第3部.次世代へ 3-45.最終講演
つくばに戻った淳一は、初日の出登山の際に仙人が言った言葉が頭の中に何回も浮かんできた。自分なりにあれやこれやと解釈を試みてはみたものの、考えを纏めることはできず、仙人に直接会ってきちんと説明してもらいたいという願望が日増しに強くなった。
3月中旬の暖かな日に、淳一は予め買い求めておいた赤ワインをバッグに入れると、最寄り駅まで歩き、TXに乗り込んだ。
『食堂大丹波川』にはまだ誰も客は来ていなかった。店主に仙人が来るかどうか尋ねてみた。
「仙人は、去年の後半くらいからここに顔を出すことが随分と減ったような気がしています。いつもなら、聖滝さんが来るのを敏感に察知して、今の時刻にはあの席に座っているはずなのですけど。もしかしたら、今日は顔を出さないかもしれません……」
「そうなんですか……。実は今年の元旦に仙人に案内してもらって大岳山で初日の出登山をしたんですが、その帰り道、仙人が随分と疲れていた様子だったので、ちょっと心配になっているんです」
「確かに私も同じようなことを感じています。入り口の引き戸の開け方や店の中への入り方などの動作が以前と比べると滑らかではなくなってきたように見えるんですよね……」
「……。どうされたんでしょうね」
二人はしばらくの間、押し黙ったままになった。
引き戸が力なく動き始めた。待ち人が非常にゆっくりと中に入り、いつもの席に座ってから一息吐いた。
「今日は聖滝さんの方が早かったようですね」
「はい。この店に入った時、仙人がいらっしゃらなかったので、今日はお話しできないかもしれないと思いました」
「もう少し早く来たかったのですがね……、体が付いてきてくれなくてね」
淳一は返す言葉が見つからず、店主に料理を注文することで紛らわせた。
「今日は私が赤ワインを持ってきました。とにかく乾杯しましょう」
「いやー、有り難い。ここまでボトルを運んでくるのさえ億劫になってしまって、今日は手ぶらできてしまったのです。助かりました」
ワインを一口飲んだ後、淳一は仙人の方に向き直って自分の希望を伝えた。
「実は、正月に初日の出を見に行った時、仙人が言われた『我々はDNAを継承中なのだ』という言葉が頭から離れなくなってしまいました。この言葉は以前一度仙人からお聞きしていました。それで、これまで仙人に教えていただいたいろいろなことを思い出しながら自分でその意味する所を明確な概念にしようと何度かトライはしてみたのですが……、そこに辿り着くことはできていないのです。今日は仙人にきちんと教えていだこうと思って、ここに来たというわけです」
「なるほど。確かに聖滝さんに整理した形でお話したことはなかったですね。少々長くなるかもしれませんが、思い残すことがないようにお話しましょう」
「お願いします」
淳一の言葉に静かに頷いた後、仙人は瞑想状態に入ったように見えた。淳一は大学を退官する著名な教授の最終講演を聞くような気持でじっと待った。
「いくつかについてはこれまでにお話しした内容ですから、重複する所もあるでしょうが、先ず、非常に大雑把に地球と生物について確認しておきましょう」
仙人の話が始まった。淳一はメモを取る準備をしてから一言も漏らすことのないように集中して聞き始めた。
「宇宙の年齢は150億年くらい、太陽系の年齢は46億年くらいとされています。太陽系はあと50億年程度で赤色巨星化した太陽によって加熱されて蒸発し、外惑星を残して最後には星間空間にガスとして散ってしまうのではないか、と考えられています。
太陽系の誕生直後、太陽の周りに漂っていたのは塵とガスの雲だけでした。そのうち塵やガスはくっついて岩となり、その岩は互いの重力によって合体を繰り返していき、やがて太陽系のいくつかの惑星が誕生したのです。地球も同じで、岩やガスが合体を繰り返していき、中心にある核、その外側の岩石から成るマントル、マグマオーシャン、それを包むようにしていた原始大気ができたと考えられています。
