2 一線を越えた
姿見の前で髪を結い終える。
今朝も見たはずだ――誰かになった夢を。しかし忘れてしまった。
はっきり覚えているほうが少ない。
それでも繰り返し見る。
制服に着替え、鞄の中を確認した。
ノートはきちんと入っている。忘れてしまわないか少し心配だったのだ。
清書は既に終わっていた。
今日の昼休み、カウンセリングを再び受ける予定だ。自分が見たものや感じたことについて、これで落ち着いて話せるだろう。
――それに先日は、
火事の夢を見たのだ。
部屋を出る。
まだ少し暗い階段を降りた。
同時に、金属を突く音を耳にする。
何だろうと思い、廊下を進んだ。
台所を覗いてみる。
詠歌が朝食を作っていた。
他には、何もしていない。
フライパンを乱暴に突く音だったのだ。表情からも動作からも怒りが滲み出ている。当然、挨拶をできる雰囲気ではない。
――私、何かしたかな?
冬樹が境内に忍び込んだ。
菅野が焼死した。
どちらも自分のせいではない。しかし二つが結びつき、心臓が破裂しかけた。
逃げるように洗面所へ向かう。
顔を洗い終え、洗面所を出たとき、啓と顔を合わせた。異様な音に困惑している。
しばらく目を交わし合った。動揺しているのが自分だけではないことに安心する。
台所へと啓は向かう。
そして詠歌の姿を目にした。
背中が強張る。
「おい、何があったんだ?」
答えるより先に怒りが爆発した。
「ほんっと頭くる!」
フライパンがコンロに叩きつけられる。
「人様の家を何と思っとんだか! こっちはあとから落書きも消さないけんに!」
唖然とする啓をよそに金切り声が上がる。
「玄関に落書きされとっただけえ! 京都に帰れって書いてあったわッ!」
言葉そのものは美邦には向いていない。しかし怒りは美邦に向いている。
さすがの啓も苛立ったようだ。
「冷静になりない。朝っぱらだに。」
その言葉を境に詠歌は静かになる。
だが動作や顔から怒りは消えない。身体を動かすたびに異様な音を立て続けた。
続いて起きてきた千秋も、ただならない母親の様子に怯えてしまう。
生きた心地がしない思いで朝食を終えた。
千秋もまた朝の支度を急いで済ませる。
そうして二人で家を出た。
落書きを実際に目にしたのはそのときだ。
引き戸のドアいっぱいに、紅いスプレーで、「京都に帰れヨソ者」という文字、「やく病神」という文字、そして巻き貝のような図が描かれていた。
醜い文字に千秋の目が歪む。
「ヨン――?」
「よそもの――だよ。」
自分で口にし、錐で突かれたような痛みを胸に感じた。
――疫病神。
詠歌は、この言葉に腹を立てたのではない。美邦のせいで落書きをされたことに腹を立てたのだ。
無言のまま石垣を下る。
中通りへ出た。
以前のように、美邦の前へ進み出る真似を千秋はしない。しかし集合地の空き地に差し掛かったとき、背後から無言で離れた。
――私がいなくなったら。
あの晩以来、千秋とあまり話していない。
アニメを観ようとも誘われなくなった。引っ越しのときに歓迎してくれた従妹は、今、明らかに自分を避けている。
――ヨソ者。
よそ者ではないはずだ。
――この町で私は生まれた。
両親や祖父と暮らしていた家もあった。
先日、送られてきた画像を思い出す。
伊吹山の中に残骸は残っていた――共同体の中心であり、血縁で束ねられた集団と共に祭祀を営んできた場所が。
知らない――という言葉が綻んでいる。
でも。
――口裏を合わせなきゃ神社は消えない。
町の暗部に触れようとしている。
いや。
帰ってきた時から――あるいは施設ではなく、渡辺家を選んだ時から触れていたのかもしれない。
――そうせざるを得なかったのかも。
人影が現れては消えてゆく。
案山子のように彳む姿は、今日は美邦を非難しているようにも見えた。
一昨日、菅野が死んだ――しかも、母と同じように。その事実は、家の中にいても安全ではないことを示している。
様々な幻視を通り過ぎ、丁字路に着く。
幸子の姿はなかった。
見舞いに行った時の様子を想い返す。
少なくとも、あのときは元気だった。
しかし先日――チャットルームでは怒りを滲ませていたのだ。不満を垂れる幸子を、美邦はなだめ続けていた。
――今日も来れないなんてことは。
スマートフォンを取り、メッセージを入れる。
〈おはよう〉
〈今日、来れそう?〉
少し待ってみたが既読はつかない。
やがて、ホーム画面に目がとまる。
「放課後探偵団」の横に、「4」と表示されていた。昨日までは、美邦を含めた「5」だったのだ。
開いてみる。
「幸子さんがグループを退会しました」
そんな文が末尾にあった。
自転車の走る音が止まる。
顔を上げた。
