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12時間目

『渡り廊下』



寮の自室からでると、耳に入る情報は全て新入生歓迎会に纏わる話ばかりだった。

どうやら夜の交流会にネスト全員が姿を現したらしい。うっとりしただの風格が違うだのと周りは褒めそやすが、小耳に挟んだ瞬間ほど安堵したのは自分以外にいないだろうと胸を撫で下ろす。



(無自覚フラグ回避とはやるな…!)


誰も褒めそやしてくれない自分を褒めそやしつつもこの後にある符呪学の講義で千歳に何か言われるのは確実だ。体調を崩して出れなかったと誤魔化せば良いかと頭の片隅で考えていたら「平井!」弾けるような呼び声に廊下を進む足を止めた。




「なんですか長元坊先生」


顔に影がかかる。振り返るとどうやら聞き慣れた声はやはり長元坊だったようだ。余り好きでない彼に思わず淡々と反応してしまうが加奈のその態度はどうやら彼にとってはいつも通りに見えたらしい。昔は好感持ってたんだけどなーと頭を掻く彼を見て思う。彼方此方と定まらない視線にさっさとしろと軽く睨みつけると降参したように最後に焦点を加奈に静かにあわせた。



「…あー、杉宮からお前が交流会に参加してないって聞いてな」


「ああ。そのことですか」


「体調崩したんじゃないかと少し気にかかってな。大丈夫なのか?」


「大事を取っただけですのでお構いなく」


「そ、そうなのか…」


なんてことのない、交流会に参加しなかったことを咎められる。いや、正しく咎めているわけではないことを滲み出る態度から分かってはいたが千歳にする言い訳をまさかこの人に言うことになるとは。口を開きかけたは良いが踏ん切りがつけず口篭った長元坊を見上げる。


じいっと見てくる加奈に長元坊がまたなんとも言えない表情を浮かべてくるが、よくよく彼の性格を思い返して加奈は(ああ)となんとなしに合点がついた。左手首につけた時計がシャツにすれる。



「別にズルしたみたいで行きづらかったとかじゃないですから。長元坊先生のせいじゃないですよ…というかこの歳になってまで他人に責任を転嫁させようなんて仕向けないで下さい」


明るく聞こえるように、自然に聞こえるように。気後れをしてしまうなら早く決着をつけてしまおう。抑揚をつけて言おうそう思ったのに想像以上に平坦に放たれた言葉たちに息がつまったらしい。長元坊の切れ長の瞳が見開かれた。



長元坊先生の、クセ。


(しまった)なんて思うくせ予想通りの結果に薄く笑った。長元坊のクセ。死んだ後の死ぬ前。保健室に度々顔を出しては引きずり出そうとした彼と過ごした時間はどうしても容易に気づかせる。どうしようもないし、それをどうにかしようなんて欠片ほど持ち合わせてはいない。


保健室を心に闇を持つ生徒が流れ着く肥だめとでも勘違いしていたんだろうか。程度の差は異なるとしても同じ闇を背負っていると勘違いした長元坊はそれはそれは巧妙に闇をもって闇に接してきたのだ。しかしそれ故に、死を繰り返し必然的に身についた加奈の観察力が暴きたくないだろうものまで見抜いてしまったのだ。



微動だにせず淡々と見上げる自分が長元坊の瞳にはさぞかし気味悪く映っているだろう。加奈にとって長元坊との関係は全部足せば一年以上の付き合いなのに、長元坊にとってはたった一ヶ月の数コマの講義でしか接していない生徒にしかすぎないからだ。


面識もほぼない人から、自分が一番隠したいものをあっさり暴かれるほど気味が悪く訝しがるものはない。



帳が降りるみたいな。急に落とされた一瞬の沈黙に左手首の時計を見ると講義の時間の五分前を指差している。次はあの厳格な赤松の符呪学の講義だ。遅れたら何を言われるか分からない。



「…あの、長元坊せんせ、…」


ふいに影が遠ざかって。明るくなった視界に顔を上げて、加奈は先ほどよりも後悔を深くした。この場を早々に立ち去ろうと紡がれかけた音が乾いた喉の奥に落ちていく。


長元坊の愕然としたその青い顔に滲み出た深く慄いた色は間違いなく自分が塗ったのだと感じ取った。傷つけてしまったのは加奈であると自覚さえしたのに、なぜか自分が傷つけられた気もした。



一歩、二歩。ほんの短い小さな距離。顔に翳る影はもうなくて、窓から射し込む淡い光が加奈に降り注ぐ。その距離が長元坊の警戒心の表れだと思った。咄嗟に遠ざかった世界に空っぽの頭に音が響く。きんきんと頭に反響する甲高い耳鳴りの音が酷く加奈を嘖めて。


耳に障る音から逃げだしたい。気安めに耳を塞ごうとしとしたとき、無数の蚊が飛ぶ音の世界の一番奥から遠い昔に聞いたことのある音がして。認識した途端、甲高い音を一瞬で風のように追い出した声が蘇った。



『先生が生徒の味方をしなくてどうするよ。平井は俺の生徒だ。信じられないなら誓ってやる。俺はお前を守る。それが先生ってもんだろ』


(…ははっ…憶えてるのに、なあ)


