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神送りの夜  作者: 千石杏香
第七章 立冬
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2 一線を越えた

 姿見の前で髪を結い終える。


 今朝も見たはずだ――誰かになった夢を。しかし忘れてしまった。

 はっきり覚えているほうが少ない。

 それでも繰り返し見る。


 制服に着替え、鞄の中を確認した。

 ノートはきちんと入っている。忘れてしまわないか少し心配だったのだ。


 清書は既に終わっていた。

 今日の昼休み、カウンセリングを再び受ける予定だ。自分が見たものや感じたことについて、これで落ち着いて話せるだろう。

 ――それに先日は、

 火事の夢を見たのだ。


 部屋を出る。

 まだ少し暗い階段を降りた。

 同時に、金属を突く音を耳にする。


 何だろうと思い、廊下を進んだ。

 台所を覗いてみる。


 詠歌が朝食を作っていた。

 他には、何もしていない。

 フライパンを乱暴に突く音だったのだ。表情からも動作からも怒りが滲み出ている。当然、挨拶をできる雰囲気ではない。


 ――私、何かしたかな?


 冬樹が境内に忍び込んだ。

 菅野が焼死した。

 どちらも自分のせいではない。しかし二つが結びつき、心臓が破裂しかけた。


 逃げるように洗面所へ向かう。


 顔を洗い終え、洗面所を出たとき、啓と顔を合わせた。異様な音に困惑している。


 しばらく目を交わし合った。動揺しているのが自分だけではないことに安心する。


 台所へと啓は向かう。

 そして詠歌の姿を目にした。

 背中が強張る。

 「おい、何があったんだ?」


 答えるより先に怒りが爆発した。

 「ほんっと頭くる!」

 フライパンがコンロに叩きつけられる。

 「人様の家を何と思っとんだか! こっちはあとから落書きも消さないけんに!」


 唖然とする啓をよそに金切り声が上がる。

 「玄関に落書きされとっただけえ! 京都に帰れって書いてあったわッ!」


 言葉そのものは美邦には向いていない。しかし怒りは美邦に向いている。

 さすがの啓も苛立ったようだ。

 「冷静になりない。朝っぱらだに。」


 その言葉を境に詠歌は静かになる。

 だが動作や顔から怒りは消えない。身体を動かすたびに異様な音を立て続けた。

 続いて起きてきた千秋も、ただならない母親の様子に怯えてしまう。


 生きた心地がしない思いで朝食を終えた。

 千秋もまた朝の支度を急いで済ませる。

 そうして二人で家を出た。


 落書きを実際に目にしたのはそのときだ。

 引き戸のドアいっぱいに、紅いスプレーで、「京都に帰れヨソ者」という文字、「やく病神」という文字、そして巻き貝のような図が描かれていた。


 醜い文字に千秋の目が歪む。

 「ヨン――?」


 「よそもの――だよ。」

 自分で口にし、錐(きり)で突かれたような痛みを胸に感じた。

 ――疫病神。


 詠歌は、この言葉に腹を立てたのではない。美邦のせいで落書きをされたことに腹を立てたのだ。

 

