幕間 恋心
お久しぶりですー
リリアナは眠れない。
隣ではギルドが無防備な子猫のようにやや丸まって眠りについている。警戒心などまるでないかのように、リリアナに背中を晒している。穏やかで規則正しい寝息が、被る毛布を振動させる。
リリアナは、夜が苦手だ。【眠り姫】という特殊な基礎スキルのせいで眠りを奪われてから、夜はただ他人が寝ているのを羨ましがるだけの時間になっているからだ。複雑な心境を覆い隠すために、夜の時間は研究に溶けていった。薬学・心理学・変身の能力が込められたネックレスの使い道。どうしても耐え切れなくなったときは、毒薬を飲む。体が毒に耐性を付けて蘇るまでの時間は、眠りに近しいものに感じるからだ。
リリアナは布団に手を付いて上体を起こす。向こうを向いたギルドの顔が、窓から洩れる朝日に照らされているのが目に入った。
穏やかな寝顔だ。ほの暗い瞳が完全に閉じられている今だけは、ただの18歳に見える。出会ったときにしていた目以外を隠す布は取り払われたようで、今は顔全体が軽く日焼けをしている。前に見たときは平だった頬に筋肉が付き、隆起している。最近はたくさん笑えるようになったのだろう。
ギルドの頬にかかる黒髪をさらさらと撫でてみる。ああ、前の時よりも毛並みが良くなって毛先もととのえられているなとか、ちゃんと自分の世話の仕方をギルドに教えている人が居るんだろうなとか、そんな想像をしてリリアナは微笑んだ。
ギルドがリリアナが上体を起こしている気配に気が付いたのか、身動ぎして薄く目を開ける。リリアナよりも一回り太い腕がリリアナの肩をなぞった。ギルドは寝ぼけ眼のままリリアナの肩を抱くと、いとも簡単に腕の中に閉じ込める。
(……そういえば、ギルドって男だったけ。)
されるがままに布団に頭を沈み込ませて暫くして、リリアナはふと、我に返る。
(どうしてこうなった……?)
リリアナは、男が今自分の部屋にいて自分を抱いている現実を改めて認識し、事後であることに恐れおののく。今までのリリアナであれば、他人を自らの布団に招き入れることなどあり得なかった。リリアナは母が死んでからというもの、人という生き物に根源的な不信感を持ち続けてきたのだ。特に、王子に対しては。それが、それが、一体どうして。
リリアナを抱いたまますうすうと寝息を立て続けるギルドの顔がリリアナの脳裏に焼き付けられる。
「放せ。」
リリアナの脅すような口調に、相手は瞼を一瞬だけ震わせる。
「……嫌。」
甘えるような軽い一言と共に、リリアナを抱く腕の力がほんの僅かにだけ強められる。リリアナの強張った背中を宥めるように撫でる手は、リリアナのものより少し大きく角ばっている。
(この中から逃げたいならこの腕を振りほどけばいいだけなのに。)
王子なんて殺してやると、思っていたはずなのに。あの夜抱いた殺意を思い出そうとしてもすぐにかき消えてしまう。ギルドはまるで蛇みたいに狡猾だ。何重にもかけられた地雷原のようなリリアナの心の防御を、たったの一つも損ねることなくリリアナの傍に這い寄ってきて、今絡めとっている。
(何なのか、魅了されているのか?)
だが、リリアナに大方の魔術の類は効かないし、老婆のおかげで魅了への耐性は完璧なはずなのだ。
(どうして、どうして、どうして?)
リリアナの目に、じわじわと涙が溜まっていく。
(どうして、肌を重ねようと誘われたとき、断らなかったのか。)
今からでも遅くない、と理性が囁く。今からギルドを突き放して、今夜のことを無かったことにして、いつもの孤独な自分に戻れば。そうしたら、寂しいけれど、でも、
(……寂しい?どうして私は寂しいなんて思うの?)
