3 遺伝子
翌日も、丁字路に幸子はいなかった。
海鳴りを聴きつつ美邦は待つ。
ざざ。
ざざざ。
日に日に気温は落ちてきていた。
十一月が始まる――あと二か月で一年は終わってしまうのだ。
――きっと送らなければならない。
夏以降、二つの死を美邦は送った。
由香とも父とも――母とも――もっと会話できていたかもしれない。同じ死が、もう一人の友人へ向いている気がしていた。
ポケットの中で電子音が鳴る。
スマートフォンを出すと、幸子からのメッセージが通知されていた。
アイコンをタップし、LIИEを開く。
〈気分わるい〉
〈今日も行けそうにない〉
どれくらい体調を崩したのか気になる。
ショックで心身の調子を崩したのか、奇妙な変化が幸子にも訪れてしまったのか。
だが、そっとするしか今はできない。
わかったと返信し、「ゆっくり休んでね」と書かれたスタンプを送った。
スマートフォンを切る。
学校へ歩みだした。
独りの登校を、こんなにも寂しく感じるのは初めてだ。
木造校舎へ這入る。
下足箱に靴を入れようとした時、上履きの上に、二つ折りにされた紙を見つけた。
ラブレターにしては雑な置き方だ。
何だろうと思い、手に取る。
紅いボールペンで書かれた文字が現れた。
――お前のせいで実相寺由香は死んだ。お前が殺した。
定規を当てて書いたらしく、丸みはない。
何度も読み返す。
幻視でも何でもない――そのままの悪意がつづられている。
――何で。
紙を握り潰す。
暗闇から刺されたようだった。
上履きに履き替え、階段を昇る。
二年A組の教室の前まで来た。いつもの活気が、中には戻りつつあるようだ。
躊躇して立ち止まる。
この紙は誰が入れたのだろう。教室の中に犯人はいるのではないか。
――お前のせいで実相寺由香は死んだ。
クラスメイト全員がそう考えていると一瞬だけ思ってしまった。
首を横に振る。
言うまでもなく考えすぎだ――自分でも分かっている。
教室の中へ踏み込んだ。
窓辺へ目を向ける。
由香の席に立つ人影が目に入った。
遠目には、おかっぱ頭のようにも見える。机の上に咲く百合を眺めているようでもあり、椅子を引き出すことができず困惑しているようでもあった。
咄嗟に目をつぶる。
――幻視だ。
脳が作り出す幻にすぎない。
恐る恐る目を開ける。
依然として人影は彳んでいた。
いつもの方法で消える類ではないらしい。
仕方がないので目を逸らし続ける。
事務机に進み、学習連絡帳を置いた。
目を逸らしながらロッカーへ移動する。
鞄を収め、顔を上げた。
席はすぐそこだ。
案の定、人影は消えている。
少し安心した――近づけば消えるものが現実であるはずがない。
――はずがないんだ。
戻りつつある活気の中で、先日と同じささやき声が聞こえた。
――を。
――た。
やがて予鈴が鳴り、朝学活が始まる。
先日と同じく、体調不良で幸子が欠席することを鳩村は伝えた。
朝読書の時間となる。
『常世論』の続きを読んだ。
残ったページは少なく、すぐ読み終わる。
常世――。
――死者が帰ってくる場所。
京都にいたとき、死者と交われる場所があると考えていた――夏の最も暑い日、母や、祖先を迎えられる場所が。
――生き返ることのない死者が。
天国とは違い、海を隔てて繋がっている――必ずしも断絶していない。そこに対する思いは、美邦の言葉で説明するならば「恋しい」だろう。
「根の国」ともそこは呼ばれる。
「根」は、魂の根源という意味だ。
根を意味する琉球語が「ニ」である。
常世の伝承は、本土より琉球に強く残る。
ニライカナイと呼ばれているという。
ニイリ。
ニッジャア。
ニールスク。
いずれも「根」からの派生だ。
仏教が伝わっても常世は失われなかった。
浄土へ形を変えたのである。
世代を超えても、二度と会えない人への恋しさは水平線に投影されてきた――自分たちが来た場所へ。そこから死者は帰ってくる――送り返されることを前提に。
――でも。
読み終えても分からないことがある。
――何で、送らなきゃいけないんだろう。
神の数は八百万。
いや、それ以上いる。
しかも、どこにでもいるという。
けれども、死者は送り返されてしまう。
この地上に一年中いつづけ、親族を見守ることは許されないのか。
――神社で神様が祀られるみたいに。
逆に――。
送り返さないとは、どういうことなのか。
やがて予鈴が鳴った。
騒がしさが教室に戻ってゆく。
名残惜しい思いで表紙を閉じた。
余韻が心に響き続けている。
いま、持ち主の元にこの本は戻るべきだろう――海の彼方へ祖先が帰るように。
