20. あなたが笑顔でいてくれるだけで 前編
私が生まれた時から、私の家にはピアノがあった。お母さんが小さいころ、お祖母ちゃんに買ってもらったものだ。小さい頃の私はお母さんが弾いてくれるピアノの音色が大好きで、何度も何度も弾いてほしいとせがんだらしい。2歳とか3歳の頃の話なのでもちろん私は覚えてないけれど、お母さんが教えてくれた。
そんな私がピアノを弾きはじめたのはいつ頃からだっただろうか。幼稚園に通っているときにはもうピアノを弾いて遊んでいた覚えがある。私がピアノを弾くとお母さんが喜んでくれて、それが嬉しくてまたピアノを弾いて……そんな日々が小学校に入ってからも続いていた。ピアノを弾くことが日常になっていた。
ピアノが上手になればもっとお母さんが喜んでくれる、だからもっともっと沢山弾いて上手くなりたい。そう思った私は、自分で言うのは恥ずかしいけれど、どんどん上達していった。
小学五年生になったとき、お母さんからピアノコンクールに出てみないかという話があった。コンクールで賞を取ればお母さんはもっと喜んでくれるかもしれない。だから必死になって練習してコンクールに出ようと思った。
コンクール当日、控室では同世代の女の子が沢山居た。不安を隠せずお母さんにしがみついている子、自信満々でワクワクしている子、何を考えているか分からないぼぉ~っとした表情の子、自分とは全然違うタイプの子達が自分と同じくピアノが弾けるということが変な感じだった。
ふと、一人の女の子がお母さんにしがみついて、わんわん泣き出した。
「失敗したら先生に怒られるよぉ~」
この言葉を聞いて不安そうになった女の子が他にも居て、控室の中が少し暗い空気になった。
先生って学校の先生?どうして怒られるの?
『先生に怒られる』という意味が分からなかった私はこっそりお母さんに聞いて、学校の先生ではなくてピアノの先生のことだろうと教えてもらった。失敗したら厳しいピアノの先生に怒られると思うと怖くなったのだろうと。
そして知ってしまった。
ここにいる女の子達は、ピアノの先生に教えて貰ったとても上手な人ばかりなんだと。
そんな上手い子達と、好きで弾いていただけの私が戦おうと思っていたことを知り、恥ずかしくなった。そして同時に猛烈な不安が押し寄せてきた。
自分が他の人と比べて圧倒的に下手だったらどうしよう。お母さんをがっかりさせてしまう。
それまで楽しみで待ち遠しかった演奏までの時間が、地獄への道のりに思えて全身の震えが止まらない。そんな私を見てお母さんが何か声をかけてくれるけれども全く頭に入らない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
この言葉が呪いのように頭を駆け巡っていた。
そうして迎えた本番。私は震える足でステージに向かい、かろうじて椅子に座ることはできたものの、頼りのお母さんの姿を求めて客席の方を見てしまい、大量の顔が目に入った途端に不安が爆発して意識を失った。
それ以来、私は多くの人の前に立つことが出来なくなってしまった。恐怖で足がすくんで何も出来ないまま倒れてしまうからだ。更には相手が一人であっても緊張して上手く話が出来なくなってしまった。仲が良かった友達とも徐々に疎遠になり、中学に入ってからは人と距離を取るようになった。
そんな私を変えてくれたのが玲菜ちゃんだった。
玲菜ちゃんは中学一年生の同級生だったけれども、一学期の間はほとんど話をしたことがなかった。それなのに玲菜ちゃんは私を助けてくれた。今でもあの時の玲菜ちゃんの格好良さは忘れられない。
それは二学期になって、新しい学級委員を決めるときのこと。立候補者は誰も居なくて、推薦も角が立つので誰も行わない。クラス会議で誰も発言が無く沈黙が続く良くある光景。そして早く帰りたいクラスメイトは、これまた良くある発言をした。
「成績が良い人が学級委員やれば良いんじゃないの?」
友達を作れなかった私は時間がたっぷりあったのでちゃんと勉強をしていてクラスでもトップクラスの成績だった。そして二学期ともなると誰が成績が良いかは一学期のテストの結果から周知の事実であった。すなわち、わたしに白羽の矢が立ってしまったのだ。
もちろん私は人前に立つことができないので学級委員なんてやることはできない。それなのにクラスメイトは良い解決案を見つけたかの雰囲気で私で決まりのような発言を次々と繰り出してきて、先生もその流れに乗ってしまった。
誰一人として悪意は無かった。
『押し付けてしまった形になる日向さんには申し訳ないけど、成績良い人がやるのが普通だから仕方ないよね』
それを誰もが正しいと信じ、私もそう思って納得してくれると純粋に信じている。この流れでやりたくないと発言すればまるで私が異端者であるかのように感じさせてしまう。とはいえ、実際そう感じさせても良かった。人と距離を置こうとしているのでクラスで浮いてしまっても良かった。
だけれども、すでに体はクラスメイト全員から直視されているという現状に硬直してしまい、否定の言葉を告げることすらできなかった。
どうしよう、困った、このままじゃまた、倒れちゃう……
「てめえら好き勝手に押し付けようとしてんじゃねーよ!」
これが私と玲菜ちゃんの『はじまり』だった。




