東京悪魔と見えざる手
この東京、いや日本を根城に一匹の亡霊がうろついている。そう、資本主義という名の亡霊が。体が資本、などと例えられるように、この国では投資と消費が社会に満たされており、そこで暮らす人間たちは資本主義というエラでこの国を泳ぎ、呼吸をする。
「時にヴェルよ。お前は仮想通貨に興味はないか?」
我が城にてスマホ充電中の叔父上が天国新聞ヘヴンタイムズの為替欄を読みながら、思い出したようにこの上なくうさん臭いことを言い出した。叔父上は大天使の役職にありながら現世の流行に目ざとく、主に電子ゲームとドラマ方面にアンテナを張っている。
「仮想通貨とな」
「説明しよう。仮想通貨とは……」
ここから叔父上の嫌になるほど長い仮想通貨の説教が始まった。叔父上曰く仮想通貨は今後、通常の金銭と併用されるようになることが確実視される経済の革命であり、何故に車が発明されたのにまだお前は馬に乗っているのだ、などという決めゼリフまで吐いた。北欧の某国では手首にマイクロチップを埋め込み、それにて決算する技術も普及しつつあり、現金の時代は近々終わりを告げるという。最先端の人間は既に己の資産をレベルアップさせる行程に移っているという。
「銀行は晴れの日に傘を貸し、雨の日にとりあげる、などと嘆く。そんな時代はもう終わりだ。そう、なぜならば仮想通貨があるからだ。さぁ、お前はいつまで馬に乗る? 車があるというのにいつまで馬に乗る? 仮想通貨こそ、現在最も脂の乗り、新鮮なトピックスなのだ」
叔父上の熱弁の裏で、俺は数日前の出来事を思い出していた。
「ねぇヴェル。あなた仮想通貨に興味はない?」
「今のところはない」
母上と高級焼き肉店でバラバラにしたあと焼いた牛や豚などを食し、酒も回ってほろほろしてきた頃に母がこう切り出したのだ。
「仮想通貨というのは電子上のお金だけどもうすでは現金よりもあらゆる点で進んでいるの。あなたは車がもうあるのにまだ馬に乗る? 電気があるのにまだろうそくを使うのかしら。今では仮想通貨OKのお店も増えてるし、まだまだ価値も高くなるから、投資するなら今なのよ」
叔父上と母上は口調以外はほぼ一言一句同じだった。確かに母上と叔父上は仲が良い。俺と同じ弱点を抱え、母上の活動拠点である東京の中心に立ち入れない悪魔である父上とは行動範囲が違い、さらに生きる活力に溢れる叔父上と母上は馬が合うようで、義理の姉弟として実の姉弟以上に噛み合っているのだ。ダイエットと称して同じグループLINEで電子の地図上に設置された化け物に白と赤の礫を投げつけて下僕とする電子遊戯をプレイしながらウォーキングしているほどだ。比類なき世渡りの天賦の才を持つ母上、そして常に最先端を見る叔父上だが、同じように仮想通貨に身を投じた二人でも、その末路は違って見える。母上はおそらくうまくやるだろう。そして叔父上は、父上に似た愚直さが災いし、損をするだろう。そして、父上の弱点と愚直さを色濃く受け継ぐ俺は恐らく、仮想通貨で身を滅ぼすだろう。姿なき金、まさに金のゴーストとでも呼ぶその存在に俺は初めから懐疑的だった。
「俺にはできぬ」
「どうした。怖気づいたか」
「怖気づくか怖気づかないか、その二つでは語れぬこともあるのだ叔父上。悪魔には似つかわしくない言葉だが、俺は日本円を信じているのだ。座して変動の行方を見守るなど、やはり楽して儲けることとはどうも結びつかぬ。むしろ苦行ではないか」
「……楽して儲ける? 誰が楽して儲けるために仮想通貨を買えと言った! 経済がこれから進む暗闇の世界に明かりを灯すであろう仮想通貨を、我々天使、そして凛々子殿のような活気漲る開拓者の精神を持った人間が、一歩先に行き灯火となることを何と履き違えている! 仮想通貨を、買えば増える魔法のパンと葡萄酒とでも思っていたのか!」
「すまぬ」
「こちらも少々熱くなってしまったな。だが、楽して儲ける術があるなどと甘い考えがあるようでは、そちらのほうがよっぽど金というものを理解していない」
