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神送りの夜  作者: 千石杏香
第六章 霜月
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3 遺伝子

 翌日も、丁字路に幸子はいなかった。

 海鳴りを聴きつつ美邦は待つ。


 ざざ。

 ざざざ。

 日に日に気温は落ちてきていた。

 十一月が始まる――あと二か月で一年は終わってしまうのだ。


 ――きっと送らなければならない。


 夏以降、二つの死を美邦は送った。

 由香とも父とも――母とも――もっと会話できていたかもしれない。同じ死が、もう一人の友人へ向いている気がしていた。


 ポケットの中で電子音が鳴る。

 スマートフォンを出すと、幸子からのメッセージが通知されていた。

 アイコンをタップし、LIИEを開く。


〈気分わるい〉

〈今日も行けそうにない〉


 どれくらい体調を崩したのか気になる。

 ショックで心身の調子を崩したのか、奇妙な変化が幸子にも訪れてしまったのか。

 だが、そっとするしか今はできない。


 わかったと返信し、「ゆっくり休んでね」と書かれたスタンプを送った。


 スマートフォンを切る。

 学校へ歩みだした。

 独りの登校を、こんなにも寂しく感じるのは初めてだ。


 木造校舎へ這入る。

 下足箱に靴を入れようとした時、上履きの上に、二つ折りにされた紙を見つけた。

 ラブレターにしては雑な置き方だ。

 何だろうと思い、手に取る。


 紅いボールペンで書かれた文字が現れた。

 ――お前のせいで実相寺由香は死んだ。お前が殺した。

 定規を当てて書いたらしく、丸みはない。


 何度も読み返す。

 幻視でも何でもない――そのままの悪意がつづられている。

 ――何で。

 紙を握り潰す。

 暗闇から刺されたようだった。


 上履きに履き替え、階段を昇る。


 二年A組の教室の前まで来た。いつもの活気が、中には戻りつつあるようだ。

 躊躇して立ち止まる。

 この紙は誰が入れたのだろう。教室の中に犯人はいるのではないか。


 ――お前のせいで実相寺由香は死んだ。


 クラスメイト全員がそう考えていると一瞬だけ思ってしまった。


 首を横に振る。

 言うまでもなく考えすぎだ――自分でも分かっている。


 教室の中へ踏み込んだ。

 窓辺へ目を向ける。

 由香の席に立つ人影が目に入った。


 遠目には、おかっぱ頭のようにも見える。机の上に咲く百合を眺めているようでもあり、椅子を引き出すことができず困惑しているようでもあった。


 咄嗟に目をつぶる。

 ――幻視だ。

 脳が作り出す幻にすぎない。


 恐る恐る目を開ける。

 依然として人影は彳んでいた。

 いつもの方法で消える類(たぐい)ではないらしい。


 仕方がないので目を逸らし続ける。

 事務机に進み、学習連絡帳を置いた。


 目を逸らしながらロッカーへ移動する。

 鞄を収め、顔を上げた。

 席はすぐそこだ。 

 案の定、人影は消えている。


 少し安心した――近づけば消えるものが現実であるはずがない。

 ――はずがないんだ。


 戻りつつある活気の中で、先日と同じささやき声が聞こえた。

 ――を。

 ――た。


 やがて予鈴が鳴り、朝学活が始まる。

 先日と同じく、体調不良で幸子が欠席することを鳩村は伝えた。



 朝読書の時間となる。

『常世論』の続きを読んだ。

 残ったページは少なく、すぐ読み終わる。


 常世――。

 ――死者が帰ってくる場所。

 京都にいたとき、死者と交われる場所があると考えていた――夏の最も暑い日、母や、祖先を迎えられる場所が。

 ――生き返ることのない死者が。


 天国とは違い、海を隔てて繋がっている――必ずしも断絶していない。そこに対する思いは、美邦の言葉で説明するならば「恋しい」だろう。


「根(ネ)の国」ともそこは呼ばれる。

「根」は、魂の根源という意味だ。

 根を意味する琉球語が「ニ」である。


 常世の伝承は、本土より琉球に強く残る。

 ニライカナイと呼ばれているという。

 ニイリ。 

 ニッジャア。

 ニールスク。

 いずれも「根(ニ)」からの派生だ。


 仏教が伝わっても常世は失われなかった。

 浄土へ形を変えたのである。


 世代を超えても、二度と会えない人への恋しさは水平線に投影されてきた――自分たちが来た場所へ。そこから死者は帰ってくる――送り返されることを前提に。


 ――でも。

 読み終えても分からないことがある。

 ――何で、送らなきゃいけないんだろう。


 神の数は八百万。

 いや、それ以上いる。

 しかも、どこにでもいるという。

 けれども、死者は送り返されてしまう。


