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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第3部.次世代へ 3-44.初日の出登山

 それから1年後の2009年12月13日の日曜日、淳一夫婦、真理夫婦、それに裕子の5人で菩提寺に集まり、チヨの三回忌を催した。親族へのお誘いは前年に実施した一周忌までと子供たちで決めていたので、本当に小ぢんまりとした法事になったが、亡き母と心を通わせることがしっかりとできたように感じられた。

 淳一はチヨの三回忌を無事済ませると、母に関する儀式に一区切り付けられたように思い、しばらくご無沙汰していた『食堂大丹波川』に行って岩茸石仙人に報告とお礼を言わなければならないという気持ちが強くなった。


 数日後、淳一は本当に久しぶりに仙人の隣に座り、淳一が持参した高価ではなくても十分に美味しい赤ワインを楽しんだ。

「そうですか、お母さんの三回忌も無事済ませることができましたか。良かったですね。しかし、聖滝さんも随分と長い間、あの病気と闘い続けたのですね」

「はい、本当に長かったと思います。私がこの店で仙人とお会いしたのが、1990年10月でしたから、もう20年近くも前のことです……。でも、ここで仙人とお話しすることができたお蔭で、非常に長期に渡る苦闘を乗り越えることができたのだと思います。さらに、2年前には勤めていた会社も無事定年退職できました。これについても、随分と仙人のお言葉に助けていただいたと思っています。本当に有難うございました」

「いやいや、そんなに感謝していただくようなことを私はしてはおりません。この店で聖滝さんと一緒に安くて美味しいワインを心から楽しんでいただけですよ」

「そんなことはありません。仙人には本当にいろいろな機会にぴったりのアドバイスをいただいたと思っています」

「もし、聖滝さんが本当にそう思っていてくれるとしたら、それは私の言葉ではなくて、人類が継承してきた知識や経験の蓄積が聖滝さんの心を捉えたのだと思います」

「そうなのでしょうかね……」

 淳一はしばらくの間、目を瞑って仙人から発せられた言葉の深い意味を理解しようと考えてみていた。


「聖滝さん、私はあなたが思っているような人生の達人なんかではないのです。私の人生は間違いと反省とで埋め尽くされていると言っても良いようなものだったのです」

「ちょっと信じられませんね。仙人は達観されていて、俗物的な私たちとは全く違う世界に棲んでおられると思っています」

「いや、とんでもない。私はいわゆる普通の人でした。家族、特に妻子には本当に申し訳ないことをしてきた、と反省しています。当時の私は、妻やそれぞれの両親や子供たちに対して、相手のためになることを『してあげている』という意識でした。『しなくちゃいけない』とか『やりたくなってしまう』という意識で行動していれば、今のような寂しい一人住まいなどしなくても良かったかもしれないと思っているのです」

「もし可能であれば、もう少し私にも理解できるようにお話していただけないでしょうか?」

「そうですね、そのうちお話しする機会ができるかもしれませんが、今の私はこのことに関してまだ他の人にお話しできるような境地には達していないのです。残念ながら今からではもう取返しが付きません。本当に寂しいものです……」

 仙人はそう言った後、自分だけの世界に嵌まり込んでしまったように淳一には思えた。


 しばらく仙人の邪魔をしないようにしていた淳一であったが、この場の雰囲気を少し変えてみたいと思った。

「私の父母は50年以上も連れ添ってきて、人生の最後に待っていたのが、認知症とその介護というのでは、あまりにも酷(ひど)いような気がしてならないのです。母には訊くことは無理だったかもしれませんが、父には本音でどう思っていたか訊いておくべきであったかな、とも思うのです」

「そですね。聖滝さんのお父さんがどういうふうにお答えになったか興味を持ちますが、私は、聖滝さんが案じている程お父さんはお母さんのことを恨んだり憎んだりはしていなかったように思います」

「そうですかね?」

「結婚してからあまり時間が経過してない時期には、夫婦間で障害となる問題が生じた時、離婚などでそれぞれが別の道を歩むこともあり、そうした方が将来のお互いのためには良い結果に繋がることも十分にあることでしょう。しかし、50年以上もの長い間夫婦として生活してきた二人には、当事者しか理解できない貴重な思い出の数々が若い人たちには想像できない程あるのではないかと思います。二人が何らかの理由で別れなければならない事態に遭遇した時、あの時はこういうことがあった、この時はこうだった、というふうに二人で積み重ねてきた経験は、他の人には共有することができない、夫婦だけの記憶として信じられないくらい沢山存在していることに気付くのです。このことは夫婦のみならず大切な子供たちや親など、家族に関しても言えることなのです。私は家族と離れて暮らしているうちに、遅ればせながら気が付いたというわけです。そして、『覆水盆に返らず』なのです」

