霞の中の龍野城 29
龍野城に進行中の織田軍から、使者がやって来たのは二日後の事だった。
龍野城の開城を受け入れる為、城を開けて兵をもてなす様にとの事だった。
詳しくは、軍を率いる羽柴殿より沙汰があると言い置き戻って行った。
使者の不遜な態度から、龍野城を踏み荒らす織田軍の姿が容易に想像できた。
また、城主への厳しい措置が下されるのではとの想いから、誰もが暗い顔を隠せなかった。
それでも、女達を中心に酒や食べ物が整えられた。女達は、忙しく動いていたので気を紛らせていたが、男達は座して待つしか出来ず不満を溜め込んでいる様だった。
城内の雰囲気が良くないと分かっていても、琴姫にはどうする事も出来なかった。
「皆、顔が腐った魚の様だな」
現状を良い方に導くのは、広秀だ。
「さあ、時間が無い。龍野城での出来事を語り尽くさねばならんぞ」
「龍野城での出来事とは、多過ぎますなぁ」
清正が続ける。
「清正か。あの時は苦労かけたなぁ」
「はて、あの時とは?」
「この本丸の前の廊下を全力で走って、すまなかった」
広秀が言うと、清正は大声で笑いだした。
「あれですか、若君は儂が止めるのも聞かずに走ったあげく、盛大に転びなさった。大きな音がして、心配しました。若君は平気な顔をしておられたがなぁ」
「あれは、この辺りか」
「そうじゃ、そうじゃ。実は床が少し凹んでしまってな」
「ええ、本当か」
何名か、凹んだ廊下を見に来た。
「いや、流石に嘘じゃ。小さい若君が転んだくらいで龍野城の床は傷がついたりせん」
清正が言うと、「なんじゃぁ」と笑いが起こった。
広秀は、凄い。この様な状況で、前を向くだけでなく笑い声を引き出してしまった。広秀がいれば、大丈夫だと確信すると共に、何故か寂しさを感じた。琴姫に無い、人々を導く力を持っ弟が羨ましかったのかもしれない。
男達が広秀を囲んで思い出話で盛り上がっている中、琴姫はそっと八幡様に足を運んだ。
織田軍を率いる羽柴殿という御仁が龍野城に入城すれば、直ぐに退去しなければならないだろう。そうすれば、八幡様へのお参りも最後になる。幼い頃から幾度となく歩いた石畳を踏みしめるのも然りだ。
「実感は無いものですね」
八幡様に手を合わせる時、耳を澄ます。じゃりっと石を踏む音が聞こえたら、清忠が姿を表す。
「琴姫様、こちらに居られたのですね」
「はい、清忠様を待ってきました」
元気に応えると、清忠は少し驚いた顔をした。
清忠とは、夜の闇に隠れるようにして会っていた。琴姫はいずれ有力城主の元に嫁ぐ事になる、だからこそ逢瀬は隠さねばならないと思っていた。
だが、今なら許されるはず。人質を出せと言われたら、城だけでなく龍野の地からも離れなければならない。
それならばと、琴姫は清忠の元に走った。両手を広げて抱き締めても、琴姫の手の中に清忠は収まらない。それが可笑しくて、くすっと笑った。
「もう、この場所で会うことは叶わなくなりますね」
琴姫が言うと、清忠は抱き締め返してくれた。
「龍野城を離れても、お守り致します」
琴姫が人質になったら、それは叶わないだろう。だが、明るい日差しの中で寄り添っていると希望が見える気がした。どんなに離れても、この温かい気持ちを持っていれば大丈夫。清忠への想いが、私を強くしてくれる。
「はい。守って下さいね」
「必ず、御守りいたします」
そっと見上げると、清忠と目が合った。
清忠の瞳に、琴姫が写っている。
清忠が、自分だけを見つめる事が嬉しくて琴姫は微笑んだ。
「ありがとう」
琴姫が礼を言うと、清忠は暫く無言で琴姫を見つめ、噛み締めるように応えた。
「必ず、お守り致します」
その想いが、既に琴姫を守っているのだ。
清忠に伝えたくても言葉が見つからず、琴姫はもどかしさを感じた。
それは、清忠も同じだったのかもしれない。
二人は、時の許す限り抱きしめあっていた。
美琴が目を覚ますと、ホテルの部屋だった。
「姫路城を、見損ねたなぁ」
琴姫の記憶の量が多く、頭がぼんやりしている。外は薄暗くなり始めていた。
机の上には、サンドイッチとコーヒが置いてあった。コンビニの袋ののかには、チョコや飴、ミネラルウォーターも入っていた。清忠の記憶を持つ、渡辺さんが持たせてくれたものだ。
スマホを見ると、母さんと渡辺さんからLINEの通知があった。
母さんには、無事に着いて姫路城を見学したと無難な返信をした。
渡辺さんへは、少し迷った。文面は気遣う言葉でいっぱいだった。
最後には、何かあれば直ぐに駆けつけると書かれていた。
美琴はコーヒーを少し飲み、電話を掛けた。
「はい」
渡辺さんは、直ぐに出た。あまりの早さに、言葉に詰まる。
「吉倉さん、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
美琴が慌てて答えると、安堵した吐息が聞こえた。
「良かった」
「実は、また龍野城に居る所までの記憶しかなくて。織田軍の羽柴殿って、豊臣秀吉の事ですよね」
「はい、そうです」
美琴は、歴史上で知っている人物を聞いただけのつもりだったが、渡辺さんの声の硬さから羽柴殿の事を嫌っている気がした。
「沢山の記憶か流れ込んできて、困惑していますが大丈夫です。サンドイッチを頂いて、休みますね」
美琴が電話を切り上げようとしたら、渡辺さんは慌てて言った。
「分かりました。明日9時頃にロビーにいます。何かあったら夜中でも電話に出ます。だから、一人で無理はしないで下さい」
美琴は「分かりました」と言い電話を切った。
窓の外は暗くなり、建物からの明かりが闇を打ち消そうとしていた。
「琴姫、この後で何が起きたのか知らないけど。貴女は頑張ってると思う。戦国の世なんて無ければいいのにね」
琴姫が現代に生まれていたら、と思いながら美琴は目を閉じた。
琴姫、貴女は何を思って生きたの?
意識が沈む瞬間、小さな菫の花が見えた気がした。




