東京悪魔と永遠の別れ
全ての命には限りがある。不滅のように思える天使や神、悪魔を身近に暮らしている俺でさえも、命は有限であると感じる。叔父上や父上、ベルゼブブ殿もいつか死ぬ日が来るのだろう。しかし、その死が人間と同じとは限らない。かつて天使だった父上が悪魔に生まれ変わったように、命尽きることだけが死ではないが、存在としての限りがあってこその命である。金と同じだ。無限に使える金を誰もが持てば金の価値が暴落するように、命には限りがあるから今日を懸命に生き、寿命を延ばし、大切な者たちの命を守ろうとする。
「おい。おいどうした。死んでしまったというのか⁉」
日が昇る切るまでゆっくりぐうたらと寝て過ごして夏のある休日、目を覚ますと、部屋の隅に置かれた水槽に酸素を送り込みと濾過を兼ねる装置、エアレーションが空転していた。エアレーションの空転、それは即ち、水槽の金魚が絶命しているため、問題なく起動していても意味を成していないことを表す。
「おおお。なんということだ」
ぷかぁと浮かぶ金魚の腹。胸の奥で楕円形の闇が渦を巻くような悲しみのざわめきと振動を覚える。
「この夏の暑さか。いや、水温は正常だ」
一つ一つ声に出し、気分を落ち着け金魚の死因を推理する。この金魚との付き合いは長い。あれは斎藤と二人で祭に出かけ、斎藤がチャラチャラと浴衣の女生徒に声をかけていた時のことだろう。そうなるともう15年も前のことになる。
「いや、それはいつものことか」
斎藤が妙齢の女に声をかけるのは斎藤が中学校に上がって以降常にだった。あの時が特別だった訳ではないが、この金魚との出会いは俺と斎藤がおよそ15歳だった頃のこと。
「アハハハハ! わたしの34歳の誕生日パーティへようこそ!」
母上の34歳の誕生日パーティの時には既に部屋の隅に金魚はいた。やはり15年も生きたことになる。18歳で家を出て一人暮らしになった時、最後に運び込んだのはこの金魚だったような気がする。思えば人生の半分近くをこの金魚と過ごしたことになる。斎藤の次に付き合いが長いことになるが、もしも金魚と会話が出来たのならば斎藤より良い友人になってくれただろう。15年。今更、夏場の水温管理を怠って金魚を死なせるはずもなかった。
「水の濁りもない。水質も正常であろう。水カビの類も見られない。エサをやりすぎた記憶もエサを忘れた記憶もない」
紛れもない。寿命である。経年により命の残量が尽きた円満な死である。ふと金魚との記憶が走馬灯のように去来する。金魚すくいの小さな輪、するりするりとすり抜けていく金魚たちと心の乱れに連動して強度が変わる和紙。
「はは、ヴェルのヤツ、不器用でやんの」
「ぬ」
女生徒を連れたいけ好かない斎藤はその処世術のようにふわふわと器用に金魚を掬い、茶碗に金魚を移していった。そしてビニールの巾着に金魚を三匹入れ、祭の明りにかざしてキラキラと俺の顔を照らして見下ろした。
「いるか?」
「えぇぇ、アタシの家猫いるしぃ」
「じゃあヴェルにやるよ」
こうして俺は東方の三賢人と同じ三匹の金魚を手にしたのである。
「あらあんたどうしたのその金魚」
「俺が掬ってやったのだ」
母上にさえ見栄と嘘を吐いていた青い時期だった。母上は物置から、使っていない衣装ケースを引っ張り出し、きれいに洗って水を張り、今夜が山、と告げた。そして迎えた朝、金魚は一匹に減っていた。
死んだ金魚を母上のマンションの植え込みに埋葬し、俺は水槽と設備を買いに近所のホームセンターに向かった。
「あなたがもらってきた命なのだからあなたのお金であなたがしっかりと面倒を見なさい」
