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霞の中の龍野城 30

第三章 清忠


織田軍の羽柴殿が龍野城に入った。

広秀が座っていた上座を譲り渡し、彼の言葉を待った。

「龍野城の開城、よく決断された。織田信長様も大層喜ばれておいでだ」

羽柴殿は、上座に座るやいなや口を開いた。

広秀が開城の旨を手紙にしたのは数日前。その返事を織田信長公から貰って、龍野城に入城しているかの口振り。

伝達の早さに、琴姫は身震いを感じた。

羽柴殿は、さらに続ける。

「播磨の名門、赤松殿が率先して開城される事は大きな意味を持つ。いや、よく決断してくれた」

大声で笑う羽柴殿は、未だに家臣の礼を取り頭を下げたままの広秀に顔を上げる許可を与えない。

「のう、広秀殿。頭を上げてくれ。そなたの決断に、我が殿は大変満足されておられる」

かっかっと笑う、羽柴殿。

広秀が動く気配がした。広秀以外の者は、頭を上げることはできないので気配を探るしかない。

「おお、この様な若者が開城を決意なさるとは、なんと潔い事か」

大袈裟な言い方だった。羽柴殿の表情が読み取れない為、言葉の真意が分からない。声からは、本当に感動してるとも読み取れる。

琴姫は、耳を研ぎ澄ませて次を待った。

「此度は、我らの願いをお聞き届け頂き、誠に有り難き所存に御座います」

広秀の声は硬く、緊張に満ちている。

「いやいや、その様に堅苦しい挨拶は無しじゃ。儂はの、広秀殿。そなたに期待しておる。儂とて、無駄な血は流したくないのでな」

戦火を避け、上月城に逃げ込んだだけの女子供。罪なき人を無惨な死に追いやった者の言葉とは、思えない。

「この良き日の為に用意した酒じゃ」

羽柴殿が手を叩くと、酒を携えた者がずんずんと音を立て入ってきた。

「羽柴様、膳の用意ができています。運ばせてもよろしいでしょうか?」

広秀が尋ねると、羽柴殿はひらひらと手を振った。

「その様な気遣いは無用じゃ。さあ、一杯酌み交わそう」

膳に毒でも入っていると警戒してるのだろうか?そんな、無駄な事はしないのにと言いたい。だが、琴姫は顔を上げることすら許されていない。

「おお、皆の衆も顔を上げてくれ」

長い平伏の後、羽柴殿の一声で皆が一斉に動いた。

正面には、日に焼けて黒くなった顔色の男が座っていた。お世辞にも整った顔とは言えないが、発する気は凄まじい物がある。目が合うと、ぶるりと身体が震えた。

「美しいのぅ。広秀殿の姉上か?」

羽柴殿の声色が、急に変わった。

「はい、琴と申します」

慎重に挨拶をすると、手招きされた。どう動くのが正しいのか分からず、揺れる手を見ていた。

「祝いの酒じゃ。注いでくれるか?」

目尻を下げ、機嫌良さそうに言われたが、何故か行きたくないと思った。龍野城の為に、羽柴殿の機嫌を損ねる訳にはいかない。

琴姫は、足に力を入れて立ち上がった。

「失礼致します」

既に(さかづき)を持つ羽柴殿の横から、酒の入った徳利を両手に持ち近づいた。

父上の酒を注いだこもあるので大丈夫だと思ったのだ。だが、羽柴殿は盃を琴姫の方に差し出さず自身の腹の前から動かさない。少し待ったが、羽柴殿が手を動かす気配がないので、琴姫は座ったまま膝を動かし近寄った。

酒を零さぬ様に、それだけを考えて注いでいく。

その姿を、羽柴殿がどのような表情で眺めているかなど気に止める事が出来るはずもない。

ようやく、盃に酒が注がれ安堵すると耳元で囁かれた。

「美しい手をしておるのう」

驚いて徳利から酒が零れそうになるのを、琴姫は耐えた。膝を後ろに二、三回動かし頭を垂れる。

「ありがとうございます」

とだけ、言葉を発した。何故か、羽柴殿を見てはいけない気がしたのだ。

逆に、このやり取りを一部始終見ていた清忠は拳を握りしめていた。

琴姫を見る不躾な目が許せないのに、何も出来ない自分が悔しくてたまらなかった。

「さあ、広秀殿も飲もうではないか」

「はい」

広秀が盃を手に持ったので、琴姫は羽柴殿から目を逸らし弟に向き合って酒を注いだ。

強張る弟の顔を見て、元気付けるように少し微笑んで見せた。

「美しいのう」

囁くような声だったので、琴姫は聞こえないふりをした。

大勢の家臣たちが見守る中、羽柴殿と広秀が酒を酌み交わした。

心から酒を楽しむ羽柴殿に対し、広秀は粗相をしないように小さく動く姿が痛々しい。

「美味いのう、龍野城で呑む酒は格別じゃ」

とこか、芝居がかった声で機嫌良さげに笑う羽柴殿。

「もう一杯、頼めるかのう」

盃を差し出された。

「はい」

琴姫が近づくと、

「まこと、良い香りじゃのう」

にやりと、笑われ背筋がぞわぞわと震える。湧き上がる嫌悪感を抑え込んで、微笑んだ。

「ありがとうございます」

琴姫の笑みに、羽柴殿は満足そうに頷いた。

「良い良い。誠に、良いのう」

豪快に笑う、羽柴殿。何がお気に召したのか分からないが、機嫌が良さそうで安堵する。

酒を飲み干すと、羽柴殿は「さて」と続けた。

琴姫は急いで下座に下がる。

「広秀殿は龍野城を明け渡した後、どちらに行かれるおつもりか?」

「お許し頂けるなら、仮の住まいを乙城にと考えております」

「ふむ、あの小さい城か。良かろう」

広秀が乙城と言って、直ぐに場所を特定出来ることに驚いた。羽柴殿は、播磨の地を熟知している。

「ありがとうございます」

広秀が深く頭を下げる。琴姫の無言で同じ動作をする。

「だがな、それだけでは足らんのじゃ」

羽柴殿は、ゆったりと間を置いて次の発言をした。

「其方の姉を人質として差し出して頂く」


それは、今までで一番冷酷な口調だった。

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