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13時間目

『中庭』



記憶の残照が未だに加奈の中に澱みのように渦巻いて留まる。まるで刮げ落とすのが難しい錆だった。自分と周りの齟齬が明白になるにつれ何でこんな記憶があるんだと癇癪をおこした二度目の「生」のようだ。



加奈は相変わらず迫り上がる吐き気に符呪学を休むことにして重い身体を寮へと引きずっていた。


決壊した記憶の濁流に頭が衝き上げられるような痛みを孕む。等間隔で襲ってくるそれにしゃがみ込んでは立ち上がり、立ち上がっては歩みを進めてまたしゃがみこむ。その繰り返しは周囲に酷く不可解に見えただろう。



しかし加奈に周りの視線を慮る余裕はなかったし、運の良いことに今は講義中で校舎を歩く生徒の姿は殆どいなかった。廊下から寮の自室までの最短距離の中庭を通り抜けようと一歩踏み出し、再び襲ってくる痛みを耐えるためしゃがみこみ耳を塞いだ。


吹き抜ける風に中庭の草花は揺れているだろうに最早加奈の耳は耳鳴りの音しか拾わない。無数の蚊が耳元の奥で羽ばたいて膝に押さえつけれる眼の裏にも無数の虫が這いずり回っているようだった。


また迫り上がる酸を呑み込む。

いっそのこと吐き出せば楽になったが、廊下や庭で吐いた吐瀉物をそのままにするのも後ろめたくできなかった。袋や何か持っていればそこに吐き出せば良いのだろうが残念ながら加奈が持っているのは教科書がはいった薄い鞄だけでそこに吐き出すのも躊躇う。


それならば、と一番気を緩めれる自室まで戻ろうと決めたのだ。ふらふらする足取りでも人間やればなんとかなるものだと知っている。


感謝すべきはフラッシュバックしたのが映像だけで、痛みなどの幻覚を伴なわなかったことだ。この情況に過呼吸にも襲われたらそれこそ加奈は誰も眼のつかないような翳るどこかの隅で一日蹲っていたことだろう。



漸く乗り越えた胃の暴走に加奈はふらつく足を叱咤して立ち上がろう春先の青々とした芝生に手をついた時だった。加奈の様子を心配して学生が声をかけてきたのは。



「どうしたんだ?」

『どうしたんだ?』


どこまでも無邪気な声に戦慄した。途端に震える身体を守るように強く両腕で抱きしめる。吐き気でじんわりと滲んだ汗が滴になって顎を滑って加奈は恐れを抱いた。


なんで、こうも体調が悪いときに立て続けに元凶に出会ってしまうのだろうかと眩む頭で考えた。どうしよう。右往左往する心と微動だにしない身体は余りにも隔たりがあって容量を超えた全てにとうとう喉が、狭まった。



「一年生か?体調が悪いのか?」

『一年生か?魔力が少ないのか?』


声に導かれて一番奥の記憶の扉がこじ開けられそうになって、加奈は呻いた。フラッシュバックするのは良い。だけど、ダメだ。この声は、ダメだ。耳も無理矢理腕で塞ごうとして。



「あれ先に行ってるんじゃなかった?って、どうしたのその子」


『こんなとこで何してるの二人して』


「誠か。この子なんだか具合が悪そうなんだ」


『後輩が魔力が少ないって悩んでるんだ』


次いで甲高い耳鳴りを割って聞こえた声に膝を抱える腕に力を込めた。声の主は顔を確認しなくても容易に判断がついた。暴君の鷲野と調教師の雉羽だ。


汗で濡れているだろう背中に視線が降り注いでいる気がしてならなかった。甦る記憶に唇をかんでやり過ごそうとした。



気にしないでどこかへ行って欲しい。早くここを立ち去って。縋り付くように神様へと願う。中庭の芝生の上で蹲り続ける中でふいに喚び起こされそうになるあの酩酊感に加奈は過ぎ去りかけた吐瀉感がまた性懲りもなくこみ上げた。早く早く早く。



(あなたたちの声に耐えきれる程、いまの私は強くないんだ)



ちっぽけなそれでも直向きな願いはやっぱり思った通りに叶うことはなくて。目の前にしゃがみ込んだ気配に背中を震わせた。それが鷲野か雉羽か判断はつかない。


だけど加奈は近づいてくる気配に固く閉じていた両目を見開くと伸ばされていた大きな掌が今まさに自分に触れようと、していて。急性魔力中毒。死んだ記憶がまた降りかかりそうで。