40億年前になると、大陸地殻の形成が始まり、原始的な生命が誕生したようです。27億年前には以前お話した強い地球磁場が発生し、酸素発生型光合成生物が深海から浅い海へ進出できるようになったのです。19億年前に初めて地球上の8割以上の大陸が一ヶ所に集まって超大陸が誕生し、7億5千万年前から5億5千万年前には海水準の低下がおきて陸地面積が増大し、硬骨格生物が出現しました。その後5回もの生物の大量絶滅があったことは以前お話ししましたよね。そして、5百万年前から4百万年前くらいに、アフリカで人類の誕生があったとされているのです。つまり、人類の出現は長い地球とその上で育まれてきた生物の歴史の中では、本当にごく最近の出来事に過ぎないのです」
「本当に一瞬の出来事と言っても過言ではないのですね」
淳一は改めて新参者としての人類の立ち位置を確認させられた思いであった。
「地球の生物に関しては7つの大きな出来事があったとされています。1番目は、さっき言った原始生命の発生で、約40億年前のことです。2番目は、38億年前から35億年前、海の深い所にある中央海嶺軸部の熱水活動が活発な場で原核細胞であるバクテリアが出現しました。その後、地磁気のバリアに囲まれたお蔭で、太陽から発せられるDNAを破壊する高エネルギー粒子が地球表面に届かなくなり、生物は浅い海でも生きていけるようになったことで、27億年前には太陽エネルギーを使って酸素発生型の光合成をする生物が現われたのです。これが、3番目の出来事です。
4番目は21億年前の真核細胞の出現です。光合成が活発になるにつれ、大気中の酸素分圧は増えていきます。そうなると、それまで生体には毒であった酸素を積極的に有効利用する酸素呼吸型生物群が現われてきました。そして、DNAが酸化され難いように内部にさらに核膜を備えた真核生物へと進化していったようです。
この生物群はその後の地球表層を支配して生物界は急速に多様化したのです。生物は酸素を利用することと複数の細胞が共生することとによって大型化することが可能となり多細胞生物が出現したのです。これが10億年前に起こった5番目の出来事で、以降の生物進化にとって決定的に重要な変化を与えたと言われています。
6番目は硬骨格生物の出現で、5億4千4百万年前頃のことです。この生物は硬い殻を破って中身を食べる強力な捕食動物でした。このような摂食行動を可能にするためには、高性能センサーや情報を処理する能力があったり、俊敏な運動能力を保持していたり、機械的破壊装置または殻を溶かす化学物質分泌器官を保持していたことが想定されるのです。
その後の動物の多様化はめざましく、先カンブリア時代と比べ多種類の新型生物が短期間に急激に出現しました。このことは、『カンブリア紀の爆発』と呼ばれていることを以前お話ししました。
7億5千万年前頃から急速に増加した酸素は、大気圏から外へ洩れはじめ、4億5千万年前になるとオゾン層が生まれたそうです。これは宇宙からの強い紫外線を遮り、その結果、それまで水中から出ることができなかった生物の中で先ず苔類などの植物が、それを追いかけて動物が陸上に進出しました。4億年前頃になると、シダ植物が陸上に広く繁るようになり、森林が地球上に初めて形成されるようになりました。このような表層環境の変化にともなって脊椎動物の中から両生類が現われ、また節足動物の中からは昆虫類が一気に多様化したとされています。その後、爬虫類が出現し、2億5千万年前から2億1千万年前に哺乳類の祖先が出現したようです。さらに、動物では卵生や胎生というより確実な世代交代の機構を獲得していきました。また植物では、シダ植物から裸子植物が出てきた後、被子植物も台頭してきたのです。
そして最後の7番目の出来事が人類の誕生です。人類は500万年前から400万年前にアフリカで類人猿から分岐したと考えられているのです。約40億年前に地球上で誕生した原始生命は、その後の度重なる劣悪環境にもめげず生き続け、とうとう人類にまで進化したのです」
ここまで話すと仙人は大きく息を吐いた。表情には明らかに疲れの色が見て取れた。
数分間目を閉じていた仙人は自分自身を鼓舞するように軽く頬を叩いてから話を続けた。
