第2話 これも修行の一環ですか?
朝、七時頃。
夏の朝らしく、本来なら眩しいほどの太陽が空を照らしているはずだった。
しかし――
突然、空の色が変わった。
青空を覆い尽くすように、黒い雲が猛烈な勢いで広がっていく。
「……何だ、これ?」
ゲイリーは空を見上げた。
ガヤや城にいた者たちも、次々と異変に気づき、空を見上げる。
そして、黒雲の中から何かがゆっくりと降りてきた。
人影。
まるで重力など存在しないかのように、その人物は空中を漂いながら、少しずつこちらへ近づいてくる。
灰色のロングコート。
深く被ったフード。
顔は完全に隠されていた。
その人物が地上から約百メートルほどの高さまで降りてきたとき、ゲイリーは奇妙なものに気づいた。
「……あれ、水……?」
男の足元には、大量の水が渦を巻いていた。
まるで小さな竜巻のように回転する水の塊。
それが、まるで足場のように男の身体を空中に支えている。
「空を……飛んでるの?」
ガヤが呟いた。
次の瞬間。
男はヒムラの城の屋根へと静かに降り立った。
そして――
屋根から飛び降りた。
ドォンッ!!
男が地面に着地すると、強烈な衝撃が辺りを揺らした。
その反動でフードが後ろへ落ちる。
現れたのは白い髪。
そして、ラテン系を思わせる顔立ち。
年齢は四十五歳前後だろうか。
男はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間――
その場にいた全員の背筋が凍った。
男の目。
それは、完全な黒だった。
瞳も、光の反射もない。
まるで二つの深い穴が、そこに存在しているかのようだった。
さらに、男の口からは灰色の蒸気が漏れている。
その周囲には、これまで嗅いだことのない異様な臭いが漂っていた。
男はゲイリーを見つめる。
そして、静かに口を開いた。
「La encontré. Tu espada ha despertado y será mía.」
「……え?」
ゲイリーには、一言も理解できなかった。
スペイン語だった。
だが、言葉が分からなくても一つだけ確かなことがある。
この男は、自分を狙っている。
そして――
男の腰には一本の剣があった。
ゲイリーの持つ刀とは違う。
細く長い刃。
かつてスペイン人がアメリカ大陸の植民地時代に使用していたサーベルを思わせる形状だった。
男が柄に手をかける。
次の瞬間――
シャキンッ!
サーベルが抜かれた。
同時に、湖の水面が大きく波打つ。
大量の水が男の背後から空中へと噴き上がった。
水は形を変えていく。
腕。
手。
そして――
巨大な拳へ。
「な、何だよ……あれ!?」
ゲイリーが叫ぶ。
だが、遅かった。
巨大な水の拳が、ゲイリーへ向かって飛んできた。
ドォォォン!!
「うわああああっ!!」
直撃。
ゲイリーの身体は、まるで人形のように吹き飛ばされた。
木々をなぎ倒し、そのまま森の奥へと消えていく。
「ゲイリー!!」
ガヤは叫び、すぐさま彼の後を追った。
その一方で、ヒムラは迷うことなく城の中へと駆け込んでいった。
湖の上に立つ男は、しばらく何もせず、その場に佇んでいた。
しかし――
「ぐ……っ」
突然、両手で頭を抱えた。
「うああああああああっ!!」
絶叫。
男の身体が大きく震える。
まるで頭の中を何かに引き裂かれているかのように、激しい苦痛に襲われていた。
だが、その異変は数秒で終わった。
男はゆっくりと呼吸を整える。
そして、何事もなかったかのように顔を上げた。
再び、城へ向かって歩き始める。
◆
「ゲイリー!」
森の中。
ガヤは倒れているゲイリーを見つけた。
身体にはいくつかの傷。
額からは血が流れている。
それでも、木々や茂みが衝撃を和らげたおかげで、致命的な傷は免れていた。
「ゲイリー! しっかりして!」
反応がない。
ガヤはポケットから小さな瓶を取り出した。
蓋を開け、ゲイリーの鼻元へ近づける。
「……うっ!」
ゲイリーが突然目を開いた。
「ゴホッ! ゴホッ!」
激しく咳き込みながら、必死に息を吸う。
「いったい……何が……?」
まだ状況を理解できていないゲイリーの肩を、ガヤが掴んだ。
「ゲイリー、戦って!」
「……戦う?」
「あいつはあなたの氷の刀を奪いに来たの!」
「でも……僕、戦い方なんて知らないよ!」
ゲイリーは自分の刀を見る。
「本物の剣なんて使ったことない! 侍のゲームなら、ゲームセンターでやったことあるけど……!」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
ガヤは焦った様子で城の方を見る。
「その刀は持ち主の意思に反応するの! 氷の武器だって、防御だって作れる!」
「どうやって!?」
「刀の力を使うには――」
その瞬間。
背後から巨大な水の拳が迫った。
ドゴォン!!