芳賀が登校してきたところだ。
「おはよ、大原さん。」
「うん――おはよ。」
中性的な顔が曇る。
「古泉さん――今日も来とらんだか?」
「――うん。」
「お見舞い行っただら? どうだった?」
「元気だった――はずだけど。」
「大丈夫なんかな――。大事になっとらなんだらええだけど。」
サドルに足がかけられた。
気にかかって呼び止める。
「――藤村君は?」
芳賀は動きを止め、振り返った。
「まだ、来とらんだか?」
「いや、まだ見てない。」
横髪に顔が隠れる。そ――と言い、学校へ向けて芳賀は自転車を走らせていった。
寒さに震えながら待ち続ける。
日に日に気温は落ちていた。
冬が来る。
幸子から既読はつかない。グループトークも欠けている。冬樹の姿も現れない。
――藤村君にも何かがあったら。
始業時間が近づいた。
諦めて学校へ向かう。
学校へ着き、二年A組の教室へ這入った。
冬樹の姿はない。
同時に、教室の片隅に幸子を見つけた。憂鬱な顔で複数の女子と話している。美邦が登校したことに気づき、一瞬だけ目を合わせた。しかし、すぐに顔を背ける。
刹那、動けなくなった。
何が何だか分からない。
足元が小刻みに震える。
教室に活気はない。
一方、ささやき声は飛び交っていた。
――が。――⬜︎た。
無理に足を進め、ロッカーへ向かった。
始業時間となっても冬樹は現れなかった。
鳩村が教室に這入ってきて、体調不良で冬樹が欠席することを伝える。
*
大切なものの欠けた教室で授業は進んだ。
二時間目が終わる。
次の授業は技術だ。鉄筋校舎へ行かなければならない。
幸子へ目を向ける。
横顔は冷たかった。
誰とも目を合わせることなく、教材を抱えて教室を出てゆく。
美邦は席を動けない。
明らかに無視されたのだ。
――何が起きてるんだろう。
ここまで幸子を怒らせることとは――何だろう。美邦には分からない。たとえ冬樹の行動が気に障ったとしても、自分を無視する理由はないはずだ。
この町に来て初めて出来た友人が。
――また欠けてしまう。
しかも命あるまま。
動かなければ、授業に遅れてしまう。
教材を用意し、教室を出た。
その刹那。
奇声が聞こえ、黒い学生服が美邦の横を素早く駆け抜ける。
前を歩いていた男子が蹴り飛ばされた。
よろめいた彼が振り返る。
芳賀だった。
「おい芳賀ァ、今日藤村いねんだってな!」
嬉しそうで耳障りな声が上がる。
「お前、あれじゃね? このあいだ実相寺が死んだろ? 菅野んとこの爺さんも死んだんだってな!? ひひひ。そのうち藤村も死んじまったりしてなァ? 最近は夜中に怪物も出るらしーしなーァ、芳賀ァ!」
無視して芳賀は去ろうとした。
その襟足が掴まれる。
「ゴラ無視すんじゃねえぞ! そのうち藤村もいなくなっちまうぞ!」
首が振り回された。
教科書や筆箱が芳賀の腕から落ちる。
狼狽していると、背後から声が上がった。
「こらああああっ、東田あああああっ!」
びくりとして美邦は振り向く。
岩井だ。しかも敬語を遣っていない。
東田と呼ばれた男子は退散した。
芳賀が頭を上げる。こちらへ目をやり、顔を逸らした。一瞬、恥ずかしさとも、恨めしさとも言えない光が目に現れる。
岩井が近寄った。
「芳賀さん――大丈夫ですか?」
「別に。」
教科書や筆箱を芳賀は拾い上げた。
そして、礼を言うこともなく去ってゆく。
「まったく――東田ときたら。最近は大人しくなったと思ってたのに――」
「あの人、いつもあんな感じなの?」
「ええ――。小学生のころからですよ。」
そしてため息をつく。
「ひとまず行きましょう――遅れます。」
「うん。」
岩井と竝んで鉄筋校舎へ向かう。
幸子との仲が凍り、それ以外の人と初めて教室を移動した。
「あの人は、東田っていうんです。小学校のころから芳賀さんを苛めているんですよ。昔から私もよく目にしてきました。」
「そう――だったんだ。」
「東田は、倫理観の発達が普通の人より三年ほど遅れてます。幼少期に悪いことでもあったのかもしれませんね。中学生と思えないほど行動が幼稚なのです。」
丁寧な言葉づかいで随分なことを言った。
気にかかることは他にもある。
「そういえば、あの――東田君? だっけ。さっき、夜中に怪物が出るとか何とかって言ってたの。岩井さん、何か知ってる?」
「ああ――まあ――」
喜ばしくない顔が現れた。
「私は、犬だか人だか分からない獣が出ると聞きました。上里のほうに、大永の五月崩れの時に山名氏と尼子氏が戦った場所がありまして、そこの祟りって話も聞きますが。」
「最近っていうのは、いつぐらいから?」
岩井は少し考えた。
「大原さんが転校してきた頃からです。」