「ところで、『進化』という言葉なんですが、この言葉は『生物が新たな環境に適合できるように自分自身で合目的的に変わっていく』というような意味で捉えられることもかなりあるようなのですが、本当はそれ程都合よく進むものではないのです。次世代に遺伝子を継承する際、ほぼ必ず遺伝子上の変異がいくらかは起こってしまいます。その変異が生命を維持していくのに都合が悪くなければ、何事も起こらなかったかのように過ぎていくでしょう。もし、生命の維持が難しい変異だった場合、その個体は生き残ることができなくなります。環境に適合している度合いが大きい変異が起こったものほど生き残り易くなり、次世代への継承が容易になります。要するに、生き物たちは環境という『篩』に掛けられて選別されていくのです。そういう現象が次々と重なっていって、最も環境に適合し易い生物種が生き残っていくのだと考えられるのです。それを『進化』と捉えれば良いと私は考えています」
仙人は淳一に異論がない様子であることを確認してから、次の話題に移った。
「爬虫類である恐竜の絶滅後、哺乳類の多様化が進んだようです。その流れの中で、哺乳類のひとつが猿類に進化し、その中から人類の原型となる猿人がアフリカに現れたのです。人類進化の大きな流れは、古い方から猿人、原人、旧人、新人へと進化したと考えられているようです。人類は長い間アフリカ大陸の中だけで暮らしていたようです。約百万年前になって原人がアフリカを脱出したのですが、その後、現生人類以外は絶滅してしまったと考えられているのだそうです。
我々現生人類は、ミトコンドリアDNAとY染色体の解析により約20万年前から10万年前にアフリカで誕生した単一種であるという説があるようです」
仙人はここで一区切りを付けるように、再び沈黙の時間を設けた。
淳一が集中して聞く準備ができたと判断した仙人は結論と考えている内容について話し始めた。
「さて、これまで地球と生物に関してお話した内容を認識した上で、我々がどう生きていくべきかを考えてみたいのです。聖滝さんもお気付きのように、私の体力は急速に衰え始めてきています。今日は、私の考えをあなたにしっかりと伝えることができる唯一の機会かもしれないと思います。理解に苦しむようなことがあれば、どうか遠慮なくその都度質問してください。話の腰を折っても構いません」
仙人はじっと淳一の目を見た。自分の期待している何らかの確信が淳一の表情から読み取れた様子で、本題を話し始めた。
「この途轍もなく広大な宇宙の中で、中心から見れば僻地と表現してもよいような場所に位置する銀河系の中にある太陽系の一惑星に過ぎない地球の上で、本当に運良く生命は誕生しました。その後、分化し進化してきた生命の一つである人類は、地球上での生命の大きな流れの中で育まれてきたものと考えても良いと思います。人類はせいぜい5百万年前から出現してきた生物であり、現生人類に至っては20万年程度しか生存していない新参者なのです。しかし、人類が保有している遺伝情報は40億年もの間、紆余曲折しながら脈々と繋がってきたものだと思います」
仙人と淳一は、実際には『食堂大丹波川』の中にいたのであったが、二人の精神はどこか特別な時空に漂っていた。
小一時間が経過した。
仙人の考えの真髄が淳一にしっかりと受け継がれたところで、二人は現実の世界に戻ってきた。
岩茸石仙人は、自分の考えを淳一に伝え切ったという安心感と、体力と知力とを振り縛った極度の疲労感とから、カウンターの上に突っ伏したままになった。しばらく経つと、淳一ばかりでなく店主までもが心配そうに仙人を見つめた。我慢できなくなった淳一が仙人の肩にそっと手を置いて言葉を掛けた。
「仙人、大丈夫ですか?」
ようやく薄目を開けた仙人は爽やかな表情で応えてくれた。
「いや、随分とご心配をお掛けしてしまったようですね。私は大丈夫です。体は疲れましたが、気持ちは晴れやかです。ずっと誰かに伝えたいと思っていたことを聖滝さんにお話することができましたから」
そう言うと、仙人は残っていた赤ワインを口に含み、心からその味と香りとアルコールの魔性とを楽しんだ後、一歩一歩確認するような足取りで店を出て行った。