正直に言ってしまえば、リリアナから見た人間など下等生物と同じだ。死ぬし老いるし寿命は短いし。その生死動向に感情の赴くまま一喜一憂しようものなら、心がもたない。
(もういいや。今はもう何も考えず、この腕の中に居よう。)
目一杯に広がるギルドの寝顔は、決して完璧なものではないけれど、美しかった。
きっとリリアナは、いつになってもギルドのことが忘れられないはずだ。何十、何百、何千年と時が過ぎようとも、リリアナはボケることも気が狂うことも死ぬこともない。今日、この瞬間のギルドをいつまでもいつまでも思い返す。ギルドがいずれ、冷たくなって、土に返って、骨すらも砂に変わった後でさえ。
『黙っておいて行かれる方の気持ち、分かる?』
ようやく、リリアナはギルドが放った言葉の意味を理解した。
「あ……」
ぽたりぽたりと涙が伝う。
「……どうした?」
「酷いよ。酷い。」
涙は留まることを知らない。
「ねぇどうして、どうしてなの?」
眠そうな顔に少しだけ驚いた表情を零したギルドに、リリアナは泣いて縋る。何十年後だとしても、このぬくもりが失われる未来は確実に来る。
「嫌!!嫌!!!嫌!!!!!それだけは、」
ずっと心に蓋をしていた思いが、零れ始めたらもう止まらなかった。
「行っちゃいやだ!!!置いていかないで!!!一人にさせないで!!!!お願い!!!!!ねえ誰か、一緒に居て。わたし、わたしは、」
「俺がいるよ。」
ギルドは子供をあやすように囁くと、その背中を宝物を抱くかのようにそっと撫でる。ギルドと同い年のただの少女に戻ったリリアナは、嗚咽をそのままに泣き喚いた。嗚咽で息苦しい中、リリアナは一つだけ分かったことがある。
(……これが恋、か……。)
ギルドはリリアナの頭を抱いて、胸に埋める。幼子に言い聞かせるように、やさしく穏やかな声音を響かせる。
「まだ時間はある。一緒に居られる方法を探そう。」
リリアナには見えなかったが、彼は困ったように、それ以上に欲しいものを手にした勝者の微笑みを浮かべていた。
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リリアナはローブを羽織って、汚れたシーツを抱えて部屋を出た。事後処理を即座に行うのはムードも何もかもあったものじゃないとは思うが、ギルドは肩を怪我している。不衛生は命取りになるのだ。
シーツを入れた水桶に水を張って足で踏みながら、リリアナは思考を巡らせる。差し当たっての事案は、ギルドの敵たちについてだ。
まずはラジア。
これはあまり気にしなくてもいい。国力は弱体化しつつあるし、目立った動きもない。
次にアストリエ王国。
これも暫くは動かないだろう。なぜならば、セノイはギルドのことをよく警戒していて、その分動きも慎重になる。王国上層部は穏健主義の無能が多いから、セノイの奇抜な作戦は彼らが抑制してくれる。あの無能共に感謝する日が来るとは思わなかったが。
そして、女神を自称する【金のカード】。
運を操るとのことが彼女の権能らしいが、一番問題なのは、『彼女がギルドの命を狙っている』ということだ。彼女が言うには、ギルドは後々金目になり、魔王になり、魔物を生み出し世界を混乱に陥れるらしい。そんなバカげた話があるか、と思う。見も知らずの相手から『この子は将来罪を犯すから堕胎しろ』と迫られて信じる親がどれだけいるだろう。
リリアナは桶の水を流して入れ直す。
まあ、この【金のカード】とやらもセマンゲロフの元に囚われている。あの変人を信じるというのもなんだかおかしな話だが、ひとまず彼が確保し続けてくれることを祈ろう。
【金のカード】が生み出した時間停止能力者の足取りはセノイが突き止めた。彼は奴隷商人だった頃のことを微塵も覚えておらず『いせかいライフ』とやらを満喫しているらしい。彼の動向や思考の変化は、セノイから派遣された暗部が常に監視している。今のところ害はないため暫くは泳がせておくつもりらしい。
だがしかし、【金のカード】の洗脳技術は恐ろしすぎる。そして洗脳だけでなく、身体を作り替えたり、よく分からない魔法を与えたり。まるで神の如き力を扱えるそれがもし、解き放たれてギルドの命を狙い始めたら。
(私はギルドを守り切れるだろうか。)
いや。守らなければ。何としてでも。何を失っても、どんな手段を使ったとしても。
(……私は怖がっているのか。)
この世で感じられる一切の苦痛は、ギルドが存在しなくなることよりもはるかにましだってことに気が付いてしまったから。
「とにかく情報は渡したいかな。」
リリアナはセノイの元で国の枢密事項に多く触れている。その中にはギルドがエルドラの王子として知りたいことも多く含まれているはずだ。だがしかし、老婆の殺人魔術を解除しないことには、リリアナはセノイを公には裏切れない。いくら裁量権を多めに与えられているからとはいえ、何がセノイの逆鱗に触れるか分からない。
シーツを乱雑に絞って、物干し台に掛け、風通しを良くしようと窓を開けた。茜に染まりかけた空、そこに一番星が見える。その星はだんだん大きく、羽音を響かせながらこちらへ近づいてくる。窓辺に浮かぶ、小さな紙でできた文鳥はリリアナを見つけて飛び込んできた。
