蛇
「あなた、蛇なんでしょ?」
「ちがう、ちがうよ!!」
「なれるんでしょ?」
「ちがうって、やめてよ、つっつかないでよ!」
「現に、ほら!」
「やめて、ナイフは痛い!」
いよいよまずい。
最近、夢の中の声が、花実ちゃんの頭に近づくと、聞こえる。
どんなもかは、知らない。
でも、これはまずい気がする。
僕は、やっぱり夢の中で花実ちゃんを救うんだ。
八月になった夜は寝苦しくて、暑かった。
だからか、最近ずっと花実ちゃんは寝苦しそうに、
「…うゔぁあぅ…」
うなってる。いや、叫んでいる。
お父さんもお母さんも、なんとかしようと"先生"に相談してるらしい。
でも、そんな人がどうにかしてはくれやしないよ。
僕が…
夢の中に入れる…僕が…
いや…
最近は、夢の入口が遠かった。
前は、花実ちゃんの肩をさすると、すぐだった。
ガコン、って。
頭の中がひっくり返るみたいに。
でも最近は違った。
花実ちゃんに触れていても、何も起きない夜があった。
何回やっても。
十回やっても。
二十回やっても。
だから僕は、ずっと花実ちゃんの横に座っていた。
夜の部屋は暗かった。
カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色が少しだけ入ってくる。
その光で、立て鏡に僕が映っていた。
……小さかった。
なんだか、いつもより。
小さい気がした。
でも、どうしてかはわからなかった。
なんでかは、わからない。
夢の中に入れるのは、僕だけだった。
でも、なんで僕だけなのかも、わからない。
だけど。僕しか。
「ヘビになれるんだよね〜」
「やめてよ、やめて!」
そこは一面緑の原っぱ。広くて、ひろくて…先が見えないくらいの。
でも、そこにいたのは、
大きくなって、僕たちの背丈をどれだけ積んでも届かないくらいの大きさの、
花実ちゃん。
子供たちにつっつかれて、ナイフを突きつけられて。
怖がって、ぷるぷる…と小刻みに震えている。
悲しそうな、大きな宝石が、ゆらゆらとゆれている。
波が時折目の中に立って、目をつぶる。
時折、ぽた、と大粒の雨が降ってくる。
白い肌が、真っ白で、まるで白くて大きな崖みたいだった。
前に写真で見たことがある、イギリスのホワイトクリフみたい。
だけど。
でも、
「僕もなれるんだよ。ヘビに。」
え?
そんな声が聞こえてきそうなくらいだった。
あたりは静かになる。
子供たちは振り向いた。
全員、キツネのお面をつけていた。
「なれんの?」
「うん。」
「じゃああの湖、入ってみろよ」
湖がいつの間にか、草むらの上にあった。
深い青。少し茶色っぽい。
波が立たない、のっぺりとした、水面。
「あれ、ブレスレット落としちゃったの。」
誰か、ぽつりと呟いた。
お面の子供たちだろうけど、お面の見分けがつかなくて、誰かはわかんない。
「やるよ」
花実ちゃんの大きな琥珀は、ぷるぷる震えながら、僕を見てた。
僕は大きくうなずいた。
僕は迷いなく、湖に入った。
ちゃぶん、と音が耳の近くでした。
湖は暗い青。茶色も混じってて、そこが見えない。
ぼんやりした茶色の霧がかかってるみたいな、濁り。
「……!!」
上の方でぼうぼうと、誰かの笑う声が聞こえる。
水は冷たくなかった。
ぬるかった。
夏の夜みたいだった。
でも、暗かった。
目を開けても、閉じても同じくらい。
ぼんやりしていた。
底の方に何か沈んでいた。
靴。
白い紙。
赤いリボン。
小さな鉛筆。
誰かの失くしもの。
いや。
違う。
捨てられたものだった。
そう思った瞬間。
胸が、きゅっとした。
どこだ。
ブレスレット。
どこ。
どこ…
奥の方で、何かきらりと光る。
霧のようなぼんやりした光だった。
それをばっ、ととる。白っぽいブレスレットが、ぼんやりと光る。
霧の中、月が光ってるみたいな。
綺麗だった。
ぶぉっ、と足で底を蹴る。
上の方の、光が見える。白っぽくて、ぼんやりと、でも線を描くように光る。
雲の間から見える、日の光のようだった。
水からびちゃっ、と出た。
空は灰色の曇り空。
重たい雲には、光を発するところなんてなかった。
「…これ…」
「ありがとー、これだー!」
一人がそれを受け取った。
キラキラ光るブレスレットは、その子供の手の中で、ぼんやりとした、
真珠みたいな光り方をしていた。
でも、ビーズでできているそれには見覚えがあった。
「…それ、花実ちゃんのじゃ…」
「あ、気づいたー」
突然その子供が僕を沈めた。
水が口の中に入ってきた。
苦い味だった。
じゃり、という感触がした。
手をゴボゴボと動かしたけど、それは何も変えなかった。
その子供はずっと、長いこと押さえつけてた。
がばがば…とくちから音が出てきた。
音が遠くなる。
きゃやややや…とどこかから甲高いような、ぼやけた声が聞こえる。
「…だめ……だめ!!」
突然花実ちゃんの声。
バンっていう強い音。
そして、そこからすくいあげられた。
「危ない…」
大きな琥珀が僕を見つめた。
大きく息をした。
美味しい空気は、どこまで吸っても足りなかった。
「なんだよー」
どこかから、なんでもなさそうな、つまらなさそうな声が聞こえた。
目を覚ますと、全身が濡れていた。
「リーリ…」
お父さんも、お母さんも、すぐそばで見守っている。
「良かったっ…!」
花実ちゃんは、パジャマ姿で立っていた。
まるで、ベッドの中で濡れたみたいに。
目が、琥珀色に輝いていた。
水に濡れて、いつもよりも。
もっと、きらきらきら…って輝いていた。
花実ちゃんはぎゅっと抱きしめた。
湿った柔らかい布が顔に触れた。
少し強かった。
まるで、どこかへ行かないようにするみたいに。
花実ちゃんの髪が頬に触れた。
細くて、さらさらしていて、少し湿っていた。
夏の雨上がりみたいだった。
茶色の髪が、電気の光で透けて見える。
綺麗だった。
どこかから泥の匂いがした。
川の底をひっくり返したみたいな匂い。
草の匂いもした。
なんでだろう。
僕は少しだけ、夢が終わっていない気がした。
でも。
花実ちゃんの手は、あたたかかった。
だから、それでよかった。
だけど、僕たちはそれには構わなかった。