 無言のまま石垣を下る。

 中通りへ出た。

 以前のように、美邦の前へ進み出る真似を千秋はしない。しかし集合地の空き地に差し掛かったとき、背後から無言で離れた。


 ――私がいなくなったら。

 あの晩以来、千秋とあまり話していない。

 アニメを観ようとも誘われなくなった。引っ越しのときに歓迎してくれた従妹は、今、明らかに自分を避けている。


 ――ヨソ者。

 よそ者ではないはずだ。

 ――この町で私は生まれた。

 両親や祖父と暮らしていた家もあった。


 先日、送られてきた画像を思い出す。

 伊吹山の中に残骸は残っていた――共同体の中心であり、血縁で束ねられた集団と共に祭祀を営んできた場所が。


 知らない――という言葉が綻んでいる。

 でも。

 ――口裏を合わせなきゃ神社は消えない。


 町の暗部に触れようとしている。

 いや。

 帰ってきた時から――あるいは施設ではなく、渡辺家を選んだ時から触れていたのかもしれない。

 ――そうせざるを得なかったのかも。


 人影が現れては消えてゆく。

 案山子のように彳む姿は、今日は美邦を非難しているようにも見えた。


 一昨日、菅野が死んだ――しかも、母と同じように。その事実は、家の中にいても安全ではないことを示している。


 様々な幻視を通り過ぎ、丁字路に着く。


 幸子の姿はなかった。


 見舞いに行った時の様子を想い返す。

 少なくとも、あのときは元気だった。

 しかし先日――チャットルームでは怒りを滲ませていたのだ。不満を垂れる幸子を、美邦はなだめ続けていた。

 ――今日も来れないなんてことは。


 スマートフォンを取り、メッセージを入れる。

   〈おはよう〉

   〈今日、来れそう?〉


 少し待ってみたが既読はつかない。

 やがて、ホーム画面に目がとまる。

「放課後探偵団」の横に、「4」と表示されていた。昨日までは、美邦を含めた「5」だったのだ。


 開いてみる。

「幸子さんがグループを退会しました」

 そんな文が末尾にあった。

 自転車の走る音が止まる。


 顔を上げた。

 芳賀が登校してきたところだ。

「おはよ、大原さん。」

「うん――おはよ。」

 中性的な顔が曇る。

「古泉さん――今日も来とらんだか?」


「――うん。」

 「お見舞い行っただら? どうだった?」

「元気だった――はずだけど。」

「大丈夫なんかな――。大事になっとらなんだらええだけど。」


 サドルに足がかけられた。

 気にかかって呼び止める。

「――藤村君は?」


 芳賀は動きを止め、振り返った。

「まだ、来とらんだか?」

「いや、まだ見てない。」


 横髪に顔が隠れる。そ――と言い、学校へ向けて芳賀は自転車を走らせていった。


 寒さに震えながら待ち続ける。

 日に日に気温は落ちていた。

 冬が来る。


 幸子から既読はつかない。グループトークも欠けている。冬樹の姿も現れない。

 ――藤村君にも何かがあったら。


 始業時間が近づいた。

 諦めて学校へ向かう。

 学校へ着き、二年A組の教室へ這入った。

 冬樹の姿はない。

 同時に、教室の片隅に幸子を見つけた。憂鬱な顔で複数の女子と話している。美邦が登校したことに気づき、一瞬だけ目を合わせた。しかし、すぐに顔を背ける。


 刹那、動けなくなった。

 何が何だか分からない。

 足元が小刻みに震える。


 教室に活気はない。

 一方、ささやき声は飛び交っていた。

 ――が。――⬜︎た。

 無理に足を進め、ロッカーへ向かった。


 始業時間となっても冬樹は現れなかった。

 鳩村が教室に這入ってきて、体調不良で冬樹が欠席することを伝える。


     *


 大切なものの欠けた教室で授業は進んだ。

 二時間目が終わる。

 次の授業は技術だ。鉄筋校舎へ行かなければならない。


 幸子へ目を向ける。

 横顔は冷たかった。

 誰とも目を合わせることなく、教材を抱えて教室を出てゆく。


 美邦は席を動けない。

 明らかに無視されたのだ。

 ――何が起きてるんだろう。


 ここまで幸子を怒らせることとは――何だろう。美邦には分からない。たとえ冬樹の行動が気に障ったとしても、自分を無視する理由はないはずだ。


 この町に来て初めて出来た友人が。

 ――また欠けてしまう。

 しかも命あるまま。


 動かなければ、授業に遅れてしまう。

 教材を用意し、教室を出た。

 その刹那。

 奇声が聞こえ、黒い学生服が美邦の横を素早く駆け抜ける。


 前を歩いていた男子が蹴り飛ばされた。

 よろめいた彼が振り返る。

 芳賀だった。


「おい芳賀ァ、今日藤村いねんだってな!」

 嬉しそうで耳障りな声が上がる。

「お前(ま)、あれじゃね? このあいだ実相寺が死んだろ? 菅野んとこの爺さんも死んだんだってな!? ひひひ。そのうち藤村も死んじまったりしてなァ? 最近は夜中に怪物も出るらしーしなーァ、芳賀ァ!」


 無視して芳賀は去ろうとした。

 その襟足(くびね)が掴まれる。


「ゴラ無視すんじゃねえぞ! そのうち藤村もいなくなっちまうぞ!」


 首が振り回された。

 教科書や筆箱が芳賀の腕から落ちる。


 狼狽していると、背後から声が上がった。

「こらああああっ、東田あああああっ!」


 びくりとして美邦は振り向く。

 岩井だ。しかも敬語を遣っていない。


 東田と呼ばれた男子は退散した。

 芳賀が頭を上げる。こちらへ目をやり、顔を逸らした。一瞬、恥ずかしさとも、恨めしさとも言えない光が目に現れる。


 岩井が近寄った。

「芳賀さん――大丈夫ですか?」

「別に。」


 教科書や筆箱を芳賀は拾い上げた。

 そして、礼を言うこともなく去ってゆく。


「まったく――東田ときたら。最近は大人しくなったと思ってたのに――」

「あの人、いつもあんな感じなの?」


「ええ――。小学生のころからですよ。」

 そしてため息をつく。

「ひとまず行きましょう――遅れます。」

「うん。」


 岩井と竝んで鉄筋校舎へ向かう。

 幸子との仲が凍り、それ以外の人と初めて教室を移動した。


「あの人は、東田っていうんです。小学校のころから芳賀さんを苛めているんですよ。昔から私もよく目にしてきました。」

「そう――だったんだ。」


「東田は、倫理観の発達が普通の人より三年ほど遅れてます。幼少期に悪いことでもあったのかもしれませんね。中学生と思えないほど行動が幼稚なのです。」

 丁寧な言葉づかいで随分なことを言った。


 気にかかることは他にもある。

「そういえば、あの――東田君? だっけ。さっき、夜中に怪物が出るとか何とかって言ってたの。岩井さん、何か知ってる?」


「ああ――まあ――」

 喜ばしくない顔が現れた。

「私は、犬だか人だか分からない獣が出ると聞きました。上里のほうに、大永の五月崩れの時に山名氏と尼子氏が戦った場所がありまして、そこの祟りって話も聞きますが。」


「最近っていうのは、いつぐらいから?」

 岩井は少し考えた。


「大原さんが転校してきた頃からです。」

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