第11話 「大人って、よくわからない」
第11話 「大人って、よくわからない」
カーニバルは、二週間続いた。
あたしの人生の中で、これほど密度の濃い二週間はなかったと思う。毎日何かが起きて、毎日何かが始まって、毎日眠れなかった。でも不思議と眠くならなかった。眠くなるのを忘れるくらいアドレナリンがドバドパ出てたんだ、きっと。そのくらい刺激的な毎日だったんだろう。
初日の開幕式典が終わった翌朝から、カナレ・グランデの水上パレードが始まった。
ヴェネルーナの「大運河」と呼ばれるそれは、街の中心をS字に蛇行する幅の広い水路で、普段はまっ黒い木の胴体に赤い飾り布だけのゴンドラが行き来している。
でもカーニバルの期間だけは、全部が別物になった。
船体の黒い木が見えないくらい花で覆われていた。水面すれすれまで赤や白や黄色のバラが垂れ下がって、ゴンドラが動くたびに水面に花びらが散った。船縁には金とシルバーのリボンが何重にも巻かれていて、朝の光に当たってきらきら揺れた。船頭のゴンドリエーレは普段の黒い服ではなく、全身を絹と刺繍で覆った礼装を着込んで、帽子に羽根を差していた。
そのゴンドラに乗っているのが、また凄かった。
一艘ずつ、テーマが違った。
花嫁衣装をまとった女性たちが白いバラを撒きながら流れていく船。全身金色の衣装を着た人々が金の楽器を演奏しながら進む船。深い青と銀の衣装に身を包んだ一団が、無言のまま静かに水上を進む、海神の行列を模した船。子供たちが天使の衣装をまとって菓子を撒く小さな船。
そのゴンドラのパレードが延々と続く間、両岸は人で埋まっていた。
あたしは警備の持ち場から動けなかったけど、その分、何度も往復するパレードを最前列で見ることができた。
「きれい……」
思わず声が出た。
『お前、警備中だぞ』アルディラがボソッと呟くのが聞こえた。
「わかってるわよ」慌ててあたしは口をつぐんだ。
でも目だけは、水面から離れなかった。
三日目には「天使の飛翔」があった。
サンティ・マルク広場の鐘楼から、天使に扮した女性がロープで広場に降下してくるという伝統行事だ。
鐘楼は高かった。
首が痛くなるくらい見上げないと、てっぺんが見えない。ヴェネルーナで一番高い建造物で、晴れた日には遠くの海まで見渡せると聞いた。その頂点に、白い小さな影があった。
音楽が変わった。
低くて厳かな、弦楽器の重奏。広場の喧騒が、静まっていった。
白い影が動いた。
ゆっくりと、ゆっくりと、鐘楼の頂点から降りてくる。ロープに吊られているのに、まるで本当に飛んでいるみたいに見えた。風が白いドレスと大きな羽根飾りを揺らして、細い足が宙に浮いている。
小柄なエルフ族の女の子だった。
まだ若い、白い肌に尖った耳。ドレスはシンプルな白で、余計な装飾がなかった。でもその分、本人の透き通った美しさが全部出ていた。この世のものじゃない、まるで本物の天使のような厳かで、清廉な輝き。
広場に降り立った瞬間、数千人が一斉に歓声を上げた。
天使が微笑んで、両手を広げた。
あたしは鳥肌が立った。
「すごい……」
『子供が落ちたら危なくないか、あれ』
「そういうことは言わなくていいの」
あたしはいじわるなことを言うアルディラの宝玉を、わざと裏返しにしてやった。
七日目は「マリアたちの行進(フェスタ・デッレ・マリー )」だった。
歴史的な衣装をまとった人々が街中を練り歩くもので、これはコンテスト形式になっていた。
衣装の種類だけでも百は超えていたと思う。中世の貴族から、古代の神官、民族衣装、神話の登場人物。笛や太鼓の楽団がその前後を固めて、街じゅうの石畳が音楽と足音で震えた。
沿道の人々も黙って見ているだけじゃなかった。窓から花を投げる。走ってきて一緒に踊る。知らない人と肩を組んで歌う。ヴェネルーナの人たちは、踊ることと歌うことと騒ぐことを、息をするみたいに自然にやった。この人たちは、きっとこの祭りのために一年を必死に生きて働いて、一年分のエネルギーを溜め込んでいるんだろう。
行進が終わると、投票で決まった最優秀者が壇上に上がった。
今年選ばれたのは、数百年前のヴェネルーナの女公爵を模した衣装を着た中年の女性だった。精巧な刺繍と宝石の重さで、立っているだけで大変そうだった。でも彼女は誇り高く胸を張って、壇上から広場を見渡していた。
その顔が、本当に誇らしそうで、あたしはなんか胸が熱くなった。
あんまりぼーっとお祭り見てばっかりいると、偉い人に怒られちゃうかな。仕事だ、仕事!
