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それは突然起こった

 結局、バルドルは自身の発言を撤回することはなく、話をそらされたようにもディアナには思えた。だが、彼女はそれ以上、追及しなかった。バルドルと自分は人種が違うと感じ、道義的な面ではどこまでも平行線だと思ったのだ。

 

 立ち止まって口論しているのも時間の浪費だったので、二人は先に進んだ。その後、言葉をかわすことはほとんどなかった。

 

 そして――それは突然起こった。

 

 夕刻にさしかかる時間帯、バルドルの様子に異変が生じたのだ。いや、人格的な異変は朝方からとっくに起きていたのだが、今回は体調の変化と思われた。

 

 森の小道を進んでいたときである。バルドルは急に立ち止まり、手で頭を押さえながら、よろよろと樹の幹に寄りかかりはじめた。


「ねえ――どうしたの?」

 

 頭痛でもしているのだろうか、とディアナは思った。


「大丈夫……?」

 

 先ほどの会話による不快感が残ってはいても、いきなりつらそうな様子を見せられたら心配になるディアナだった。

 

 バルドルは何も答えない。ついには膝をついた。ディアナは駆け寄ってバルドルの様子をうかがった。


「頭が痛いの?」

 

 顔がいくらか苦しそうである。彼はうつむいて目を閉じた。

 

 数瞬後、その目が再び開かれたとき、ディアナは驚いた。バルドルの顔つきが一変していたからだ。先ほどまでの冷徹かつ不遜な表情が、呆けたようなものに取って代わっている。

 

 彼のぼんやりした目がディアナをとらえたようだ。


「ディアナ――」

 

 小さくつぶやかれた声も、さっきまでとは別物である。


「どう――したの……バルドル?」

 

 困惑した彼女はそんな風にしか聞けなかった。

 

 バルドルはゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡しながら、ぽつりと言った。


「一体、どうなってるんだ……」

 

 それは私の台詞せりふよ、とディアナは胸中でつぶやいた。

 

 少しの間、バルドルは思考にふけるような顔をしたあと、ディアナに尋ねた。


「……さっきの男二人とはどうなったの?」

 

 意味がわからず、ディアナは「え?」と聞き返した。


「フェルウッドの男二人だよ。僕はその一人と剣を交えていて……それから……」

 

 ディアナは目を丸くした。


「あなたは……何を言ってるの?」

 

 困惑するディアナの脳裏を、昨日のバルドルの言葉がよぎった。


(ごくたまにだけど、記憶が飛んで、気づいたら時間がかなり過ぎてるなんてことがある)


「まさか……あれから何があったか覚えてないの?」


「……うん。その途中からのことは何も。ここがどこなのかも……」

 

 ディアナは絶句した。バルドルの言葉が真実なら、あの戦闘の途中から今に至るまで、彼は記憶を失っていたことになる。しかし……。


(本当なの……?)

 

 当然、疑念が湧く。

 

 バルドルの意識は失われていたわけではなく、むしろ、明快なまでにはっきりしていた。それで覚えていないと言われても信じられるはずがなかった。今日の非礼をごまかすために芝居を打っているのだろうか、と彼女は疑った。だがそれなら、昨日の時点で記憶が飛ぶ話をしていた説明がつかない。


「ディアナ……?」

 

 バルドルは、彼女の戸惑いを察して顔色をうかがうような表情をしている。その顔は、穏和で繊細なもとの状態に戻ったように思える。


「バルドル、あの二人はあなたが倒したのよ」

 

 ひとまず、彼の記憶が途切れたのは事実だという前提で、その間の出来事をかいつまんでディアナは説明した。


「僕が飛行の魔道を……? それで彼らを殺した……」

 

 驚くことに、今のバルドルは自分が飛術士であることも忘れているようだった。忘れたというより、もともと知らなかったように見える。そして二人を殺したことに彼が狼狽しているようにも見えた。


「その間、私と何を話したのかも覚えてないの?」

 

 ディアナは、ヘクターやロアンのことで彼と口論になったことはふせた。


「うん……まったく覚えてないんだ」

 

 バルドルの口調と表情に偽りは感じられなかった。

 

 しかし――すべてが真実なら、それこそ異常であり、彼の精神が一種の変調をきたしていることを意味している。

 

 ディアナの心の中では、彼を心配する気持ちや、戸惑い、演技ではないかという疑念などが渦を巻きはじめていた。そこには多少なりとも怒りも入り混じっている。


「あの……僕は君にも何かしたり、言ったりしたのかな」

 

 むろん、バルドルの傲慢な態度の数々がディアナの記憶には残っている。彼が覚えていないのだとしても、彼女の怒りはまだ冷めきっていなかった。

 