「きゃあっ!!」
「ガヤ!!」
ガヤの身体が吹き飛ばされる。
そして、近くの木の幹へ激突した。
そのまま地面に崩れ落ちる。
「……ガヤ?」
返事はない。
ゲイリーは立ち尽くした。
恐怖で身体が動かない。
しかし――
胸の奥で、何かが変わった。
恐怖が、少しずつ消えていく。
代わりに湧き上がってきたもの。
それは――
怒りだった。
ゲイリーは拳を強く握り締めた。
青い瞳が、氷のような輝きを増していく。
「……許さない」
ゆっくりと立ち上がる。
顔に付いた血を手の甲で拭う。
剣術など知らない。
本物の戦闘経験もない。
それでも、ゲイリーには子供の頃から見てきたヒーロー番組やゲームの記憶があった。
見よう見まねで構える。
「……これなら!」
ゲイリーは敵へ向かって走り出した。
男が腕を振る。
巨大な水の拳が飛んでくる。
「くっ!」
ゲイリーは横へ飛び退いた。
避けた。
自分でも驚くほど、身体が軽い。
速い。
まるで身体そのものが、何をすべきか理解しているかのようだった。
男の動きが止まる。
黒い瞳がゲイリーを見つめた。
そして――
男はサーベルを空へ掲げた。
黒雲が渦を巻く。
「……まずい!」
次の瞬間。
雨が降り始めた。
いや――
雨などという生易しいものではない。
猛烈な豪雨だった。
ザァァァァァァァッ!!
空から大量の水が叩きつけられる。
地面は瞬く間にぬかるみ、ゲイリーの動きも鈍くなっていく。
「くそっ……!」
そのときだった。
ゲイリーは湖の方を見た。
「……ガヤ!」
ガヤの身体が、ゆっくりと水の中へ沈んでいる。
「待ってろ!」
ゲイリーは走り出した。
しかし――
ドゴンッ!!
「ぐあっ!」
一撃。
ドゴォン!!
「うっ……!」
二撃。
そして――
ドンッ!!
三撃目。
ゲイリーの身体が地面へ叩きつけられた。
激痛が全身を駆け抜ける。
肋骨。
左腕。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。
それでも、ゲイリーは立ち上がった。
「……まだ……」
ふらつきながらガヤへ近づく。
「ガヤを……助けないと……」
彼女を抱き上げようとする。
しかし――
左腕が動かなかった。
「……動け……!」
動かない。
「頼む……!」
ゲイリーは歯を食いしばった。
その瞬間。
冷たい光が左腕を包み込んだ。
「……え?」
青白い光が腕を走る。
折れていた骨が、まるで時間を巻き戻すように修復されていく。
さらに、その腕を柔軟な氷の膜が包み込んだ。
「これ……僕の力……?」
理解する暇はなかった。
再び攻撃が飛んでくる。
「しまった!」
ゲイリーは反射的に腕を前へ突き出した。
「守れ!」
地面から巨大な氷の壁がせり上がった。
ドォォン!!
水の攻撃が氷壁へ激突する。
氷が砕け、周囲へ飛び散った。
だが――
ゲイリーは気づいた。
「……思った通りに、動く」
この刀は、自分の意思に反応している。
ならば――
やれる。
ゲイリーはガヤを抱き上げ、そのまま城の中へ運び込んだ。
安全な場所へ彼女を寝かせると、周囲を氷のドームで覆う。
「ここなら大丈夫……」
ゲイリーは立ち上がる。
「待ってて、ガヤ」
そのとき――
廊下の奥から足音が聞こえた。
現れたのは、ヒムラだった。
その手には灰色の刀が握られている。
「彼女は私が預かろう」
ヒムラはガヤへ視線を向けた。
「お前は敵を止めろ」
「……分かりました」
「ただし――」
ヒムラは真剣な表情で続けた。
「殺すな」
「え?」
「恐らく、あの男は何者かに操られている」
ゲイリーは一瞬だけ黙った。
そして、頷く。
「分かりました」
再び外へ向かう。
◆
ゲイリーが湖へ足を踏み入れた瞬間。
水面が一瞬で凍りついた。
パキパキパキッ――!
