ハナミ
花実ちゃんは、iPadで料理動画を見ていた。
ジュ〜…ジュ〜…という音が、香ばしそうに部屋に響く。
僕も隣で見せてもらったけど…
すごいなぁ。
料理人ってこんなに手際良いんだ。
すごいなぁ…
いいなぁ…
ぼうっと見てると、
「憧れてるの?」
花実ちゃんは呟いた。ちょっとイタズラっぽい顔で、にやっとしている。
「そりゃあ、かっこいいもん」
「そう。リーリ、作れるようになるといいね」
「僕、無理だよ」
「いや、いけるよ!」
「無理だって〜、習ったことないし。」
「じゃあ、習おうよ」
花実ちゃんは、じっ…と僕の顔を見つめながら言った。
なんでかはわからない。
でも、花実ちゃんは本気で、僕に料理を作って欲しい、
みたいなことを考えてるみたいだった。
僕に…?
僕が…?
できるのかなぁ。
「できるよ」
花実ちゃんは、目を開いたまま、うなずく。
なら、そうなのかなぁ。
でも、どこかぼんやりしていた。
花実ちゃんは、目を見開くと、やっぱり琥珀みたいで、綺麗だった。
花実ちゃんは、心なしかいつもより赤みが入った、熟れた桃みたいな顔だった。
その夜もやっぱり、花実ちゃんは苦しそうだった。
でも、その夜は、声ひとつ立てずに、汗をだらだらと、身体中から流していた。
「…花実ちゃん。」
迷わなかった。僕がやるべきこと。
それは、夢の中に入ることだ。
花実ちゃんの肩をさする。すると、今度はすぐに、花実ちゃんの方に体が引き寄せられる。
ガコン、って、まるで頭の中に引っ張られて、入っていくみたいに。
すぐに意識がなくなった。
キーン…コーン…カーン…コーン…
チャイムの音。花実ちゃんから聞かされたから、わかっていた。
起き上がると、そこは部屋だった。
だけど、見たこともない。
木でできた机や椅子が何個も並んでて、一番前にそれらと向かい合うように、誰か立っている。その誰かは、大きな鉄でできた箱の上に、机と同じ木でできた板を貼った、大きなドラムみたいなものの前に立って、偉そうにこちらに向いているようだった。
「何を寝てるんですか、起きなさい!」
起きたのに、言われてたから、ちょっとびっくりした。あわててそっちを見ると、いた。
お団子に引っ詰めた、目が細く吊り上がってる人。
この人だ。
花実ちゃんが嫌いな、厳しい光明先生。光明先生の時間は寝ることも、間違えることも許されない。間違えたら…
「…怒られるの」
どう怒られるのか、花実ちゃんは言ってくれない。
どれだけ厳しいのかも、
どれだけ怖いのかも。
光明先生は、花実、と黒板にでっかく書いた。まるでこの世界にはその字しかないみたいに。
先生は部屋の後ろの方を見渡しながら、背を大きく伸ばして、言う。
伸ばした様子は、部屋の天井に届きそうなくらい大きい。
「さて、あなたには居残りの罰として、花実さんについて、考えてもらいます。花実さんについての1000字の作文を提出したら、帰れますよ。ただし…」
先生が僕の方に少し向いた。
「もしあまりにも酷い出来なら、わかりますよね?」
なんだろう、これ。
酷かったら、とても恐ろしい目にあう気がする。
たぶん、僕や花実ちゃんに酷い目が降りかかる。
花実ちゃんが危ない!
ふいに思えてきた。僕は花実ちゃんのことをどれだけ知ってるんだろう。
笑うと可愛いところ…?
怒るとすねたような顔になるところ…?
料理動画が好きで、僕に料理をしてほしいところ…?
お父さんお母さんに隠れて僕に食べ物を多めにくれる優しいところ…?
誰よりも僕のことを知ってるところ…?
…でも。
学校で、どうしてるかなんて、僕、知らないよ。
ふと、後ろを振り向いた。
二人の女の子と二人の男の子が、座ってる。
もしかして、知ってる?