 この地上に一年中いつづけ、親族を見守ることは許されないのか。

 ――神社で神様が祀られるみたいに。

 逆に――。

 送り返さないとは、どういうことなのか。


 やがて予鈴が鳴った。

 騒がしさが教室に戻ってゆく。


 名残惜しい思いで表紙を閉じた。

 余韻が心に響き続けている。

 いま、持ち主の元にこの本は戻るべきだろう――海の彼方へ祖先が帰るように。


『常世論』を手に立ち上がる。

 二つ前の席で、冬樹が授業の準備をしている。そこへ近寄り、声をかけた。

「藤村君、これありがとう。面白かった。」


 冬樹は意外そうな顔をする。

「おう――。なら、よかったけど――」

「うん――。ニライカナイとか南(ばい)ぬ島(すま)の話とか、とても綺麗だった。」


『常世論』を冬樹は受け取った。

 そして、やや心配そうな顔で問う。

「古泉は――今日も来とらんだか?」


 悲しみが胸に落ちた。

「体調が――悪いみたいで。」


     *


 昼休憩――。

 鉄筋校舎へと独りで向かった。詠歌が予約したカウンセリングを受けるためだ。


 二階の片隅に、目的の部屋を見つける。

 少し躊躇した。

 今まで、カウンセリングルームを利用したことはない。ここへ来ること自体、少し恥ずかしくも感じる。けれども、異様な行動を取ったのだから仕方ない。


 恐る恐るノックした。

 どうぞ――という声が聞こえる。


 ドアを開けてみた。

 落ち着いた部屋が拡がる。

 教室の半分ほどの広さだ――大きなテーブルが窓辺に一つ置かれている。


 右肩を窓に向ける形で、一人の女性が坐っていた。黒いセミロングと白いブラウス――少女のような大人だ。

 彼女が顔を向けている。

「大原美邦さんですね?」


「はい。」

「どうぞ坐って下さい。」

 目の前の椅子を手の平で示された。彼女とは違って窓を向いている。


 言われるがままに腰を下ろした。

 微笑まれる。

「臨床心理士の竹下っていいます。よろしくお願いしますね。」


 竹下の様子を窺(うかが)うように頭を下げた。

「よろしくお願いします。」


 ――いくつなんだろう?

 専門職に就いているということは、二十歳を越えていなければならない。うっすらとではあるが化粧もしている。だが、そのような条件がなければ高校生にも見えた。


 竹下が、ポットから茶を淹れる。

 目の前に湯呑が置かれた。

 それを両手で包む。

 手の平がじんわり熱くなっていった。


「大原さんに起きたことは、叔母さんからも少し伺っています。話しづらいことかもしれませんが――大原さんからも詳しく聴かせていただけませんか?」


「――はい。」


 三日経った今も整理して語るのは難しい。

 それでも口を開いた。

 当然、恐ろしく言葉は拙くなる。


 注意深く竹下は耳を傾けていた。

 聴き終え、右手の薬指を頬に当てる。


「不思議ですね――実相寺さんが亡くなった瞬間を夢で経験したなんて。」


 身体が強張った。

 明らかに現実離れしている。

 恥ずかしさだけではない――気が変になっていると思われそうで怖い。


「もちろん、私も信じられないですけど。」

「いえ、私は信じますよ。」


 不思議に思って顔を上げる。

 やはり歳が判らない。


「叔母さんから聴いています――実相寺さんに何か起きたと仰ったのですよね? しかも踏切で。その通りに亡くなったと判ったのは後のこと――叔母さんに詳細を伝えた後です。つまり、ある程度の傍証があるのです。」


「――ええ。」


「たとえどれだけ不思議な体験をしても、起きたことには理由が必ずあります。なぜそれが起きたのかを考えてゆけば、たいていは理由が見えてくるのです。」


「――理由が?」

「人は――偶然の中ではなく、人との関係の中に生きているのですから。」


 窓の外で蒼い葉が輝いた。


「共同体――に属していない人はいません。その共同体の中で、無意識や意識を人々は共有しています。小さな部分じゃ、家族や友達。大きな部分じゃ、地域や町。友達同士が共有する無意識や意識があり、町の人が共有する無意識や意識もある。」


 竹下は美邦と目を合わせた。


「白日夢を見た理由も――実相寺さんを大切に思う心や、実相寺さんと親しかったところにあるのかもしれません。」

 決して無碍にできるものではないのですと竹下は言った。

「事実としてそれは起きたのですから。」


 ――由香と。

 同じものを見たことがある。

 見ちゃだめだよ――と由香は言い、傘の中で手を握り合った。手と手が強く触れ合ったように、死の瞬間、心の奥底で触れ合ったのかもしれない。


「大原さんは、解放性幻視以外で、同じような体験をしたことはありますか? ――例えば、白日夢を見たとか、記憶が飛んだり失われたりしたとか、していないはずのことをしたとか。」


