9 耳鼻科
早苗が出勤する車に乗って市内へ出た。
左耳は無音だ。
車の走行音さえもない。
無音を噛み締めた。
――やっぱり聞こえんよな。
昨日まで健全に聞こえていた器官が。
「あんたは手間のかかる子だった。」
疲れたように早苗がつぶやく。
「今は夜泣きもおねしょもせんけど――それでもやっぱり手間がかかる。」
街を進み、耳鼻科の前で停まった。
バッグから財布が取り出される。そして、保険証と診察券・五千円札を渡された。
「それじゃ、帰りは汽車使って。」
「うん。」
車から下り、傘を開く。
凍えるような寒さが身を包んだ。
細い雨の下、母親の車を冬樹は見送る。
ため息をついた。
同時に、息が白いことに気づく。
一年は、あと一か月半しか残っていない。冬至も来る。しかし――その前に自分はどうなってしまうのだろう。
――次に起きたときは、
右耳が聞こえないかもしれない。
病院へ這入った。
受付で要件を言い、薬臭い待合室に腰を下ろす。新しい建物ではない。床のリノリウムが随所で剥がれかけている。
スマートフォンを出した。
ふと、美邦が不安がっているであろうことに思い当たる。
今は朝学活だろうか。LIИEをいつ見るかは分からない。それでも、「放課後探偵団」にメッセージを打ち込んだ。
〈今日は病院で来れん。〉
〈でも多分大丈夫だけん。
安心して。〉
先日の通話を思い出す。
何かを見ただろうとは思っていたのだ。
それがヒントになることを期待した。
結果、想定外のことを聴いてしまう。
――実相寺になって汽車に跳ねられた。
神社を消した存在。
不審死を起こしている何か。
漂著神ではないかというのは一つの推察だった。決定的な証拠がなかったのだ――ましてや視覚障碍との関係は。
今、九分九厘確信している。
――大原さんは神がかりを起こしとった。
巫女には二つある。
「神社巫女」と「口寄せ巫女」だ。
現在、巫女は神社に奉仕する女性という以上の意味を持たない。
しかし本来は、神社から離れた存在だった。死霊や生霊・神を憑依させ、その存在を見聞きし、感じ、託宣を行なう「口寄せ」だったのだ。
――大原家の最後の生き残りが。
加えて。
誰かになった夢を繰り返し見ると言う。
夢の中では姉がいたそうだ。
特殊な力が姉妹にはあった。それが事実ならば、口寄せとしての才覚を揃って具えていたことになる。
――自分が死ぬことを「妹」は直感した。
芳賀が挙げた可能性・様々な原因の中から、最も濃厚だった線で考えてよいということだろう。
しかし。
――なぜ暴走した。
安定して祀られていた漂著神が。
左耳に手を当てる。
やはり聞こえない。
しかし祭主は帰ってきた。
――やるべきことは一つなんだ。
送らなければならない。
少なくとも冬至までに。
やがて名前を呼ばれる。
診察室で、馬面の老医師と顔を合わせた。
左耳が唐突に聞こえなくなったことを冬樹は伝える。
当然、怪訝な顔をされた。
そして耳鏡――漏斗状の小さな器具――を左耳へ突っ込まれる。しばらく耳を弄られたあと、不可解な顔をされた。
「見たところ異常は特に見当たりませんけどね――。これじゃ何も分かりませんので、レントゲンを撮ってみましょうか。」
「ええ。」
そして、レントゲン室に案内される。
撮影後、診察室の前で待った。
暇つぶしにスマートフォンを見る。当然、美邦からの返信はまだない。
左耳に神経を集中させ、やっぱり聞こえないよなと当然のことを思う。
やがて、名前を再び呼ばれた。
診察室へ這入る。
X線写真が蛍光板に貼られていた。老医師が医学書を取り出し、耳の断面図を開く。
「ほら、見てください。」
鼓膜の内側が指された。
蝸牛の殻のような器官と鼓膜を、ぐにゃりと曲がった物がつないでいる。
「これは耳小骨という器官です。鼓膜が音として受け取った振動を蝸牛管という器官へ伝える役割があります。受け止められた振動は、信号へ変換されて脳に伝えられるわけです。」
X線写真を老医師は指さす。
「無くなってますね――その耳小骨が。」
目をやると、医学書にある物がなかった。
待合室から、幼児の泣き声が聞こえる。
左耳からは聞こえない。
静寂と無音では、こんなにも違う。
恐る恐る問うた。
「そんなことが――あるんですか?」
「――ありません。普通、あり得ません。中耳は密閉されてます。貴方の耳もそうです――鼓膜が破れているわけでもなかった。もし本当に、今朝いきなり耳が聞こえなくなったのなら、もっと大きな病院で検査してみるべきでしょうね。」
患者である冬樹が疑われているようだ。
当然かもしれない。
密閉した中耳から、耳小骨は消えない――素人目にも分かる。そもそも、医学的な説明を最初から自分は諦めていたかもしれない。
それでも問わざるを得なかった。
「どうにかして治療できますか――?」
質問の意味は理解されなかったらしい。
「何かの症状である可能性もありますから、総合病院で診てもらったほうがいいと思います。紹介状――書きましょうか?」