で。ここからが本題。うちのママのお話です。
カーニバルの後半に行われた、「ドージェの舞踏会(イル・バッロ・デル・ドージェ )」。
会場となったのはこの街の総督、コルヴィーノ卿の邸宅。
街の中心にあるその邸宅は、白い大理石で作られ、青い屋根で彩られた尖塔付きの三階建ての広大なものだった。壁には大きな窓が数多く取り付けられていて、風通しと採光が第一に考えられている。もちろんデザイン上も非常にオシャレだった。
しかもその窓の一つ一つに豪奢で緻密な彫刻が刻まれている。両翼棟も当然大きく、こっちにもしっかりと彫刻が刻まれていた。よく見ると、その彫刻はみな『本を抱え、翼の生えたライオン』だった。大きいものから小さいものまでいる。
後で聞いたら、これがヴェネルーナのシンボル、『聖マルクの有翼の獅子』らしい。本は福音書を示し、閉じている本は力を、開いている本は平和を意味するそうな。とにかく、でかい上にお金のかかったお邸だなーってあたしは単純に思った。
庭も広大で、様々な花や樹木がしっかりと手入れされ、美しく緑に輝いていた。
さらに邸宅の中は、外からは想像できないくらい広かった。
高い天井にはフレスコ画が描かれていて、シャンデリアの蝋燭が何百本も灯っていた。床は磨き込まれた大理石で、歩くたびに靴音が響いた。壁には金縁の絵画が並んでいて、等身大の肖像画が廊下を埋め尽くしていた。
舞踏会の参加者は、全員が仮面をつけていた。
でも開幕式典の広場と違うのは、ここにいる全員が本物の上流階級だということだった。衣装の生地が違う。宝石の大きさが違う。立ち方が違う。
あたしは総督の指示で、舞踏会用に近衛兵風の青い制服に衣替えさせてもらっていた。胸に金の装飾が入って、三角帽に白い羽根飾り。マントで隠した腰にアルディラ。カラスマンよりだいぶ「ちゃんとした護衛」に見えた。
『カラスマンよりは、この会場に似合ってるな』
「ママがアレだからね。お姫様の護衛がカラス男じゃ合わないでしょ」
その日のママは、白だった。
初日の深紅と黒のド派手なドレスとは正反対の、清楚な白一色。
でもスケールは変わっていなかった。
フープパニエで膨らませたスカートはやはり巨大で、シルクとビロードが何層にも重なっていた。光の角度によって白にも淡いピンクにも見える生地で、ゆっくり歩くたびに裾が別の生き物みたいに動いた。白いビスチェは肩を大きく開けていて、ママの雪みたいに白い肩と鎖骨が露わになっていた。
胸元には、大きなエメラルドと銀の細工を組み合わせたネックレスが揺れていた。緑の宝石と白い肌の対比が、息をするのを忘れるくらい綺麗だった。
頭には白いヴェールとリボン、白い水鳥の羽根飾り。
仮面はパールで彩られた白いレースと銀糸のコロンビーナ。
まるで花嫁みたいだった。でも花嫁より、もっと静かな美しさだった。
「……ほんとに、なんで毎回こんなに綺麗なんだろう」
あたしは素直に思った。嫉妬する気にもなれなかった。
舞踏会が始まると、招待客が次々にコルヴィーノ卿へ挨拶に来た。
でもコルヴィーノ卿への挨拶が終わると、多くの人がそのままママの周りに流れ込んでいった。他国の貴族も、高名な商人も、仮面の向こうから目を細めてママに話しかけた。ママはそのひとりひとりに、ふんわりとした口調で、でもちゃんと品のある返事をしていた。
「何も考えてないんだろうな、たぶん」
あたしは遠くから眺めながら思った。でもそれが逆にいいのかもしれない。打算がないから、自然で、温かくて、嘘がない。みんなそれを感じるのかもしれない。