「いえ。」

 竹下が挙げた例に心当たりは全くない。

 失神した経験さえないのだ。


「ただ――」

 踏切の夢は先日が初めてではない。

「変な夢を、最近よく見ます。」

「夢――ですか?」

「ええ。」


 数週間前の出来事を話す。

 あの夢は途中で終わった。

 だが、起きた時に妙なことがあったのだ。


「つまり――実相寺さんが亡くなった時に見た夢と同じものを、町に来て間もない頃に見たんですね? 行ったことのない踏切も。」


「記憶違いじゃなきゃ――そのはずです。」

「起きた時には、気這いと跫音が――?」

「ええ。」


「同じ気這いを感じたり、跫音を聞いたりしたことは、何度かありますか?」


 首を捻る。

 様々な記憶を振り返った。

「あれと同じ気這いは――完全に同じ気這いはないです――跫音もあれ切り。」


 完全に同一の体験は一度だけだ。


「でも――夢を他にも。」

「どのような?」

「誰かになったような――」


 興味を示したように竹下は顔を上げた。


 記憶を手繰り、夢について語り始める。

 口にしだすと、徐々に思い出してきた。


 最初に見たのは引っ越し当日だ。

 ドールハウスが置かれた和室で、姉から何かを諭されていた。言われた内容は――別の日に見た夢とも関わっている。


 姉は――自分と同じものを見るのだ。

 人影を。

 鎮守の杜の気這いを。

 二人だけが見聞きしていた。それらについて、他人に語るなと言われたはずだ。


 ――私がいなくなったら。

 刹那、背筋が凍る。


 ――誰?

 夢の中の自分は、死を予感していた。

 ――いったい誰になって?

 これも、見たはずがない現実なのか。


「大原さん――大丈夫ですか?」


 竹下の言葉で我に返る。

「え――あ。はい。」

「いっぺんに全てを語る必要はありません。落ち着いて。」


 動揺していたことに気づく。

「ええ。」


 深呼吸し、続きを語ってゆく。


 本当は、冬樹に話したかった。

 しかしそんなことはできない。

 今は――竹下に話すしかない。


 増えた幻視についても語った。

 見たはずがない景色の数々について――。


 町に来て以来、奇妙な感覚に囚われることが多い。感じたことがないものへの感覚、何かが欠けている感覚――それは、誰かを通したような感覚でもあった。


 竹下はペンを置き、薬指を頬に当てる。

 思い当たることがありつつ、困ったような顔だ。うーんと言って考え込んでいる。


「これが何か、今のところ情報不足です。まだ何とも言えません。普通なら、解離ないし解離性障碍を疑うところですが――」


「かいり――?」

「強いストレスによって、自分が離れちゃうことです。」


 例えば――と竹下は言う。


「健康な人でも、『解離と同じ現象』はよくあります。寝る前の記憶がなかったり、うとうとして幽霊を見たり――。これが『現象』でなく『症状』と言えるのが解離。解離がメインの障碍が解離性障碍です。」


「私が――それなんでしょうか?」


「いえ――。全体的な印象としては引っかかります。普通、幻覚や幻視を、現実として後に確認できる解離性障碍は聞きません。踊り場の光景にしろ、郷土誌の文字にしろ、こういうことがあったと、ある程度は第三者が傍証できるわけで――」


「そう――ですか。」

「最もいいのは、心療内科にかかって検査を受けることですが――」


 美邦は考え込む。

 受診することには少し抵抗があった。

 ただでさえ妙な自分が、さらに妙になってゆくようで怖い。


 詠歌にしろ同じだろう――あまり気に入らない者を家に置いているのだ。だからこそ、スクールカウンセラーに診せるという妥協的な選択がなされた。


「心療内科に抵抗を覚える方は多いです。」

 竹下は少し悲しそうな顔をする。


「もし受診が難しいなら――定期的に私と話すのはどうでしょう? 週に二度ほど――幻視のことでも、夢のことでも、何でも相談して大丈夫です。叔母さんには、私から説明させていただきます。」


「それなら――」

 できそうな気がして、うなづいた。


「では、たとえば――火曜日と木曜日のお昼休みはどうですか?」


 これにもうなづく。

 安心したように、竹下はさらに尋ねた。

「では、ノートは用意できますか?」

「ノート?」


「そこに、今まで感じてきたことや、悩んでいることなどを、簡単でも大丈夫ですので書き留めてみて下さい。そうしたら、自分の気持ちを整理してゆけます。」


 ――たしかに。

 そのほうが竹下に説明しやすいだろう。

「やってみます。」

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