「触らないでっ!」




思った以上に庭に響いた叫びは憎たらしい程に青い空に吸い込まれていって。それはまさしく甲高い咆哮だった。



肩で荒い息を溢す加奈に驚いたのだろう鷲野から伸ばされた掌がぴくりと一度跳ねて目の前で止まる。その掌を睨み付けて、逃げるようにさがる。スカートの尾尻のあたりが芝生に擦れて音をたてたけれど加奈は鷲野の掌へひたすらに集中していた。



伸ばされた、掌。この掌に加奈は欺されて死んだのだ。魔力がないのだと愚痴る加奈の頭を慰めるように掻き回したこの大きな手に裏切られて加奈は死んでしまったのだ。



悪気があったのか、なかったのかそんなことは関係なくて。ただその死のみが真実だった。



昔に体内に取り込んだ見知った魔力に胃液が口の中にまで広がって。咄嗟に呑み込みきれなかったそれはびしゃりと芝生に血飛沫のように飛び散った。


つん、と不快な吐瀉物の饐えた臭いに顔を歪め次々に喉元まで迫り上がってきた内容物をもう吐かないようにと口を押さえた。こうでもしないと臭いにつられて全て吐き出してしまいそうだったからだ。



ぐるぐると唸る、聞くに耐えない自分の声に生理的に涙で視界が滲む。人前で吐いたという居たたまれなさに鼻水まで垂れてきそうだ。べちゃり、嫌な味がする口を必死に動かして。



「・・・すみません、お目汚しを」


「気にしないで。それよりも吐けるなら吐いておいた方が良いと思うな」


ごしごしと目元を拭い、鷲野と雉羽に告げる。雉羽は立ったままだったが吐いた私の横に並んでそっと背中をさすってくれた。


その手を振り払おうか迷ったが芝生を汚した自分の吐瀉物を見下ろし、どう掃除すれば良いんだろうと考えることを先決にした。芝生だから掃除しなくてもぎりぎり大丈夫だろうか、そんなことを痛む脳みそで考えて。混ざった胃液に焼かれた喉を震わせる。



「今吐いたので気持ち悪いの、・・・大分よくなったので。あの、・・・すみません」


嘘だった。

今日二回目につく綺麗な嘘だった。心配して声をかけてくれたことに本当は感謝しないといけない立場だったがそもそもこの体調の悪さは鷲野も絡んだ昔の記憶たちのせいだ。そう思うと彼を推し量る気持ちなんてちっとも沸いてこなかった。


風が、吹いて。饐えた臭い。呑み込んだ筈の胃液混じりの吐瀉物がまた口の中にしつこく広がって。ごくり、飲み干した瞬間。



「嘘は良くないな」


「・・・ぅあっ」


砕かれてしまうのではないかと勘ぐる程の強い力で顎を掴みあげられる。頬骨にまで喰い込むそれに否応無しに俯いていた顔が上げられる。目に映る鷲野はどこまでも無邪気な笑みを浮かべているくせに、半円を描く唇がどこか恐ろしくて。



「わたしはお前に避けられたことがこれまでにない程に傷ついたがそれは赦してやりたいと思うんだ。可愛い後輩だものな。やはり赦してしまう」


浮かべられたどこまでも綺麗な笑みに逃げたいと叫ぶ心に耳鳴りが響く中、「やめてください」喘ごうとして、うっすらと開いた唇の隙間を無機質な異物が無理矢理にこじ開けて侵入してきた。それは目の前で止まっていた掌から伸びていて。



「だけど嘘をつかれるのだけは例外なんだ」


「・・・っ~!!・・・・!!!!」


まるで仕置きとばかりに嘘を吐いた舌を押さえつけ口腔内を太い二本の指が勝手気儘に蠢き自分の意思の外にあるそれを咄嗟に咬んだ。にも関わらず蹂躙する指はちっぽけな反抗を歯牙にも掛けず歯列を気紛れになぞり奥へ奥へと進んでいく。扁桃腺を掠めたそのとき、とうとう加奈はこみ上げた吐き気に盛大に嘔吐くことになった。



指が抜かれるのと、吐き出した、ほんの少しのタイムラグ。



「ほらな!やっぱり大丈夫じゃないじゃないか」


明るい鷲野の声と加奈の苦しむ声が中庭で混ざって響く。からからとした笑い声にぼたぼたと涙が零れたけれど拭うことすらせず胃の中が空っぽになるまで嘔吐し続けた。喉が焼けて、痛い。



「・・・鷲野、女の子にそれは少し間違えてる気がするんだけど。……やっぱり一回調教しとこうかな」


「ん?なんでた?」


「とりあえず鷲野にはデリカシーを学ぶことをお勧めするよ。君が人間であろうとするならね」


ずっと背中をさすり続けてくれているらしい。呆れたような雉羽の物言いが確かに聞こえてはいたが吐くことに必死だった加奈は実際の所彼らがどんな会話をしているのかよく分からなかった。


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