『あいつ、本当にドージェの嫁になっちゃうんじゃねえか?貴族社会では、第二夫人・第三夫人がいるのも別に変じゃないんだぜ』
「それはマジで困る。あたしの冒険が最初の街で終わっちゃう」
あたしは心配な目で、壇上にいる大輪の花のようなママを見た。
舞台のオーケストラが、メヌエットを奏で始めた。
コルヴィーノ卿がママに手を差し出した。
ママがその手を取った。
ふたりが舞台へ進むと、他の客が自然に道を開けた。
メヌエットは、形式的で規則正しい踊りだ。細かいステップを正確に踏んで、パートナーと一定の距離を保ちながら向き合い、近づいては離れる。技術が必要で、崩すと途端に格好悪くなる。
ママとコルヴィーノ卿は、最初から息が合っていた。
ステップが正確だった。距離感が美しかった。ふたりが向き合う瞬間の、微妙な視線の合わせ方が優雅だった。
招待客が静かに見守り始めた。
曲が変わった。
ゆったりとした、流れるような四拍子に変わった瞬間、ふたりの距離が近くなった。
スローフォックストロット——とアルディラが後で教えてくれた。ひとつひとつの動きが遅くて滑らかで、でも止まらない。フロアをゆっくり滑るように進んで、回って、また進む。ふたりの影が大理石の床に長く伸びた。
「…ママって、こんなのどこで覚えたんだろ」
『さあな。もともとどこかの貴族の出かもしれねえ。俺と出会った頃から、謎の多いヤツだったからな』
そんなママを、あたしは見ていた。
あたしの知らないママを、ずっと見ていた。
舞踏会の音楽も、蝋燭の光も、他の招待客の衣装も、全部視界の外に消えて、ふたりだけが見えた。
曲が終わった。
コルヴィーノ卿が片膝をついて、ママの手の甲にゆっくりとキスをした。
あたしの胸が、ぎゅっとした。
なんでか、うまく言えない。嫌なわけじゃない。でも、なんか。
ぎゅっとした。
最終日の夜には、花火が上がった。
カーニバルのクライマックスを締めくくる花火大会は、カナレ・グランデの水面に向けて打ち上げられるものだった。
夜の運河の上で炸裂した花火が、水面に色とりどりの光を映した。金、銀、紅、青、緑、紫——それぞれの色が水面に広がって、また消えた。あたしは橋の上から柵にもたれて、上の花火と下の水面の両方を見ていた。
「きれいだな……って、あたしずっと『きれい』と『すごい』しか言ってないね」
『…人間が本当に感動した時は、言葉なんて出ねえもんだ』
アルディラが静かに言った。こいつがこんなことを言うのは珍しかった。
カーニバルが終わって、依頼の報酬を受け取った夜。
宿の部屋に戻ったあたしは、ソファーにどっかり倒れ込んだ。
「疲れた。でも最高だった」
「そうねぇ。ママも楽しかったわぁ」
ベッドに腰掛けて、ママが言った。すでに部屋着に着替えていて、いつものふんわりした顔に戻っていた。
そりゃそうでしょうよ。あんだけ目立てば。
ママは最高に輝いていた。おそらく会場の誰より。
あたしはしばらく天井を見ていて、それからぽつりと言った。
「ねえ、ママ」
「なあに」
「コルヴィーノ卿に求婚されてたじゃん。舞踏会のあとも、なんか話し込んでたし」
「あらあ、見てたのぉ」
ママがくすくす笑った。
「心配してたんだよ。ここで結婚してヴェネルーナに残るとか言い出したら、旅はどうするのって」
「うふふ。そんなわけないでしょぉ」
ママはあっさり言った。
「ママはアプリちゃんと旅するのが一番楽しいもの。フランチェスコさんのことは嫌いじゃないけど、あの人は奥さんがいるし、ああいうのはね、この街のお遊びよぉ。みんなわかってやってるのー」
「……えー、そうなの…?……大人ってよくわかんない」
「大人になればわかるわよぉ」