クラリスから送られてきた手紙だ。リリアナが目の前に浮かぶ文鳥を指先でつつくと、鳥は羊皮紙に姿を変えて降ってくる。
「お姉さまへ
親愛なるお方の体調は全快されました。
同じ病に罹られる恐れは生涯ないでしょう。
またお顔などを見せてくださいませ。
お姉さまを心からお慕い申し上げる妹より」
おばあさまに掛けられた、彼女の命を奪う魔術をクラリスが解いたという内容だ。つまりリリアナは、セノイに縋って老婆の延命を乞う必要はない。
(セノイはおばあさまを懐柔して心酔させてはいるけれど。それはもうどうしようもない、と見限るしかない。まあ育てて貰った恩くらいは返せたかしら。)
あとは素直に行方をくらませればいい。
読み終えた先から光の粒子となって消えていく手紙をリリアナは涙がちに見送って、笑顔を綻ばせる。クラリスから贈られた文章を二度三度脳内で反芻し、リリアナは涙を拭った。
「それにしても、上手い事書いたわね。」
この文章であれば、万が一何某に見られたところでただの手紙だと思うだろう。
「姉として、誇らしいわよ。」
洗濯物がはためいて、茜の光が銀髪と紫の目を照らす。リリアナは身を翻すと軽やかな足音を立てながら、ギルドが寝ている寝室に向かった。
「ギルド、起きている?」
布団の上で寝転んでぼんやりしていたらしいギルドは、ドア前に立ったままのリリアナを見て自分の隣のスペースを軽く叩く。リリアナは首を横に振って拒否すると、緊張気味に両手を握る。
ギルドは身を起こして、ベッドに腰掛けた。
「どうかしたのか?」
心底心配そうなギルドの表情。それは、死んだとおもっていたら実は生きていた人間に対する態度にしては、余りにも優しすぎる。
「あなたは私の記憶を抽出して見ることのできる魔術を持っているでしょう?それを使って私の記憶を知ってほしい。」
ギルドは黙した。何故リリアナがその魔術の存在を知っているのか理解し難かったからである。確かに、リリアナにはリリアナの記憶をリリアナに見せる魔術を行使したことがあるが、王家の持つ魔術の全てを把握できるはずがないのだ。
ギルドが是も非も示さずにいると、リリアナは半ば諦めたような投げやりな口調で事実を零した。
「私がレンタル元王子様をしていたと言えば分かるかしら?」
殺気を纏わせたギルドに、リリアナは諸手を挙げて抵抗の意志がないことを示す。
「貴方が死に立ち会ったヘンダーソン公爵、あれは私が演技していた。セノイの指示でね。」
セノイの名を聞いて、ギルドの額に深い縦皺が刻まれる。その心底心配そうな目が怒りと嫌悪をはらむ前に、リリアナは言葉を継ぐ。
「もう操り糸は切れた。その件も含めて口で説明するのも難解だろうし、どこにあなたが欲しい情報が隠れているか分からないから、魔術を使って確認したらいい。」
リリアナは頭の横に掲げた両の手をゆっくり下ろした。
「貴方を一人にしてしまった事、生きているって伝えられなかったこと、許せないって気持ちが残っているでしょう?」
リリアナは演技が出来る。だけど、本心をありのまま打ち明けるのは苦手だ。
「許して今まで通りに接してほしいって乞う気はない。」
淡々と事実だけをと思うのに、言葉に余計な感情が乗って。
「ただ、」
リリアナは自分の呼吸が早くなるのを感じた。それを抑えて、笑顔を作って、ギルドに向かって両手を広げて優しく微笑む。
「ただね、私、例え廃人になっても、あなたの役に立ちたいんだ。」
くしゃっと笑って、凍りついてしまったギルドの空気を溶かしたかった。けれども少し上手く行かない。
「……なれないかもだけど。」
ギルドは黙ってベッドの上に座って、肘を膝の上において、大きめな服の袖からはみ出た細い指を組んでいた。左手の薬指の根元を反対の指で押さえて、まるでそこにはない指輪を回すようにねじる。
「あの傀儡の魔術のかかった指輪は君が渡してくれたのか。どうりであの公爵に違和感を感じた訳だ。」
一つだけ呟いて、ギルドは再び黙する。その表情が険しくなったり、寂しげになったり、苦しそうになったりと揺れ動くのをリリアナはただ見つめていた。
長いこと逡巡していたギルドはようやく、彼の荷物の中から外した腰のベルトを探る。ギルドの体内にある魔力器官は半壊してしまったから、もうギルド一人で王族にまつわる魔術を展開することは出来ない。ベルトの中から短刀を手繰り寄せ、その竜の意匠の頭に触れる。今までため込んできた魔力が必要量以上にあるのを確認して、リリアナを振り仰いだ。
「おいで。」
ギルドが片手を伸ばすと、促されるままのリリアナがその手に触れて、二人はベッドへ腰かける。
ギルドは淡々と、幼い子を診る医者のような口調で言った。何を考えているのか分からない、それでも怒っている風ではない事だけは確かなようだった。
「目を閉じて。」
目を閉じたリリアナの頭を、ギルドは自分の肩に持たせかける。
「『夢開き 胡蝶の舞』。」
ギルドの丁寧なエルドラ語が、魔法の起動を指示する。
「『この者の記憶を』」
ギルドは一瞬迷って、短刀を握る手に力が籠る。
「『詳らかにせよ』」
(/ω・\)チラッ




