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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京人間模様編
26/43

東京悪魔は地獄に落ちろ 後篇

「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお知らせします」


 オーロラビジョンにジャイアンツのプロモーションビデオが映り、隣の松田(まつだ)、いや、場内のジャイアンツファンたちが拍手と歓声を飛ばす。置いていかれないように拍手をするが、すぐに手に痛みを覚えてしまい、松田のように拍手を続けることができない。


「坂本! 坂本!」


 俺も一応、アナウンスされた名前を復唱するが、ここにきて松田の気迫はまだ強くなる。それでもまだ試合開始の時点、この後、試合の展開と勝利の場合の分まで残している。これが意味することはわかっている。まだまだ序の口なのだ。


「内海ぃい! 今日の試合は早く終わりますよ、内海ですから!」


 先発投手がマウンドに立ち、投球練習を開始。後攻のジャイアンツの選手たちがグラウンドの守備の定位置につく。みどころを聞けばよいのだろうか。いや、それも松田のせっかくの応援に水を差すことになるのか……。俺にできることは、もうせめて松田の邪魔をしないことなのだろうか。松田の前の俺は悪魔ではない。母の血肉を受け継いだ、怯懦な弱き人の子なのだ。


「ふぅ、守備の間に少しギア下げますか」


 松田が深く腰掛け、一息つく。そしてよほど所在なさげにしていたのだろう、俺の顔を覗き込む。


「あんまり詳しくないんですよね?」


「すまぬ。心底すまぬと思っている」


「相手チームの背番号1、山田がヤバイんです。日本代表選手ですよ。走! 攻! 守! 三拍子そろった万能選手! 山田を抑えない限り、相手は止まらないです」


「山田に気を付けるのだな」


「ええ、山田に! 逆に言えば、山田も見どころの一つですよ。そして、もう一つの楽しみが、ビールです」


「ビールとな?」


「さっきから気になってると思いますが、ビール売りのお姉さんすごくかわいいんですよ」


「ぬ……」


 確かに金属のビールの樽を背負い、野球帽をかぶって階段を歩いている若い女は見た目が可憐である。だが仮にも松田と共に来ている身、軽薄なことは言えない。斎藤(さいとう)ならばちゃらちゃらと歯が浮くようなせりふを並べてごまかすだろうが、悪魔にあるまじき誠実で品行方正な俺では黙って凌ぐしかない。


「かわいいですよねぇ。この急な階段をあんな重いものを背負って歩くんですよ。芸能人になる子もいます」


「そうか」


「だから売店ではなく女の子からビールを買っちゃいます」


 松田の手が俺の眼前を横切り、ビールの売り子を呼ぶ。体が委縮、硬直し動かなくなる。


「あ、前失礼」


 すぐに身を翻し、背中側から松田が手を伸ばす。一瞬目に映った松田の袖が瞼の裏に焼き付。


「ビール二つ」


「俺は飲めぬ」


「んん?」


「今日は飲めぬ。そうだ、休肝日だ」


 これ以上は酔えないと判断し、咄嗟にウソをついた。何しろこれだけ出来上がっている東京ドームの空気に酔えていないのだ。下手を打たないよう心掛けているうちに後手後手に回っていることはわかっている。だが、今の俺では打開の一手は打てないのだ。


「残念ですねぇ。じゃ、悪いですけど一人でお先にいただきます」


 松田が心底美味そうにビールを流し込み、恍惚の表情。大好きな球場で大好きな酒、さぞかし美味いことだろう。ここでの酒を美味そうだから飲もうと思えないのは俺の問題である。松田はジャイアンツを観に来ているが、俺は松田を見に来ているようなものだ。