叔父上は大変正義感が強く、厳粛な天使である。言い換えれば短気でもあるのだが、謝ればすぐに平静さを取り戻すため、危険な人物ではない。だがなにゆえにここまで言われねばならないのか。
「俺は既に、通貨で痛い目を見ている」
「痛い目? どうした。FXにでも手を出したか」
「もっと小さな事象だ」
あれは母上と話したのよりさらに数日前のことだった。俺は母上の妹の娘である幼き従妹を連れ、東京の街を徘徊していた。従妹は齢七つ。小学校に上がったばかりの身であり、彼女もまた活気に漲る人物であるが、齢四十八の母、齢の推測不可の叔父上とは違い、まだ世間に揉まれていない、挫折と世に満ちる悪意と恐怖を知らない幼き活気である。この春にようやく月に100円のお小遣いをもらい始めた程度で、資本主義を泳ぎ始めたとは言い難く、資本主義の厳しさをまだ知らない。いや、まだ知るべきではないといったところか。今月の生活資金はまだかなり残っている、と思っていたのに公共料金のことを忘れていてだいぶ引かれてしまい、苦しい思いをするのは大人の俺でも堪える。そして、母上と叔母上が少しの間、食事に出かけるので我らも従兄妹同士水入らずの時間を送ることになったのだ。「変な口調を移さないで」と叔母上からの注文付きで。
「何かほしいものでもあるか」
「ニンテンドースイッチ」
「ニンテンドースイッチか……」
俺は少し唸った。俺はニンテンドースイッチを買ったことがある。それも発売日に並んでのことである。件の叔父上である。叔父上は例により、多忙を極めて俺に予約を命ずるのを忘れていたのである。俺にも仕事があるため毎度毎度こうでは困るのだが、購入したニンテンドースイッチを天界に持ち帰るのを待ちきれないと、俺の部屋で叔父上がニンテンドースイッチの『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を起動し、その広大な世界とボイスに落涙する叔父上を見て、不意に俺も心を動かされるものがあり、許してしまった。その後、かの商品が品薄となり、悪質な人間に買い占められ、転売により値段が吊り上げられていく醜悪な人間の消費社会の貌を見た。禁酒法時代、闇市で酒が高騰したように、管理できる枯渇は不当に値を上げ、消費者が音を上げるのだ。
「ニンテンドースイッチか……」
「ダメだよね」
「お主の母上がそう言ったか? 高価なものはダメだと言っても理由はいくつもある。例えば、欲しいものがいつでも手に入るという感覚を覚えてはダメだ、という場合もある。この場合、お主が我慢を覚えることが出来なくなる。高価なものが財布を圧迫するからダメ、という場合もある。確かに、お主の父上と母上も、ニンテンドースイッチ一つで揺らぐような金銭管理や経済規模ではない。だが、我慢を知らぬ子どもが、無節操に欲しいものをねだり買い与え続ければお主の家はパンクする。そうなればお主も月に100円などと悠長なことは言ってはいられぬ。早朝から新聞配りになろう」
「ダメかぁ」
とはいえ、金は多く持っている方が誇れる。絵画に飛行機、異性との交遊などいかに多くの金を使ったかを競うような金持ちもいる。かくいう俺も、従妹にはいいところを見せてやりたいと考えており、ニンテンドースイッチの一つもポンと買える経済力の持ち主、と松田やカマエルに自慢したいとも思っていた。このように、俺も資本主義の水の中で見栄を張り、溺れないように立派なエラをつけて泳いでいるのである。
「ぬ?」
財布を探るために鞄に手を突っ込むと、内ポケットにある何かに指が触れた。それを引っ張り出すと、小さな小切手のような束だった。
「なんと……」
「どうしたのヴェルさん」
「お主にニンテンドースイッチを買ってやろうぞ!」
「本当に⁉」
「よかろう。ただし、少し歩くぞ」
俺の指にかかったのは、かつて俺とカマエルが、松田を連れまわすための経路を散策していた際に、カマエルが福引で引き当てた商店街の商品券10万円分であった。俺もすっかり忘れていたが、うっかり鞄の中に10万円もあったのだ。ニンテンドースイッチは3万と少し、ニンテンドースイッチなら3つも買えてしまうのだ。従妹を連れ、福引を引いた本郷までしばし歩き、カードゲームの卓のある今時珍しい個人商店の玩具店で新品のニンテンドースイッチを見繕う。