「…あの、花実ちゃんって、知ってますか?」
「いや、知らないよ、なんか暗い感じだし。」
「学校でもいっつも暗いし、しゃべらないし。」
「知らない。関わったことないし。」
「むしろ教えて欲しいね。」
「こら、教え合わない!!」
先生が怒鳴ると、誰も何も言わなくなる。
僕も、なんとなく前を向き直る。
それ、最初にいえば良いのに。
でも、誰も何も言わないから、そういうものなのかな…と思わざるを得ない。
いや、そうするんだろうな、この部屋では。
僕はなぜか、怒ったり悲しんだりもしなかった。
そして、ふと外を見る。
外はオレンジ色。でも、綺麗じゃない。まるで窓がオレンジ色に塗られたみたいな、
なんていうか、光が差し込まないような色。
部屋の光は上から注ぐ白色だけで、そことは分かれてるみたい。
部屋の空気は、息が詰まりそうだった。
窓はあるのに、風が入ってこない。
夏のはずなのに。
セミの声もしない。
ただ、白い光だけが、上から落ちていた。
病院みたいな光だった。
それはあたたかくなくて、机も、椅子も、人の顔も、全部同じ色にしてしまう。
僕はなんとなく、自分の腕を見た。
丸い。
少し短い。
いつもの腕だった。
でも、この部屋では。
なんだか、机の上に置き忘れられたものみたいに見えた。
「こら、そと見ない!!」
だから僕はなんとなく、紙に向き直る。
紙はまっすぐな線で細かい、同じ形の四角に分けられている。
それはどこまでも続いて、どこまでも、同じような気がした。
僕はただひたすら、机の上にあったシャープペンシルで書いた。
シャーペン、というのの使い方は花実ちゃんから教えてもらったから、助かった。
かり、かりこり…
かり、から…
かりかりかりかり…
僕の手から一番、かりかりかり…と音がする。
教室にはかりかりかり…としか聞こえない。
「あ、そういえばさ、」
その声で一気にかりかり、といってた音が止む。
僕もなんとなくやめた。
でも、なんでかはよくわからなかった。
「先生、この前デズニーランドに行ってきたから、お土産あげるねー」
「「「「やったー!!!」」」」
同時に聞こえてきたから、僕は驚いた。
「やったー…」
ちょっと遅れて言った。
「あら、遅れたね」
先生の言葉になんとなく、ぎくりとする。なんだか体がぷるぷる震えてきた気がする。
「まあはじめてならしょうがないわよ」
はじめてなら。
それがなぜか、妙に心に残った。
なんだかよくわからなかったけど、花実ちゃんが笑ってくれた時のように、温かい空気になった気がした。花が咲いたみたいなような、そんな気がする。
先生はみんなの机に、ネズミ型のクッキーを置く。置かれるたびに、
「ありがとうございます!!」
そういう声が、部屋に響く。
なんだか無機質な部屋が、急に大きな声で満たされて、
勢いづいた気がした。暑い気がするな。
「あの、」
え。
なんで?
僕は驚いた。
だってその子は、作文を完成させていた。
でも、数文字しかない。
そんな、1000文字だよ?
それじゃ足りなくて、怒られるよ。
「すごいわねぇ、これでいいわ」
え、
「ありがとうございます!やったー!帰れる〜」
なんで?
もしかして、1000文字じゃなくても帰れたの?
それなら。
花実ちゃんを救える、という言葉が、もっと明るく光ってるみたいに思える。
僕はもう、1000文字に近く書いてる。
なら、あと少し書けば、帰れる。
少し書いて、見直した。
内容は単純だった。でも、これが花実ちゃんだとわかる。
花実ちゃんは僕にも分け隔てなく接してくれること、
花実ちゃんは僕にもっと経験してほしくて、色んなことを教えてくれること、
花実ちゃんは…
僕は花実ちゃんの顔を思い浮かべる。
まるで花が咲いたみたいに、温かい笑顔。
「ちがうでしょ!!!」
突然、大きな音が降り注いだ。
え?
上を見ると、光明先生だ。真っ赤な顔は、まるで風呂上がりか熱を出したみたいだった。
目は吊り上がってて、顔が割れそうなくらいだ。口がへの字になっていて、これまた顔が壊れそうなくらいしわを刻んでいる。
「「まただよ…」」
「「リーリがやったよ…」」
風みたいな声が近くで聞こえてきたけど、先生はそっちは聞こえてないみたいだった。
「期末テストは全部60点。それさえ書ければ良いものを…!!」
「「「それが花実さんなんだ?やったー!」」」
後ろでやたらとそろった声が、気楽そうに、楽しそうに。
何やらカリカリと音が鳴った。
「せんせー!これいい?」
「いい、帰りなさい」
「これは?」
「全員、リーリさん以外帰りなさい!」
「「「「やった〜!」」」」
四人は気楽そうだった。
四人は笑いながら出ていった。
くすくす。
いひひひ。
笑い声だけが転がる。
扉は閉まったのに。
笑い声だけ、まだ教室の隅に残っていた。
風船みたいに天井に張りついて。
ずっと。
なんか、ぷるる、と体がゆれた。
「あなた、60点取ったこともわかんないの?!」
「……花実ちゃんは教えてくれなかった。」
「教えろと言えば教えてくれます!!」
先生は、僕や花実ちゃんのことは考えない、みたいに、首を振った。
それで、僕の方をじっ、と吊り上がってまるで引っ張られたみたいな目で見つめる。
「罰を与えなくてはね。」
いよいよ花実ちゃんが危ない。
僕は考えた。
何を話すべきか。
どれだけなら、それまでを、長くできるか。
「そうですよ!!このクラスは80点台しか叩き出してこなかったというのに、60ですよ?!」
先生を見てると、僕はぷるるるる…と震えるだけになってくる。
なんだか、あまり花実ちゃん、守れる自信がなくなってきちゃったかも…
ごめんね…なんか…
いらいらしているんだろうな、先生。
でもなんだか、頭がガンガンしてきた。
ハナミ、花実、ハナミ…
ハナミちゃん、って、なんだっけ?