「攻守交替の前に飲み物を買ってくる。何か買ってくるものはあるか?」


「今は特にありません」


 俺は何を期待していたのだろうか。この東京ドームに何を……。デートか? デートがしたかったのか? 野球を観ることが目的である東京ドームで何を進展、発展させればよいというのか。松田はあくまでも野球を観に来ているというのに! 俺に何をしろと言うのだ! 何が出来るというのだ! 最早この野球観戦は好機ではない。だが落ち着こう。今の俺は平常心を欠いている。好機だと思って浮き足立ち、下手に行動すると身を滅ぼす。まさに野球における併殺の状態になるため、俺は落ち着くべきだ。まずはタバコを吸おうと喫煙所を探すが、広く人ゴミばかりのドーム内で迷ってしまい、知らず知らずのうちに外野の方に迷い込んでしまったようだ。外野席はさっきまで俺のいた内野席よりもさらにボルテージが高い。座っている者の方が少ないのでは感じるほどだ。鳴り物応援に負けじと声を張り上げる観客たち、こちらにいたらさらに気圧され望み薄だっただろう。突如、場内が爆ぜんばかりの歓声に沸く。どうやら件の背番号1番の先制打のようだ。


「地獄に落ちろジャイアンツ~、KOKOジャイアンツ! KOKOジャイアンツ!」


「おのれ、この……」


 得点した相手チームのファンが一糸乱れぬ大合唱で我らがジャイアンツを罵倒に近い言葉で挑発する。やはり俺もそこまで上げねばならないのか? 見ず知らずの相手に地獄に落ちろと言えるほどまでに! だが相手は応援団である。そう、団なのだ。俺は個にして孤である。だが、相手である松田もまた個であり、さらに二人で観戦する予定が、一人心ここに非ずで孤にしてジャイアンツを応援している。喫煙所に入り、モニターで試合の様子を見る。テレビでは背景でしかない観客たちだが、今日は俺も背景の当事者である。なのだが……。バルバルバルバルとスマホが鳴った。開くと松田からの連絡である。スマホ内の電子の小窓に「打たれちゃいましたよ」と書いてある。そしてすぐに「オイシイ場面を見逃しましたね」とも。敵の得点すら熱狂に変える。これが野球観戦か。


「ぬぅ……」


 既読無視したい。今日、この場限り。


「ぬぅううう」


 ジリジリとタバコの火が赤く輝き俺を焦らす。だが逃げるわけにはいかないのだ。まだソロホームラン一本、試合はまだまだ18分の1も終わっていない。タバコを吸っても気持ちは少しも落ち着かなかった。三角形の紙の筒に入ったポップコーンと炭酸飲料を買い、席に戻る。


「今戻った」


「ちょうど交代ですよ」


 相手チームのナインがグラウンドに散る。


「坂本ぉ! 坂本ぉ! 坂本ぉ! ウチの姉をお嫁にもらってあげてぇ!」


「ぬぅう!」


 松田が野次にも似た応援を打席のジャイアンツの選手に送る。


「のう、松田よ。姉がいるのか?」


「わたしより結婚願望の強い姉がいます」


「ほ、ほほぉう」


 反応に困る。だが、俺が何かをどうにかしなければ、どうにもならない。そう、例えばもう逃げることすらも、俺が逃げることをしなければならない。野球もそうだ。どれだけ勝ち目がなくとも、逃げだしたくとも、敗北を得るためにはアウトにならねばならない。「何もしたくない」では、時間制のサッカーやアメフトと違い試合は進まない。