湖全体が、巨大な氷の大地へと変わっていく。
「……すごい」
自分の力なのに、ゲイリー自身が驚いていた。
対する男はサーベルを構える。
周囲に無数の水球が浮かび上がった。
「来る……!」
水球が一斉に飛んでくる。
「うおっ!」
ゲイリーは走り、次々と攻撃をかわしていく。
一つ。
二つ。
三つ。
しかし――
最後の一つが、ゲイリーの身体を包み込んだ。
「ぐっ……!」
水の球体の中。
身体が動かない。
息ができない。
「くっ……息が……!」
恐怖が襲ってくる。
このままでは――
そのとき。
ゲイリーの頭に、一つの考えが浮かんだ。
水。
そうだ。
これは水だ。
「……水なら」
ゲイリーの目が見開かれる。
「凍らせればいい!」
刀が青白く輝いた。
「凍れぇぇぇっ!!」
バキバキバキッ!!
水球が一瞬で氷へ変わっていく。
そして――
ドォォォン!!
内側から氷が砕け散った。
ゲイリーは自由になった。
「はぁ……はぁ……!」
だが――
敵はすでに目の前にいた。
「……え?」
速い。
避ける暇がない。
サーベルが振り抜かれる。
ズッ――!
「……っ!」
ゲイリーはその場に膝をついた。
激しい痛みが身体を駆け抜ける。
そのまま、氷の上へ倒れ込んだ。
「……まだ……」
刀を握る。
再び氷の力を使おうとする。
傷を塞ぐ。
骨を修復する。
しかし――
すべてを元通りにできるわけではない。
氷は傷の進行を抑えることはできても、万能な治癒能力ではなかった。
「……もう……限界だ……」
視界が霞む。
力が抜けていく。
そのとき。
ゲイリーの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。
テレビで見ていたヒーローたち。
絶体絶命の場面。
最後に現れる――
新しい力。
新しい姿。
巨大な鎧。
そして、巨大なロボット。
「……そうだ」
ゲイリーはゆっくりと顔を上げた。
「僕にも……できるかもしれない」
刀が強く輝く。
氷がゲイリーの身体を包み始める。
腕。
脚。
胸。
肩。
全身へと氷が広がっていく。
やがて――
ゲイリーの身体を覆う、巨大な氷の鎧が完成した。
まるで一体の巨大な守護ロボットのような姿。
男が一歩後退する。
初めて、その表情に動揺が浮かんだ。
氷の鎧の奥から、青い瞳が鋭く輝く。
「……今度は、僕の番だ」
ゲイリーが踏み込む。
ドォン!!
氷の鎧が地面を蹴った。
その速度は、先ほどまでとは比べ物にならない。
ゲイリーは男の身体を掴み上げた。
そして――
叩きつける。
さらにもう一度。
そして、もう一度。
激しい攻防の中。
男の黒い瞳から、何かが流れ出した。
黒い液体。
粘ついた、異様な液体だった。
口からも同じものが流れ出している。
「……何だ、これ?」
ゲイリーは動きを止めた。
氷の鎧が男の身体に触れるたび、黒い液体が次々と押し出されていく。
まるで――
氷が、その何かを身体の外へ追い出しているようだった。
「……ヒムラさんの言った通りだ」
ゲイリーは確信する。
「やっぱり、こいつは操られてる!」
ならば――
これ以上、傷つける必要はない。
「だったら……!」
ゲイリーは両手を広げた。
大量の氷が男の身体を包み込む。
瞬く間に巨大な氷のカプセルが完成した。
男は内部でもがき続ける。
しかし、そのたびに黒い液体が身体から吐き出されていく。
少しずつ。
少しずつ。
やがて――
最後の黒い液体が外へ流れ出した。
男の身体から力が抜ける。
完全に意識を失った。
ゲイリーは刀を構え直す。
これで終わらせる。
そう思った、その瞬間――
「ゲイリー!!」
ヒムラの声が響いた。
「殺すな!」
ゲイリーが振り返る。
ヒムラは叫ぶ。
「もう無力化されている! その男は私に任せろ!」
「……分かりました」
ゲイリーは刀を下ろした。
そして――
全身を覆っていた氷の鎧が、ゆっくりと崩れ始めた。
パキ……
パキパキ……
やがて氷は溶け、地面へと流れ落ちていく。
ゲイリーの身体から力が抜けた。
足に力が入らない。
呼吸も苦しい。
もう一歩も動けなかった。
「……ガヤは……?」
最後の力を振り絞って、ヒムラを見る。
「……大丈夫……ですか……?」
ヒムラは静かに頷いた。
「ああ。生きている」
「……よかった……」
それだけ聞くと――
ゲイリーの意識は、静かに闇へと沈んでいった。
こうして――
ゲイリーにとって初めての戦いは、幕を閉じた。
しかし、彼はまだ知らなかった。
この戦いが――