保健室で目を逸らした加奈を掴んで。守る、そう言って握られた掌の熱さも、強さもなに一つ忘れてはいないのに。離れていった靴一個分の距離。それがどうしても遠くに見えた。



(千歳と、おんなじだな)


私と、私以外。

記憶が塗り重ねられる私と記憶がない真っ白な私以外。こういう時に酷く思い知らされる。自分が化け物なんじゃないかって。


リセットが生み出す齟齬が寂しくて、痛くて、悔しくて。惨めさに未だに泣きたくなることすらある。(どうすれば良いのか何回も死んでるくせ本当は何にもわかんない)何が正解で、本当の選択肢を選んでるのか不安で堪らない。



背負う煩いも懊悩も、引き起こされる発作も我慢して一体、何をしているのかすら分からなくなる。分かるのは、死にたくないという祈りだけで。全てがあやふやになってしまいそうになる。頑張ろう、そう覚悟して乗り越えてきた今までの努力が水泡にきしてしまいそうになって。


いくら心がそう喚いても、現実は変わってくれなくて。考えても詮無いことだと暴れ回る感情を理性で宥めるのが常だったが、何故か今日はそれが酷く難しかった。長元坊の言葉を切っ掛けに記憶のダムが決壊したような濁流が無声映画のように加奈を取り囲む。それはとうとう取り囲み終わると、一つ、また一つと記憶を映し始めた。



入学式の記憶。初めて受けた講義。胸高鳴った最初の気持ち。千歳との秘密の約束。失踪事件で殺された記憶。保健室登校の記憶。長元坊の誓い。急性魔力中毒の記憶。暴君鷲野のお節介。鏡に指を伸ばす私。一瞬のフラッシュバックだったくせ、処理できないほどの情報量に目が回りそうで震えた膝をつきたくなった。


胃の中のものが這い上がりそうで加奈は口に広がった酸っぱい胃液を呑み込み喉に手をやった。苦しくて苦しくて気持ち悪くて堪らない。そこに何も詰まってないのに、息すら難しくなってしまいそうで。







「……せん、…せー」


論を俟たずとも蚊の鳴くような囁きの声は明らかに届く筈もなかった。にも関わらず逃げるように一歩下がった長元坊に笑った。その、開けられた距離に笑った。




助けてを一つ願って。嘘つき。言えない言葉を心の中で叫んだ。


(だけど、結局傷つけたのは私で)





むやみに彼の触れられたくない場所を掠めてしまったのは加奈だ。わざとではなくとも、結果としてそうなってしまった。影と光のせめぎ合いが繰り広げられる廊下を見下ろして、ゆらりと歪んだ境界線に嘘をつこうと思った。この空虚な気持ちも、やるせなさも。苦しさも寂寞もすべて全ては意地の悪い自分が発端で。今度こそ平坦にならないように。慎重にそれはそれは綺麗な嘘をついた。



「それにね先生。本当はあの日休んでたんじゃなくて好きな人とこっそりデートしてたんです」


茶目っ気をいれてウインクをひとつ。そこまでしてようやっと長元坊は飽きれたように笑った。一陣の透きとおった風が廊下を吹き抜け、加奈と長元坊の服を揺らした。目にかかる前髪を鬱陶しげに掻きあげて長元坊が一つ長い息を吐く。掻き上げられた一瞬、見えた額に長元坊がいくらか幼くみえて。全ては偶然の出来事だったのだと彼に思い込ませることができたようだと確信した。



「杉宮に責められ損じゃねえか」


「あははー、すいません」


「まったく…」


聞こえた軽口を攫っていくようなふわりと吹いた風に今度は加奈が髪を耳にかける番で。髪のカーテンの向こう側、いつものように朗らかに笑った長元坊に隠れて目元を緩ませた。苦手だイヤだと言いつつも、嫌いきれないのは自分の弱さのせいか、それともこの積み上げられた記憶のせいか。加奈はよく分からなかった。だけど、見知った顔が歪められてるよりもやっぱり笑っている方が良くて。



『ねえ、せんせー。本当に助けてって言ったら助けてくれる?』

『おうおう、俺は先生(ヒーロー)だからな。てなわけで授業に出ろ』

『本当しつこい先生(ヒーロー)ですよね何回くり返すのこれ』

『平井が頷けば一発で仕舞いだっつうの』


ふいに伸びた指と呆れたような笑い声。窓が開いてるんだろう、さわさわと擦れ合う新緑の音に保健室のカーテンがふわりと靡いて。



「だけどな平井。不純異性恋愛だけは避けろよ。減点すっぞ」


はっとしたとき、伸びた人差し指が戯れるように加奈の額をこづいた。触れた指先の温もりに、昔の記憶が重なって見えて。(だけど、もうそれは私だけしか覚えてなくて)「じゃあな」と踵を返す長元坊の背中に、伸ばしそうになった手を押さえる。日差しが注ぐ中で。まるで夢の中に一人だけ目覚めることなく。ぽつんと取り残された気がして。



呑み込んだはずの胃液が、また口の中に広がった。



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