「俺には兄弟はなくてな」


 と会話の口火を切るものの、せっかくのジャイアンツの攻撃時に野球の話ならまだしも、俺の私的な会話など邪魔なだけではないのか。


「父には弟、母には妹がおる。叔母には娘、俺から見て従妹にあたる者がおってな」


「ほう。おいくつですか?」


「齢七つを数える」


「可愛い盛りじゃないですか。私がその頃には、もうこの人はプロにいましたよ」


 と、タオルを胸元で留めるリストバンドの背番号を指す。


「小学校入学の祝いに何か買ってやらねばと思っている。従妹のためだけではなく、俺自身が大人であるということの証明でもあるからな。自転車等どうかとな」


「へぇ、いいじゃないですか。確かに、小さい時にお小遣いや何かを買ってくれる親戚は大人に見えたっけ。しかし、意外ですね」


「ぬ?」


「てっきり、平熱33度の天然クールな面白硬骨漢だと思ってましたよ。気を悪くされました?」


「いや、悪い気はせんぞ。いい響きだ、硬骨漢」


「ご家族はどんな方なんです? やっぱりヴェルさん似ですか?」


「母の世渡りの素養、叔父の熱血さは残念ながら俺には受け継がれなかった。遺伝したのは父の愚直さのみだ。母や叔父と来たらさぞかしお主も楽しかろう」


「やめてくださいよぉ。知らない人と野球観戦なんてできませんって」


「ぬぅう!」


 俺は知らない人ではないのか? 確かに松田とはSNSでよくやりとりをしている。食事にも行った。だが疑心暗鬼になってしまう。


「そういえば松田よ。お主の以前の職は営業だったな」


「はい。アレはヒドかったなぁ。人はえんぴつじゃないんですよ。削って削って使ってダメになったらハイ次、じゃないんですよ人間は」


 その時の技術で俺を転がしているのかもしれない。


「おおっ、坂本ぉ! ファールか」


「だいぶごひいきなのだな、その選手」


「ええ、坂本も代表選手ですし、ジャイアンツの方では最注目の選手です。監督以外では一番応援してます」


「ならば俺も注視しよう」


「あ、使います?」


 松田が鞄から双眼鏡を取り出し、俺に差し出す。ふわっと甘い石鹸の香りがした。


「うむ。忝い」


 双眼鏡で打席に立つ背番号6をじぃと見つめ、松田から目を逸らす。


「ぬ?」


 背番号6が振りぬいたバットと呼ばれるこん棒が白いボールを殴り飛ばす。火が出るような勢いだ。慌ててその行方を探るが、不意に視界がグラグラと揺れる。松田が俺の肩を掴んで揺すっているのだ。


「打ちましたよヴェルさん! 切れたか⁉ 切れてない! ホームランですよ! 運がいいなぁ、打ち合いですよ今日は!」


 双眼鏡からほんの少し目を離す。俺は目が大きく視界が広いので、ほんのわずかな隙間から隣の松田の様子を窺うと、後ろの席に座っている見ず知らずの青年と掌を叩き合わせて喜んでいる。スコアボードに刻まれる1の文字。ダイヤモンドを一周する背番号6。その背中が妙に誇らしく、輝いて見えた。双眼鏡を覗き込んだまま、どうしたらいいかわからない俺の視界に、急に拳が入ってくる。


「ジャイアンツが得点した時は、オレンジタオルをぶん回しながらグータッチです」


 俺が控えめに握り拳を作ると、松田がその拳に拳で触れる。松田と拳が触れたのだ。そのきっかけは、坂本。


「でかしたぞ、坂本よ」


「ええ、でかしましたよ、坂本! もっと大きな声で! 届きませんよ!」


「でかしたぞ、坂本よ!」


「グータッチ!」


 決して俺にとって大声ではない。例えばゲーム屋の行列に割り込んだガキを怒鳴りつけた時、社長の結婚式で酒に酔った時……その時の方が大きな声が出た。だが、あの時は出した俺にとっても不意。出してもよい、もっと出せと言われてこんな大きな声は出したことがない。そんな俺の声さえも、東京ドームの真っ白な天井と理性のタガが外れた歓喜の声に飲まれて消える。双眼鏡で逃れることを止め、松田の顔と俺の間の空間でゴツンと拳と拳をつつき合わせる。