「ふんだ。あたしは大人になんてなりたくないもん」
「あらあら、どうして?」
「うーん。なんか、わかりたくないから」
ママはまたくすくす笑った。
「そうね。わかりたくないことは、今はわかんなくていいわよぉ。アプリちゃんのペースでいいの。焦らないで、のんびり行きましょうねー」
あたしはそれを聞いて、なんとなく少し楽になった。
「それとね」ママが続けた。「フランチェスコさんがね、お礼にって、商隊の護衛依頼を紹介してくれたのー!」
「どこへ?」
「ボローネン。ここから南西に、三日くらいの街よ」
ボローネン。あたしは地図を広げた。
内陸の食の都。ボロネーゼパスタ発祥の街。パルミジャーノ・レッジャーノという長ったらしい名前のチーズで有名。
「受ける受けるっ!」
あたしは即答した。
「食の都でしょ? 絶対行く!」
『俺は食えないんだがな』すかさずアルディラのボヤきが入る。
「あんたは黙ってて。ねえ、出発はいつ?」
「三日後って言ってたわぁ。それまで少しゆっくりしましょうね。報酬もそこそこ貰えたし、ボーナスまで頂いちゃったから」
「ボーナス? なんで?」
「うーん、なんでかしらぁ。ただでヴェネルーナで一番美味しいスプリッツってお酒と、一番大きなチーズをくださったから、ありがたく頂いてきたわぁ」
ママはにっこりした。
「ママの大好きなチーズ? わぁ、見たい見たい!見せて!」
「ちょっと待ってねぇ。クローゼットに入れてあるの」
「な、なんでクローゼットに?臭くならない?」
「でもでもー、冷暗所がいいらしいわよぉ」
ママが言うままにクローゼットを開けると、頭よりも大きなアジアーゴ・チーズの塊が、ドレスの横に鎮座していた。ここヴェネルーナからほど近い、アジアーゴ高原で採れる牛乳から作られたセミハードタイプのクセのないチーズらしい。ハチミツをかけて食べると美味しいと聞いた。だけどクローゼットで保管する、とは聞かなかった。
「で、でかっ!!」
クローゼットの中にチーズって聞いたことねえな』
「この旅のほんとの主役はお酒とチーズなの!?」
「チーズもお酒もアプリちゃんも、どれもママにとっては大事なのよー」
「同列で言わないでよ!」
ヴェネルーナの夜は、こうして更けていった。
三日後の朝、あたしたちはコルヴィーノ卿の商隊に合流した。
見送りに来たコルヴィーノ卿は、先日の舞踏会の煌びやかな姿とはうって変わって、地味な旅装姿だった。それでも背が高くて品があって、なんとなく絵になる人だった。
「エストリオール。またいつかヴェネルーナに来てください。私はいつでも歓迎しますよ」
「お世話になりましたぁ。フランチェスコさんも、お元気で」
「あなたと過ごした舞踏会は、生涯忘れることはないでしょう」
「まあ、ありがとうございますぅ。フランチェスコさんはとっても素敵な方ですわぁ」
ドンピシャで受け流しながら、でも相手を傷つけない。あたしにはぜったいできない技だった。これも伝説の暗黒騎士のなせる技なのか…?
ゆっくりと、馬車が動き出した。
あたしは窓から手を振った。コルヴィーノ卿が深々と頭を下げるのが見えた。
ヴェネルーナの街が少しずつ遠くなった。水路と橋と石造りの建物が、朝の光の中に溶けていった。
「ねえ、ママ」あたしは向かいに座ったママに言った。
「なあに?」
「ヴェネルーナ、楽しかったね」
「そうねぇ。次の街も楽しみねぇ」
ママが、外を見たまま微笑んだ。
「どんなお酒が飲めるかしらー」
「結局お酒なの!?」
あたしはそれを聞いて笑った。胸のあたりが少し軽くなった気がした。
馬車は南西に向かって、ゆっくりと走り始めた。




