22. あなたが笑顔でいてくれるだけで 後編
「お、おはよう」
「お、おはよう」
翌朝からクラスメイトが私に遠慮がちに話しかけるようになった。気を使ってくれていることが嬉しいような申し訳ないような気持ちだった。そんな中で、玲菜ちゃんは普段通りの激しい言葉使いのままで私に話しかけてくれた。最初は何気ない雑談からはじまり、班分けやクラス行事のグループ分けにも積極的に誘ってくれて、いつの間にか一緒にいることが自然になっていた。
そうして中学一年生が終わる修了式の日。来年は別のクラスになるかもしれないと思い寂しい気持ちになった私は、最後まで教室に残って玲菜ちゃんとお話をしていた。外は夕暮れ時でそろそろ帰らなければならない時刻。なんとなく会話の間が空いたその時、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「横石さんって、あの学級委員の問題があった後、どうしてずっと私と仲良くしてくれたの?あの時助けてくれただけでも十分すぎるほど嬉しかったのに、なんだか申し訳ないなって思ってた。もちろん今は『友達』だと思ってるよ」
そう告げると横石さんは少しだけ目をつぶって考えた後、凛とした笑顔を見せて答えてくれた。
「あたしはね、心に決めたことがあるんだ」
「心に決めたこと?」
「関わるなら責任もって全力で関わり抜くこと」
「最後まで全力で……」
「ああ、だから嫌われたとしても話しかけ続けるつもりだったんだぜ?お前が気が合うやつで良かったわぁ」
それが玲菜ちゃんの芯だった。関わることから逃げ続けていた私は、その在り方が眩しくて羨ましかった。そして、その憧れに少しでも近付きたいと願い、ほんのひとかけらの勇気が胸に生まれた。
「うふふふ、じゃあ私も全力で関わらないとね、『玲菜ちゃん』」
「な……!お前なんだよその呼び方!恥ずかしいからやめろよ!」
「だ~め。あと、『お前』って言うのも禁止ね。今度から返事しないから。『さえちゃん』って呼んでね」
「さ、さえっ!?いやいや無理だって!」
「玲菜ちゃんって滅茶苦茶可愛いんだから、乱暴な言葉使いしてたら勿体ないよ。もっと女の子っぽい言葉を使おう」
それから一年以上かけて、玲菜ちゃんを時間をかけて調教、じゃなかった説得し続けた結果、まだ少しきついけど女の子らしい言葉使いに矯正することができた。
修了式から家に帰ると、お母さんは買い物に出かけていて私一人だった。胸に生まれた勇気のかけらに導かれるように、私は使われていない防音部屋に入り、放置されていたピアノへと近づいた。
辛い気持ちが蘇ってくるかと思ったけれども、まったくそんな気持ちは感じられなかった。蓋を開けて、人差し指で鍵盤を恐る恐る叩いてみた。綺麗な単音が部屋に鳴り響く。他の鍵盤も押してみるとどれも綺麗な音色を奏でてくれた。ピアノは何故か調律されていた。お母さんがメンテナンスし続けていたことを、後で知った。
ほとんどの曲はもう覚えていなかったけれど、小さい頃大好きでたくさん弾いていた曲ならまだ弾けるかもしれない。そう思った私はうろ覚えながら指を動かしてみた。思い出しながらゆっくりと弾きだすと、体が覚えていたのか徐々に指が自然と動き出した。
楽しかった。そしてそれ以上に昔と違ってスムーズに指が動かないことがもどかしくて悔しかった。
いつの間にか夢中になってピアノを弾いていた。そうしてようやく気付いた。私はピアノが大好きだったのだと。
お母さんが喜んでくれるから弾きたかったというのも嘘じゃない。
でも、今ここには誰もいない。自分が弾きたいから弾いているだけ。
小さい頃のピアノを弾いていたころの気持ちが蘇ってくる。
私はこんなに大好きなことを捨ててしまっていたのかと後悔した。
「小枝子?」
あまりにも夢中になっていたからか、お母さんが帰ってきたことにも気付かなかった。お母さんは驚いたような表情で私がピアノを弾く姿を眺めていた。
「お母さん、おかえり」
「もう……大丈夫なの?」
あのコンクールの日から、お母さんは私に何度も何度も謝った。失敗をしてしまったのは、お母さんを悲しませてしまったのは私なのに、どうしてお母さんが私に謝るのかが理解できなかった。私が謝っても『小枝子は悪くないのよ』の一点張り。コンクール直後は『期待した私が馬鹿だった』とでも言われてるのではと感じたことすらあった。
ただ、お母さんが私のことを心から心配してくれていることはすぐに理解した。だから私が悪くないというお母さんの言葉は、私が気に病まないように気遣っただけの言葉なんだろうと思った。そしてコンクールの話をすると逆にお母さんが気を遣うだろうと思って、言葉の真意を何も聞けないでいた。これも一種の逃避だったのだろう。
『関わるなら責任もって全力で関わり抜くこと』
私は玲菜ちゃんに願った。ピアノからも、お母さんからも、自分のトラウマからも、逃げ出さずに関わる勇気を下さい、と。
「お母さん、あのピアノコンクールの後、どうして私に謝ったの?」
「悪いのはお母さんで、小枝子は悪くないから」
ここからもっと踏み込もうと決意した。この言葉の裏には何もないかもしれなかった。私を責める気持ちがあるのかもしれなかった。それでも、知らなければ前には進めない。
「でも失敗したのは私だよ?お母さんは何も悪いことしてないよ?」
「失敗しても良かったの」
「え?」
「お母さんはね、小枝子に楽しくピアノを弾いて欲しかっただけなの」
「で……でもコンクールに出るってことは賞を取って欲しいってことだったんじゃないの?」
「いいえ、小枝子に一緒にピアノを楽しめるお友達が出来ないかなって思ったから参加を勧めたの」
……友達?
お母さんは私に期待してなかったってこと?
ううん、違う。そもそも賞を取るとか取らないとかそういう話じゃなかったんだ。
確かに『お友達が出来ると良いね』って言われた気がする。
「お母さんはね、小枝子が笑顔でいてくれるだけで良かったの。それなのに逆に笑顔を奪う結果になってしまって……本当にごめんね……コンクールに出ようなんて言い出さなければ……」
酷い勘違いだった。期待されていると勝手に思い込んで、期待を裏切ったと勝手に思い込んだ。お母さんはただ単に私が楽しんでいることを喜んでくれていただけだった。
「……お母さん、私、またピアノ弾き始めてみる」
「小枝子?」
「今日弾いてみて、やっぱり楽しかったから!」
お母さんとちゃんとお話しようと思った。
私が抱えていた思いと、勘違いの内容を全て。
ちゃんと話をして明日からまたピアノと向き合って楽しもうと心に誓った。
コンクールもいつかまた出てみようかなと思った。人前に出られるか分からないけど、『期待を裏切ることへの恐怖』はもう感じないはず。だってお母さんは私が楽しくピアノを弾くことを期待してくれているから。
こんなに楽しいんだから、裏切るはずがないもの。




