様を、常に護衛するのが難しい状況です」
「神出鬼没な貴方が、其処まで言うのですか。……蜘蛛の糸を掻い潜られていると?」
ラヴィリエが呼ばなくても、気づけば何処からともなく現れる彼の動きを知っているので、グラナートも眉を顰める。彼の人間離れした感知に、あの不可視の蜘蛛糸が役立っているのは間違いないだろう。それが出来ないという事は。
「御慧眼にございます。水銀にだけ、この糸がすり抜けられている状態です。恐らく、私にこれを押し付けた蜘蛛の魔が、邪魔をしているかと。……己の短慮と無様さは唾棄するしかございませんが、それによりお嬢様を危険に晒すのは、何としても避けねばなりません」
決して使えなくなったわけではないが、肝心な時に言う事を聞かない可能性がある、というのは確かに拙い。魔が相手ならば、当然やりかねない、とグラナートも思う。油断を見せればそれを突き、骨の髄まで啜り取られる――魔とはそういうものだ。祓魔の家系として、グラナートも親や家庭教師に叩き込まれてきたし、何よりも。
「……甘く見られたものですわね。このわたくしが、友誼を結んだ相手を守ることを躊躇うとでも?」
あくまで上に立つ者として、傲岸に告げる。見縊るなとばかりに。
実際、友人にも、その従者にも、出会って以降あまりにも借りが多すぎるのだから、この辺りで返して貰わねば、侯爵令嬢としての名折れだ。故に、問う事は一つだけ。
「あの魔を退ける目途は、立っているのですね?」
否とは言わせない、と睨み下ろせば、ヤズローは確りと視線を合わせてくる。左右色が違うその瞳には、是しか浮かべていない。貴族と従者という立場の差があれど、その矜持はグラナートにとって心地良かった。己を律するために必要なものであると、誰よりも彼女自身が解っていることだから。
「――必ずや」
決意しか籠っていない視線を受け、鷹揚に頷いた。
「では、誓いましょう。グラナート・ゴールヌィ・フルゥスターリの名に於いて、わたくしはわたくしの友を守ります」
「有難き幸せに存じます。何卒、お嬢様には御内密に」
己の力が足りぬことを見せたくない、という彼の気持ちもやはり十二分に理解できた上で、ひそりと扇の下で溜息を噛み殺した。従者として、主に気取られずその平穏を守るのは、当然かもしれないけれど。
あの一見何も考えていないように見えて、人の心の機微に聡い友人ならば、とうの昔に気付いているかもしれなくてよ、という指摘は情けで飲み込んでやった。