 何も言わずに矛を収めたりはできないのである。


「さっきまで、私に対するあなたの接し方……ひどかったわよ」

 

 かすかに苛立ちを込めて伝えると、ディアナはぷいと顔をそむけ、再び歩き出した。



 

 2


 

 

 夕刻。

 物資を買うために、ある町の近くまで二人は来ていた。

 

 ここに来るまでの間も、ディアナとバルドルの関係はぎくしゃくしたままだった。バルドルが元の性格に戻っても、昨日のように親しげに接する気にディアナはなれなかったのだ。

 

 バルドルのほうは、ひたすら悄然とした様子だった。それも無理からぬことかもしれない。記憶がないというバルドルからすれば、彼に好意的だったディアナの態度が、いつの間にか不審者と接するようなものに変わっているのだから。

 

 だが、バルドルが悄然としているのも、何も覚えていないという話も、真か偽か、彼女には判然としなかったのである。

 

 もしすべてが本当なら――。


(あの不遜で勝ち気だったバルドルは、一体何だったの?)

 

 彼の中に異なる人格が二つ存在しているようなものだ。

 

 あるいはもし、すべてが嘘で、記憶は残っていて、彼が二人の人間を演じているだけだとしたら――。


(そんな風に振る舞う意味がわからない)


(単純に考えれば、記憶を失っていたなんて信じられないけど……)

 

 昨日、記憶が飛ぶという話をされたとき、ディアナはそれを信じると言ってしまった。その手前、露骨に疑惑を問いただすわけにもいかない。

 

 結局、二人はほとんど無言のまま、町の近くまで来たのだった。

 

 声をかけるのも気まずいが、ディアナはバルドルに町への買い出しを頼まなくてはならなかった。外見的に目立つ彼女は人目につかないよう、町の外れで待機する必要があるのだ。


「バルドル、町に行って買ってきてほしいものがあるの。もう数食分しかないから食料と、それから売っている店があればテントもね」

 

 降る雪の量が増しており、気温の低下も激しかった。テントがないと野宿は厳しいのだ。昨日のように都合よく廃屋が存在するかわからない。むろん、宿に泊まるという手段もある。だが、王弟の部下たちによる宿あらためが行われる危険が多少はあり、なるべく宿は利用したくないのだ。

 

 さっきは嫌な言い方をしてしまったので、買い出しを頼むとき、ディアナは努めて笑顔を維持した。が、バルドルが町から戻ってくるやいなや、その笑顔は崩壊した。彼はテントはおろか食料すらも買ってこられなかったのだ。


「路銀をなくした!?」


「うん……」

 

 何があったのか、バルドルはおそるおそる説明した。

 町に入り、まず食料を購入しようと市場に行った。そこで路銀を取り出そうと、ズボンのポケットをまさぐった。バルドルは驚く。路銀が入っている小袋がなかったからだ。彼は思い出した――市場に来るまでの途中、すれ違いざま、男にぶつかったことを。


「その男にすられたっていうこと?」


「多分……そう……だと思う。その男をしばらく探したんだけど見つからなくて……本当にごめん」

 

 ディアナは開いた口が塞がらなかった。今、彼女の手元にはわずかな路銀しか残っていない。買い出しの際、バルドルに渡したのがほとんど全財産だった。

 

 ディアナはあからさまに苛立ったり、彼を責めたりはしなかったが、内心では焦り始めていた。 


「ランカスターまで、まだ五日以上あるけど、もう二日分くらいの旅費しかないわ」

 

 食べ物に関してはドラゴシュが狩る動物の肉などで、どうにかなるかもしれない。問題は寝所である。二月の寒夜、テントもない野宿を何日も続けるのは体力的に厳しいだろう。宿賃は一、二泊分くらいしかない。


「あの……たしか、ロッククリーク領まではもうすぐだよね?」

 

 バルドルがおずおずと尋ねた。


「ロッククリークに行ったら、彼に協力を頼まないといけなくなるじゃない。それは避けたいのよ」


「彼、というのはハーバートのこと?」

 

 どこか気の抜けたような、この問いに対してディアナは、


「他に誰がいるっていうのよ」

 

 と、思わず冷たい口調で返してしまった。バルドルは姉に叱られた弟のように、肩を落として顔をふせた。その様子を見てディアナはすぐに「あ……ごめんなさい」と、気まずい感じで謝った。

 

 彼女もわかってはいる。路銀を盗られたのはバルドルが悪いわけではない。第一、この逃亡の旅にディアナはバルドルを巻き込んでいる立場だ。彼に腹を立てる権利はないだろう。それでも、昼間の彼に対するような態度をついとってしまうのである。


「とにかく……その男を探してる余裕はないわ。まだ町にいるとも限らないし……先に進みましょう」

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