魔女
森の奥に建つ小さな家を前にして、私はしばらく立ち尽くしていた。
窓から漏れる灯りは温かく見えるのに、胸の鼓動だけは落ち着かない。
本当にここなのだろうか。
願いを叶える魔女がいるという場所。
そんなもの信じているわけではない。
信じているわけではないのに、私はここまで来てしまった。
帰るなら今だった。
扉を叩かずに引き返せばいい。
そう思うのに足は動かない。
どれほど時間が過ぎただろう。
その時だった。
「入らないの?」
不意に声が聞こえた。
私は驚いて顔を上げる。
いつの間に開いたのか、家の扉の前に一人の女性が立っていた。
歳はよく分からない。
若く見えるのに、どこか年齢を感じさせない不思議な雰囲気がある。
長い銀色の髪が月明かりを受けて淡く輝いていた。
「そんなところで固まられても困るのだけれど」
女性は小さく笑う。
「私に会いに来たのでしょう?」
私は思わず息を呑んだ。
「あなたが……」
「ええ」
女性はあっさり頷く。
「魔女よ」
***
家の中は想像していたものとは少し違っていた。
薄暗い部屋を想像していたのに、実際は落ち着いた雰囲気の居間だった。
暖炉には火が灯り、部屋の奥には本棚が並んでいる。
私は勧められるまま椅子へ腰掛けた。
目の前には湯気の立つ紅茶が置かれている。
けれど落ち着いて飲めるような気分ではなかった。
魔女は向かいへ腰を下ろすと、まるで世間話でも始めるような気軽さで口を開いた。
「それで?」
私は顔を上げる。
「それで、とは」
「願いがあったから来たのでしょう」
その言葉に息が詰まる。
確かにそうだ。
私は願いを叶えてほしくてここへ来た。
それなのに、いざ問われると上手く言葉にならない。
魔女は急かさなかった。
ただ静かに待っている。
やがて私はゆっくりと口を開いた。
「最近の私は、おかしいんです」
魔女は黙って聞いていた。
「以前はこんなんじゃありませんでした」
言葉にするにつれ、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形になっていく。
「友人達と過ごす時間も好きでしたし、毎日が楽しかったんです」
ミアの顔が浮かぶ。
文化祭の話をしながら笑っていた姿も。
心配そうに私を見る顔も。
「今は違います」
私は膝の上で手を握る。
「何をしていても同じことばかり考えてしまうんです」
授業中も。
食事の時も。
友人達といる時も。
ずっと。
「大切な人達との時間を、ちゃんと大切にできなくなってしまいました」
そこまで話して、私はようやく自分の願いを口にした。
「前みたいに笑える私に戻りたいんです」
部屋が静かになる。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
魔女はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく微笑む。
「なるほど」
その声は意外なほど優しかった。
「だからここへ辿り着けたのね」
「辿り着けた?」
私は首を傾げる。
魔女は紅茶を一口飲んだ。
「この家は誰にでも見つけられるわけではないもの」
私は目を見開く。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
魔女は楽しそうに笑った。
「森へ入った人全員がここへ来られるなら、とっくに大行列ができているでしょう?」
それは確かにそうだ。
「ここへ来られるのは、心から叶えたい願いを持った人だけ」
魔女は私を見つめる。
「あなたは本気だから」
私は息を呑む。
「願いは叶えられるわ」
魔女はあっさりと言った。
私は思わず顔を上げる。
「本当に?」
「ええ」
まるで当たり前のことを言うような口調だった。
けれど次の言葉は静かだった。
「ただし代償は必要よ」
その瞬間、ミアの言葉を思い出した。
願いを叶える代わりに、大切なものを差し出さなければならない。
私は唇を噛む。
「何を払えばいいんですか」
魔女はしばらく私を見つめていた。
まるで私の心の奥を覗き込むような視線だった。
やがて静かに口を開く。
「あなたの場合は簡単よ」
私は息を呑む。
魔女は穏やかな声で告げた。
「あなたの幼馴染との思い出に結び付いた感情」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「それが代償になるわ」
私は言葉を失う。
魔女は淡々と続けた。
「幼馴染との思い出そのものが消えるわけではない」
テーブルの上で指先が小さく震えた。
「覚えていることはできる」
「なら……」
「けれど、その思い出に抱いていた感情は失われる」
心臓が大きく脈打つ。
魔女の声だけが妙にはっきりと耳に届いた。
「嬉しかった気持ちも」
「……」
「大切だった気持ちも」
「……」
「恋だった気持ちも」
私は俯いた。
「そんなことが……」
やっとそれだけを絞り出す。
「可能よ」
魔女は静かに頷いた。
暖炉の火が小さく音を立てる。
部屋は静かなはずなのに、心だけが落ち着かなかった。
私は視線を落とす。
頭の中で言葉が繰り返される。
けれど魔女は急かさなかった。
ただ紅茶のカップを持ち上げる。
「今日は帰りなさい」
私は顔を上げる。
「答えが出たら、また来ればいいわ」
「……」
「願いの代償を知った上で選ぶことに意味があるのだから」
私は何も言えなかった。
ただ静かに立ち上がる。
願いは変わらない。
それでも。
代償の重さは、想像していたよりずっと大きかった。
***
家を出た後も、魔女の言葉は頭から離れなかった。
幼馴染との思い出に結び付いた感情。
風に揺れる木々の音を聞きながら歩いていても、その言葉だけが何度も繰り返される。
私は胸の前で手を握り締めた。
願いは叶う。
けれど、そのために失うものが何なのかを、私はよく考えなければならなかった。