「誕生日だったな?」
「うん」
「ソフトはどうする? 『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』はお主にはまだ早い。かのゲームはすぐに即死するからな」
「『スプラトゥーン』!」
「ゆめゆめ忘れるな。特別な日でなければ、こんなことは二度とないぞ。次からは我慢できるな?」
「うん!」
「フハハハハ! よいだろう! ラッピングも頼んでやろう! そうら! 商品券だ!」
ラッピングを終えた、プラモデルのエプロンをかけた老店主に商品券の束を丸ごと渡すが、老店主は分厚いメガネの奥を曇らせる。そして商品券の束を持ち上げ、離しては寄せ、離しては寄せを繰り返す。
「うん? おい、倅。倅ぇえ。これまだ使えるのか?」
「どうした親父」
卓で高校生を相手にカードゲームの卓で札遊びをしていたガタイに恵まれた三十路程度の倅がやってくる。身長は俺と同じくらいだが、その逞しい筋肉と脂肪の合計は100キロ近いだろう。
「こちらのお客さんがこれで払うって言ってんだけどこれ期限切れてるよな」
「切れてる切れてる。お客さんすみませぇん。これ期限切れちゃってますね」
背筋が凍り付いた。商品券10万円はにわかに俺を無敵に近いような感覚にしていた。そのために俺はこれからニンテンドースイッチを買うというのに現金を余分に用意していなかったのである。その額およそ、2万5千円。ニンテンドースイッチを買うには足らない額だったのだ。
「使えぬというのか?」
「使えないっす」
「しばし……しばし待て」
どうするべきか。従妹にニンテンドースイッチを諦めさせるしかないのだろうか。散々従妹に説教をかまし、俺自身もニンテンドースイッチを買ってやれることでいい気になっていた。店主ももうラッピングを終えているため、今、この段階から断るのは非常に困難である。おそらく従妹は号泣すると思われる。助けを呼ぶべきか? 救難信号を発して最も早く駆け付けるのは叔父上かカマエルだろう。だが目の前で俺が助けられる様を見せると従妹は激しく幻滅し、俺自身も大変惨めな思いをする。だが逡巡する余地はもうない。これ以上は場を持ちこたえさせることが出来ない。
「もう少し、ソフトを選んでみたらどうだ?」
俺の尋常ではない様子に玩具屋の倅は気づいている。従妹の視線をゲームソフトの棚に逸らし、察してくれと財布の中の紙幣とキャッシュカードを全て引き吊りだし、玩具屋の倅に見せる。倅は俺の気持ちを斟酌し、店を出てすぐのコンビニを指し、従妹の肩を叩き、カードゲームコーナーを案内する。
「お嬢ちゃん、ポケモンカードは好きかな?」
倅の援護を受け俺は全力でコンビニのATMに駆けた。
あの日、俺は日本円以外の全ての金の信用を止めた。
「そんなことがあったのか」
「ああ。そもそも俺はクレジットカードすら持たぬ。金の運びには慎重なのだ」
「ならば私は何も言うまい」
母と叔父上の買った仮想通貨の銘柄が不正流出し、ゴミクズ同然となったことを知るのはその数時間後だった。しかし、母はさすが世渡りの達人、既にリスクを解消すべくほとんどの通貨を手放した後だった。一方の叔父上は大打撃を受けた。
「脂が乗り、新鮮だからこそ腐るのも派手に早くといったところか」
しかし亡霊は決して死なず、そして腐らない。
「今回のことは残念ね。ミカちゃんは大損だわ」
「今回のことは残念だ。私は大損だが。仮想通貨の存在そのものが貶められたのではない。金も人も天使も、試練を超え限界を超え強く研鑽される。鉄が何度も焼き入れられ強くなるように金も強くなるのだ」
詰まるところ、母も叔父上もポジティブな性格であり、そういう性格の者に仮想通貨は向いているのだろう。ならば猶更俺には向いていない。そして母と叔父上は同じ前向きな性格で向いている方向は微妙に違っている。
「しかし、天使の給料の出どころとはいったい……」