ハナミちゃんは、60?
60点…?
花実ちゃん、やさしいんだよね
優しいのは、60点?
はなみちゃん、
「……他にいたんですか?」
「60点なんて、いませんよ!?そんなの、うちのクラスの子じゃない!!」
はなみ、はクラスの子じゃない。
じゃあ、ハナミちゃんは、どこのだれ?
僕は、なに?
ぼくは、どこのだれ?
花実ちゃんの、だれ?
僕は……
なんだか足がむずむずしてきた気がする。
足を思わずゆらす。
ゆらさないと、落ち着かない。
「貧乏ゆすりしない!!」
「……はなみちゃんって、なんなの…?」
「それは決まってるでしょ!!うちのクラスにいてはならないはずなのに、いる子!できそこない!それが花実ですよ!!」
ふと、花実、という言葉が、頭に残った。
僕は立っていた。
60点、
それは確かに花実ちゃんだろう。でも。
僕の見た花実ちゃんは、ぼんやりと、してる。でも。
「それは花実ちゃんじゃない!!!」
気がつくと、大声が教室中に響き渡っていた。
思いっきり、僕は教室の床を踏んだ。
バギキッ!!
音がして、僕はそこから真っ逆さまに落ちた。
「リーリさん!?」
先生、いやあのおばさんの声がどこかから聞こえてきたけど、それが気にならないくらい、涼しい暗闇に、僕は落ちていった。
そこは真っ黒だった。まるで、僕がひとりぼっちだった頃の暗闇みたいに。
寒い気がして、ちょっとぷるぷる…と震えた。
でも、どこより涼しくて、シャワーを浴びたみたいに、気持ちがいい。
「え、リーリ?」
花実ちゃんの声が上から降った。
「こっち!!」
僕は気づいた。
ここに落ちれば、花実ちゃんも。
「ヤメナサイ!」
どこかから甲高い声がしたけど、それも一瞬だった。
びゅん、と風のような爽やかな音が聞こえてきた。
僕の前に、花実ちゃんが落ちてくる。
向かい合った。
髪がふわっと広がった。
水の中で花が咲くみたいだった。
茶色っぽい髪は、光を通して、夏の飴みたいな色になっていた。
その向こうで、花実ちゃんは笑っていた。
暗い顔じゃなくて。
僕に話しかけてくれる時の顔。
部屋いっぱいに花が咲くみたいな顔だった。
髪が風にかきあげられて、おでこが見えた。
顔が広く見えたけど、それが紙に包まれて隠されてた、贈り物の陶器みたいに、白くてやわらかい光を放った。
「リーリは良いところ知ってるんだね。」
花実ちゃんは嬉しそうな、高い、優しい声で言っていた。
「…まぁね。」
「照れることないじゃん。」
「へへへ……」
「……明日、キャンプで泊まるらしいの。そこでさ、星見ようよ。」
「花実ちゃんと?」
「……うん。」
「僕…僕……うん。」
そこで目が覚めた。
花実ちゃんが、横で寝ていた僕の様子を、微笑みながら見ている。
「…リーリ。夢に出てきたじゃん。」
「…そうなの?」
「うん。…夢で言ったんだけどさ、星を今日は一緒に見ようね!」
「…うん!」
外には夏の、みずみずしくて青い、どこまでも広い空が広がっている。
雲は白かった。
夢の中の黄色い空と違って、ちゃんとした空だった。
風が、さわさわ、と木を揺らす。
カーテンも揺れる。
花実ちゃんの髪も揺れる。
……でも。
僕の腕だけは、揺れなかった。
なんだろう。
そう思ったけど。
花実ちゃんが笑っていたから、もうどうでもよくなった。




