縫う
その夜、とても静かに花実ちゃんは眠っていた。
静かすぎた。
静かすぎて、外の車の音が、
遠く。
どこかでずっと、走っていた。
静か過ぎる。
それが思えてきたのは、しばらく経ってからだった。
僕は、やっぱり花実ちゃんを救っていないと行けないのかも。
でも。
ほんとうに、毎晩夢の中で救うしか、ないのかな。
肩に少し、ふれた、その時。
ゴッ、という感じがする。
そして、僕の目の前が真っ暗になった。
夢の中だった。
暗い部屋だった。
辺りは暗さのあまり、何も見えない。
部屋に何があるのか、よくわからない。
真ん中がぼうっと光る。
ぼうっと光るそれが、微かに動いている。
それは…
「花実ちゃん?!」
花実ちゃんが、振り向く。
にこ、と屈託のない笑顔を浮かべた。
でも、それからすぐに前に向き直る。
かたかたかた…
小さく、足元から音がした。
花実ちゃんは、手元を微かに動かしていた。
かさ、かさ、と布が擦れるみたいな音。
それは、古い足踏みミシンだった。
しきりにそれを動かして、何か縫い合わせている。
「…ねぇ、何を縫ってるの?」
そっと、近づきながら、言ってみる。
かたかたかた…
ただ、足で踏む音が聞こえる。
ふと、花実ちゃんの手元が見えた。
淡い青色をした、布のようなもの。
透き通りそうで、綺麗な、光り輝くもの。
さら、さら、と音がした。
「"誰かの記憶"の断片だよ。」
「誰か?」
「そう、誰か。」
「…」
「…近いかもね。でも、一番遠い。」
その隣には、丸い柔らかい木でできた、椅子がある。
そこに座る。
きっ、と音がした。
僕は、まるで見惚れてるみたいに、
ただ彼女の手元を眺めてた。
花実ちゃんは、すごく上手ではなかったけど。
なめらかに、それを縫ってるのがわかった。
綺麗なその"記憶"は、
どの布よりも僕を惹きつけた。
「これはね」
花実ちゃんの口から声が出て、思わずそっちを見る。
「リーリがいつか忘れてしまった、大切な人の声だよ。こうして縫い留めておかないと、明日の朝には消えてしまうの」
よく見ると、花実ちゃんの指先は針で突かれた跡だらけで、そこから滴る血も、青い糸となってミシンに吸い込まれていく。
空に飛ぶ鳥が、どこかへ見えなくなってしまうみたいに、美しすぎる光景だった。
「どうしてそこまでして縫うの?」
花実ちゃんは静かに微笑んだ。
「リーリが目覚めたとき、胸の奥が少しだけ温かければ、それでいいの」
それはどこか優しくて、
優しかったからか、切ない気がした。
「リーリ、紹介したい子がいるの」
「だれ?」
「おとうと」
「おとうと?」
暗い部屋の奥の方から。
かた、かた、と音がした。
そこに立ってたのは、テディベア。
丸い顔、丸い鼻、全てが丸くて。
なんだか懐かしい感じがしたから、
普段テディベアは好きじゃないのに、
じっ、と見てしまった。
「おとうとです。」
ぴょこ、とテディベアはお辞儀した。
「にいさん。」
「にいさん?僕が?」
「そうでしょ?ぼく、にいさんのおとうとだもん」
「僕知らないよ」
「そうだね、知らない。」
花実ちゃんは、柔らかい笑顔で。
でも、穏やかに僕を見つめていた。
透き通るような目立った。
その琥珀みたいなものが、
僕を見通しているみたいだった。
「仲良くできるよ」
でも。
僕に弟はいない気がした。
なんとなく。
でも、確実にわかった。
なんだか寂しいような、切ないような。
そんな感じがして。
ぷるるる…
気づいたら、体が震えていた。
かたかたという音が、やがて僕のかすかなぷるるる…という震えと重なる。
だんだん。花実ちゃんの姿が朝霧のように薄れていく。
「花実ちゃん。」僕は呼びかけた。「どこへ行くの?」
「…リーリの知らないとこ」
部屋全体が、ぼわ…とぼやけてきた。花実ちゃんの姿が、とおい。とおく、ぼんやり。どこかへと、うすれていく。
「花実ちゃん、置いていかないでよ」
「いつか、来るから、まってて…」
その言葉を聞きながら、僕の胸の奥が、ぽっかりと空いた気がした。何かを失ったような、でも何かを思い出せそうな気もする、曖昧で、少し痛い、変な感覚。
「にいさん」暗がりの中で、ただ、おとうとの姿だけがはっきりしていた。
「花実さんのこと、心配なのはわかるけど、にいさんじゃ、だめだよ。」「…なんで?僕じゃないと夢の中には入れないのに。」「…そのうちわかるよ。にいさん。」「…わかるって?」「にいさんなんだよ、救われなきゃいけないの。」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようで、僕はふと、僕自身も何かを忘れていたことに気づいた気がした。誰か、もう一人。兄弟のようで、でも触れられない空白のような。花実ちゃんを守る僕の手の先に、もしかしたら、僕自身が必要だったのかもしれない。
はっ、と目が覚めた。
朝だった。
カーテンのすき間から、白っぽい光が入っていた。やわらかくて、あたたかい光。
なのに。
なんだか、胸のあたりだけが寒かった。
ぼうっとしたまま、横を見る。
花実ちゃんがいた。
すぐ近く。
近すぎるくらい近く。
気づかなかった。
いつの間にか。
花実ちゃんは、僕の腕を抱えたまま眠っていた。
ぎゅう、って。
離さないように。
長い茶色の髪が、腕にかかっていた。
少しくすぐったくて。
あたたかかった。
寝息が聞こえる。
静かで。
優しくて。
なんだか安心する音。
「……花実ちゃん」
小さく呼んでみる。
起きない。
少しだけ笑っていた。
夢でも見てるのかな。
その顔を見てたら。
胸の奥が、また変な感じになった。
昨日の夢。
おとうと。
にいさん。
花実ちゃんの、消えていく姿。
思い出そうとすると、ぼやける。
でも。
それよりも。
もっと変なことがあった。
今。
こうしてると。
すごく、懐かしい。
花実ちゃんの体温も。
腕の重さも。
髪が触れる感じも。
初めてじゃない気がした。
ずっと前。
もっと小さい頃。
いや。
もっと前。
まだ、言葉も知らない頃。
誰かが、こんなふうに隣にいたような。
そんな感じ。
……変なの。
花実ちゃんなのに。
少し違う。
誰かを思い出しそうで。
でも、思い出せない。
「……ん…リーリ……」
寝言。
ぎゅっ。
少しだけ腕が強くなる。
「……いかないで……」
胸が、ぎゅっとした。
嬉しいはずなのに。
なんでだろう。
少しだけ。
泣きそうだった。
窓の外では、朝の車の音が遠く聞こえていた。
それなのに。
僕だけ、まだ夢の中にいるみたいだった。
「あ、花実ちゃん起きた。ねぇ、」
「…ぅうんー……なに…?」
「昨日、変な夢見た?」
「いや…覚えてないな…」
それが、少し嫌なような。
そんな感じがした。
「そう…」
「もう少し寝かせて…」
「うん」
朝は明るかった。
そのはずなのに。
僕は…
どこか、お腹の中が空っぽになったような。
押してみると、すぐにへこむような。
変な、嫌な感じがした。