「坂本!」


 俺の何かが解き放たれた。俺の理性のタガが少し外れたような、爽快感と心地よい背徳感が俺の体を突き抜ける。俺が抱えていた問題は何一つ解消されていない。松田は義理で俺とジャイアンツを応援しているのではないか、営業のスキルを使っているのではないか、そういった事柄が、今この数時間、野球の試合が行われる数時間はどうでもいいようなことに思える気がしたのだ。俺は所詮、一人の女に臆した小さな一粒の悪魔である。だが、その一粒の砂だった俺は今、5万の砂漠の中にいるように感じるのだ。今だけは、5万の砂漠の中で生真面目にも慎重にもなることはない。ただひたすらに何も考えず、野球を応援すればいいのだ。理性のタガを外し、頭が狂っているかのように声を出す。それが、精神面では東京ドームの正装なのだ。服装を間違った俺だが、精神の着替えはまだ遅くはない。


「天晴!」


「天晴!」


 その後、俺は坂本の打席、坂本の守備機会の度に声援を送った。その声は徐々に大きくなり、最終的には感情の堰を超え、喉が張り裂けんばかりの声東京ドームに送った。松田の言った通りに、坂本に届け、と声を挙げた。もちろん、俺がいくら大声を出したところで坂本には届かない。俺の声は所詮、5万分の一である。俺一人など、なんと小さなことだろうか。


「負けちゃいましたね」


 試合終了後、松田とドーム内の喫煙所で人の出が収まるのを待った。敗戦であるというのに、松田も俺もどこか晴れやかな気分だったと感じる。松田は東京ドームで野球を観られたこと、俺は松田とのグータッチで理性のタガを外すことが出来たこと、或いは松田に触れたことが理由なのだろう。だが試合が終わると、潮が引いていくように俺の声の最大値は下がっていった。一種の酔い、或いは夢が醒めたのだ。


「お似合いですよ」


「フハハ」


 手首に巻いた坂本の背番号6のリストバンドを掲げる。つい財布のひもが緩んでしまったのだ。


「ヴェルさん」


「なんだ」


「楽しかったですか?」


「うむ」


「なんていうかわたしは、ヴェルさんに借りのようなものがあったのです。わたしが仕事でおかしくなった時に、偶然現れて仕事をやめる背中を押してくれた。そのきっかけをくれたことを返さねばならない気がしていました」


「ぬ」


「わたしは……少しは返せているでしょうか? ヴェルさんは楽しかったですか? わたしだけが楽しかったのでしょうか。なんていうか……ちょっとわざとらしくはしゃぎすぎてましたか?」


 何故それを今言うのだ。


「気にするな松田よ。俺は……」


 松田よ。今付き合っている人間はいるのか? その一言が言えない。それどころか、俺は悪魔であるという身の上の告白も、JR山手線というタガがはまっていることもまだだ。ここにきて、外したい最後のタガがやはり、外れない。


「俺にとっては全て些事!」


 そして俺は、いつも通りの自分を演じることでその言葉から逃げた。松田が細い煙を吐く。


「ははっ、キャラがブレませんねヴェルさんは」


「以前にも同じようなことを言われた覚えがあるな」


「その人はどうなりました?」


「俺のもとを、いや、東京を去った。あやつは男だが。そっち系の話ではないぞ」


「わたしは東京を去りませんよ」


「そうか」


「まだ去りゃしませんよ。まだまだ。さて、帰りますか。帰りも帰りで面白いんですよ。ドームを出るときは想像を絶する強風が吹くんです。おそらくヴェルさんが体験したことのないレベル」


「楽しみにしよう。のう、松田よ。誘えばまた来てくれるか?」


「わたしとヴェルさんの仲じゃないですか。いまさら何を言っているんです」


「そうか。俺がバカであったな」


 どこか父の愚直さが垣間見えるようなセリフを吐く。


「次はクライマックスシリーズ! その次は日本シリーズ! まだまだ面白くなりますよ、野球は!」


 松田とグータッチを交わす。この時ばかりは、俺も祈った。松田のこの言葉や仕草が、頭が狂うと書くトーキョーにあてられたものではなく、もう平静であり、本心からのものである、と。


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