プロローグ2:神従の夢
ラヴィリエが、父の寝床に転がって薫陶を受けていた、ほぼ同じ頃。
国も異なる、ある田舎の片隅で、一人の男が死にかけていた。
男はその体を病に侵されており、数年前から手の施しようがないと、神官にも匙を投げられていた。そも、この村で一番の神官が彼だったので、どうしようもない。
男には息子がいた。まだ十に満たない幼い子供だ。愛する妻が命と引き換えに残した、大切な我が子だ。
その息子は、寝台に寝転んだ男の枕元の椅子に、黙って座っている。幼子である筈なのに、肌だけでなく髪も真っ白なのは母親似だからだ。父親よりも随分と赤みがかった紫色の瞳も、母の赤い瞳から受け継いだ色が混じっている。
――そう、彼の体に書いている。
男が生まれてより、持ちえた紫色の瞳には、この世界を統べる八柱神が一柱、智慧女神スヴィナの祝福が宿っている。神に祝詞を唱えて祈り、顕現させる奇跡ではなく、人の体に生まれつき持ちえる力を祝福と呼ぶ。
智慧女神スヴィナは、世界全てを文字で読み解き、全ての真理を理解してしまったからこそ、口を噤んで喋らない神とされている。様々な口伝や書物で、その瞳は美しき紫色と称された。そして、極稀に――その瞳を祝福として得てしまった人が、生まれてしまうのだ。
重い瞼を瞬かせ、狭い部屋を見回す。自分が寝転んでいるのが寝台で、天井や壁があり、枕元に息子が座っていることは解る。全て、そう書かれているからだ。全ての物は、僅かに発光する神代の文字の塊。それを読み取り、世界の理を全て認識できるのが、智慧女神の祝福だ。その文字を徒に書き換え、神の理を否定することは許されぬ罪悪である。――他国には、それを生業としている者達が生き延びていると聞くが、全くもって嘆かわしい。そう感じてしまう。男の生まれた家では、神に祈り奉じることが生きることと同義であったが故に。
だから、妻の命と引き換えに生まれた息子が、自分と同じ祝福を与えられていたことにもすぐ気づけた。そう、彼の赤紫色と書かれた瞳に、そう刻まれていたから。
また、隣を仰ぐ。息子の瞳はじっと父親を見つめている。存在は確かに在るのに、其処には全く彼の感情や意志というものが、殆ど書かれていなかった。
彼がそうなってしまったのは、己のせいだと言う負い目もある。何せ、彼の祝福は父よりも数段強く、彼の魂に刻まれていたようで、生まれてこの方産声すらあげず、今でも男は息子の声をほとんど聞いたことは無い。与えられる世界の情報を只管咀嚼するだけで精一杯で、出力まで意識が回らなかったのだろう。
そして、更に彼は、己の指でその文字を書き換える事すらできた。それは智慧女神を奉じる者としてやってはならぬ禁忌であり、迂闊にそれを成せば容易く物は壊れ、命を奪えるものである。故に、絶対にそうしてはならないと叱った。何度も、何度も。
その結果、息子は――
「……ヒヤク」
息子の名を呼ぶ。僅かに彼の視線が動くが、何も言わない。その必要性を感じていないからだ。考えていることは、全て父の瞳が読んでくれるから。動いたり、喋ったりすると、世界が壊れてしまいかねないから。
「お前にはこれから、数多の試練が訪れるだろう」
僅かに顎を引いて、息子は頷く。抵抗は無い。父の言葉が事実であると、ただ情報を読んで、理解している。
「それを助けられぬ、守れぬ父で、すまない。だが――決して、神の教えを違えず、より良い生き方をしろ。決して嘘や偽りを言葉とするな。智慧女神様の文字に、触れてはならない」
何度も伝えた教えをもう一度告げて、息子に向かって手を伸ばすと、僅かに身じろぐ。触れられるのが怖いのだろう。徒に他者に触れてはならぬと教えたのは他ならぬ男自身だ。この祝福を得た息子へ、世界は酷く脆くて壊れやすいのだと、まず教えなければならなかった。その結果、彼の心を孤独に落としてしまったことに、何の申し開きも出来ないけれど。
「私は、お前に、生きていて欲しい」
故に、それでも、伝えなければならない。
「生きて、他者と交わり、愛する者を見つけて欲しい。たった一人で、良い」
これは息子を縛る枷になるかもしれない。こんな瞳を、祝福を、呪いを受け継がせた父を、そも生まれ落とされたことを、恨むかもしれない。それでも――それでも。
息子の瞳である場所に、じわりと文字が浮かぶ。何故、と問われていることが解った。問われたのならば、応えねば。許されぬ罪を犯したとしても、未だ自分の信仰は、全ての理を世界に記し、人に智慧を授けた女神にあるが故に。
「何故なら、私は――お前の母と出会えて、幸福であったからだ」
頼むから、お前にも、幸福になって欲しいのだ。