母上は金魚にも厳しかったが、それが命を預かることの重みであるという、俺への遅めの教えだったのだろう。なんだかんだで情に厚い母上は、水質が悪化しない程度にこっそりエサをあげたり、水槽に置くオブジェクトを買ってきたりと可愛がっていた。引き取る気もないのに金魚を三匹持ち帰ろうとしたとは斎藤はなんと無責任に金魚を愚弄したのだろうか、と少しいらだったが、思えば彼奴の家には熱帯魚の巨大なアクアリウムがあった。小さな水槽から徐々に大きくさせていったのだと自慢させていたところを見ると、彼奴も古い水槽の取り置きぐらいはあり、女生徒も俺も引き取らなければ自分が家で飼育したのだろう。
水の中に横たわり、動かなくなった金魚を見れば見るほど心が痛む。最初に二匹の金魚が死んだときも胸が痛んだが、今度は過ごした年数が違いすぎる。かつては煮干し程度だったが、もはや小ぶりの鯛と言っても相手が馬鹿ならば押し通せそうなほどの大きさの金魚である。金魚すくいのあの夜を超えた金魚は頑健であり、憎たらしいほどに逞しかった。ここまで育て上げた金魚がついに寿命を……。この世の全ては消耗品である。金魚の命も消耗品だが、何に消耗して金魚は死んだのだろうか。命を使い果たすことでここまで心を痛めるほど俺に愛されたことで消耗したのだろうか。俺以外の者、例えば斎藤やあの女生徒に飼われていれば、金魚はもっと長生きできたのだろうか。しかし、その場合、同じ金魚でも他人の金魚としてここまで感傷的になることはなかっただろう。こんなことを考えるほど、俺は小さな命の死を悼んでいたのだ。
「おのれ……」
スマートホンで金魚の葬り方を調べる。俺が今住んでいるマンションは埋め込みや土の地面がない。鉢植え程度はあるが、室内の観葉植物であり、かつて読んだ漫画随筆で鉢植えに金魚を埋めると亡骸が露出した、という話を思い出した。こうなると、もう金魚の亡骸は生ゴミとして捨てるかトイレに流すしかないのである。しかし、生ゴミとして捨てるとなると、ゴミ箱のフタを開ける度に金魚の亡骸と対面することになる。この夏の高い湿度と気温の中、ゴミ箱内での腐敗も心配であり、既にこの大きさの金魚となると、腐敗は最早見過ごせる問題ではない。そうこうしているうちにも、金魚の腐敗は進み、水は浸食され室内の空気も悪くなってしまう。俺は早く、金魚を葬ることに気持ちを切り替えるべきなのだ。決意は済んでいる。コンクリートジャングルでは友を葬ることすらできないのだ。トイレに流すしかない。だが、体はそう簡単に動かない。
15年にも及ぶ長い間を共にした金魚を排泄物よろしく便器に投げ捨てることもまた心を痛めるのだ。さらにこの大きさも俺の苦悩に拍車をかける。詰まらないだろうか? 俺は一度、タバコを吸って気分を落ち着けた。しかし、いくら気持ちを落ち着けたところで金魚は蘇らないのである。これが死。愛着のある者の、「死んでほしくない」と思っている、或いは心のどこかで「死なない」と思っている者の死……。天使や悪魔と言ったほぼ無限の命を持つ者に周囲を囲まれていたせいで、齢30にしてようやく身近な命の重みを知った。
「来世でまた会おう。その時は、俺に飼われて幸せだったと言ってくれ」
亡骸が浮かばぬよう、丁重に紙の棺で金魚だったものを包み込み、トイレのレバーを下ろした。流されていく瞬間を直視できず、手を合わせながら目を瞑った。思えばこの金魚に名前はなかった。金魚と言えばこの金魚以外にないのである。そう、例えば、神や魔王のように唯一無二の存在が個別に名前を持たないように、俺にとって金魚とはこの金魚だけだったのだ。
「今日に限り、神よ、この者の御霊をすくえ」