 そう言うと仙人は再び沈黙してしまった。


 しかし、今度は数分経たないうちに仙人の方から言葉を発した。

「ところで、聖滝さん。今度の大晦日から元旦にかけて、初日の出を拝みに大岳山(おおたけさん)に登りませんか。ご両親に関して一区切りついたところですから、良い機会になるのではないかと思いますが」

「そうですね。連れていっていただきたいですね。実は私はまだ初日の出登山をした経験がないので、是非やってみたいです」


 2010年元旦、JR青梅(おうめ)線の御嶽(みたけ)駅前からケーブル下行きの終夜運転臨時バスに乗り、麓の滝本駅から特別運行していた御岳登山鉄道のケーブルカーで御嶽山駅まで登り、そこから山頂にある武蔵御嶽神社方向に向かって歩き出した。まだ日が昇る前の真っ暗な山道を、頭に付けた明かりを頼りに仙人と淳一は黙々と歩いた。

 そのうち辺りは少しずつ明るくなってきて随分と歩き易くなった。淳一の歩みがやや早くなってきたのに気付いた仙人が口を開いた。

「聖滝さん、そんなに焦らなくても十分間に合いますからペースを元に戻しましょう。汗をかいてしまうと、今は良いのですが、山頂で待っている間、寒くて仕方なくなりますよ」

 淳一は頷くとゆっくりとした歩みに変えた。先ほどまではかなりの数の人たちが周りを歩いていたが、ほとんどは御嶽山神社への初詣か日の出山からの初日の出登山に流れていったようで、この時二人から窺える範囲にはごく限られた人数しか確認できなくなっていた。

 淳一は今までの暗さが一気に吹き飛ばされていくように感じ、白んでいく空に今にも太陽が顔を出してしまうのではないかという不安が心の隅に頭をもたげてきた。それでも、仙人に注意された言葉を思い出し、努めてゆっくりと歩いた。

 周りの山々がはっきりと見えるようになってから二人は大岳山山頂に到着した。そこには数十人程の人が既に来ていて、思い思いの場所に陣取ってこれから始まる一大イベントを静かに待っていた。

「あそこから見ることにしましょうか」

 仙人が指で示したのは、山頂下の道から少し上がった所で傾斜が緩そうに見える場所であった。そこにリュックを下し、それぞれが持参した折り畳み式の小さな腰掛を広げて座った。

 周囲はどんどん明るくなってきたが、なかなか太陽は顔を出さなかった。一日のうちの最低気温を記録する時間帯になり、寒さが厳しくなった。淳一はゆっくりと歩いたはずであったが、かなり汗をかいてしまっていたようで、肌着の内側がだんだん冷たくなってきた。それでも、予め仙人から注意を受けていた手前、言葉には出さずに寒さを堪(こら)えた。


 そして、その時を迎えた。それまで遮られていた山の稜線を超えて太陽の最上部が現われた。その場に居合わせた登山者たちは神々しいような美しさを放つ2010年の最初の太陽の光を大きな感動を持って味わった。

 それからしばらくの間、二人はただただ黙って太陽が主役の一大イベントの観衆となっていたが、突然、仙人が話し始めた。そして、『我々はDNAを継承中なのだ』という言葉が再び淳一に伝えられたのであった。


 新たな年を初日の出登山という感動的なイベントで始められたとの思いで、淳一の山下りの足は軽かった。一方、仙人は重い足取りで、時折先に歩いていた淳一が足を止めて仙人が追いつくのを待つことがあった。

「仙人らしくないな。こんなに体力がない状態だとは思ってもいなかった」

 淳一はそう呟いた。

「仙人、お疲れのようですが、大丈夫ですか?」

「はい、何とか。私も皆さんには『仙人』などと言われていますが、本当はただの老人です。最近、急に体力が低下してきたように感じられるのです」

「そんなことはないでしょう。今日は偶々疲れが出ただけだと思いますよ。まあ、ゆっくり下りましょう」


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