『常世論』を手に立ち上がる。
二つ前の席で、冬樹が授業の準備をしている。そこへ近寄り、声をかけた。
「藤村君、これありがとう。面白かった。」
冬樹は意外そうな顔をする。
「おう――。なら、よかったけど――」
「うん――。ニライカナイとか南ぬ島の話とか、とても綺麗だった。」
『常世論』を冬樹は受け取った。
そして、やや心配そうな顔で問う。
「古泉は――今日も来とらんだか?」
悲しみが胸に落ちた。
「体調が――悪いみたいで。」
*
昼休憩――。
鉄筋校舎へと独りで向かった。詠歌が予約したカウンセリングを受けるためだ。
二階の片隅に、目的の部屋を見つける。
少し躊躇した。
今まで、カウンセリングルームを利用したことはない。ここへ来ること自体、少し恥ずかしくも感じる。けれども、異様な行動を取ったのだから仕方ない。
恐る恐るノックした。
どうぞ――という声が聞こえる。
ドアを開けてみた。
落ち着いた部屋が拡がる。
教室の半分ほどの広さだ――大きなテーブルが窓辺に一つ置かれている。
右肩を窓に向ける形で、一人の女性が坐っていた。黒いセミロングと白いブラウス――少女のような大人だ。
彼女が顔を向けている。
「大原美邦さんですね?」
「はい。」
「どうぞ坐って下さい。」
目の前の椅子を手の平で示された。彼女とは違って窓を向いている。
言われるがままに腰を下ろした。
微笑まれる。
「臨床心理士の竹下っていいます。よろしくお願いしますね。」
竹下の様子を窺うように頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
――いくつなんだろう?
専門職に就いているということは、二十歳を越えていなければならない。うっすらとではあるが化粧もしている。だが、そのような条件がなければ高校生にも見えた。
竹下が、ポットから茶を淹れる。
目の前に湯呑が置かれた。
それを両手で包む。
手の平がじんわり熱くなっていった。
「大原さんに起きたことは、叔母さんからも少し伺っています。話しづらいことかもしれませんが――大原さんからも詳しく聴かせていただけませんか?」
「――はい。」
三日経った今も整理して語るのは難しい。
それでも口を開いた。
当然、恐ろしく言葉は拙くなる。
注意深く竹下は耳を傾けていた。
聴き終え、右手の薬指を頬に当てる。
「不思議ですね――実相寺さんが亡くなった瞬間を夢で経験したなんて。」
身体が強張った。
明らかに現実離れしている。
恥ずかしさだけではない――気が変になっていると思われそうで怖い。
「もちろん、私も信じられないですけど。」
「いえ、私は信じますよ。」
不思議に思って顔を上げる。
やはり歳が判らない。
「叔母さんから聴いています――実相寺さんに何か起きたと仰ったのですよね? しかも踏切で。その通りに亡くなったと判ったのは後のこと――叔母さんに詳細を伝えた後です。つまり、ある程度の傍証があるのです。」
「――ええ。」
「たとえどれだけ不思議な体験をしても、起きたことには理由が必ずあります。なぜそれが起きたのかを考えてゆけば、たいていは理由が見えてくるのです。」
「――理由が?」
「人は――偶然の中ではなく、人との関係の中に生きているのですから。」
窓の外で蒼い葉が輝いた。
「共同体――に属していない人はいません。その共同体の中で、無意識や意識を人々は共有しています。小さな部分じゃ、家族や友達。大きな部分じゃ、地域や町。友達同士が共有する無意識や意識があり、町の人が共有する無意識や意識もある。」
竹下は美邦と目を合わせた。
「白日夢を見た理由も――実相寺さんを大切に思う心や、実相寺さんと親しかったところにあるのかもしれません。」
決して無碍にできるものではないのですと竹下は言った。
「事実としてそれは起きたのですから。」
――由香と。
同じものを見たことがある。
見ちゃだめだよ――と由香は言い、傘の中で手を握り合った。手と手が強く触れ合ったように、死の瞬間、心の奥底で触れ合ったのかもしれない。
「大原さんは、解放性幻視以外で、同じような体験をしたことはありますか? ――例えば、白日夢を見たとか、記憶が飛んだり失われたりしたとか、していないはずのことをしたとか。」
「いえ。」
竹下が挙げた例に心当たりは全くない。
失神した経験さえないのだ。
「ただ――」
踏切の夢は先日が初めてではない。
「変な夢を、最近よく見ます。」
「夢――ですか?」
「ええ。」
数週間前の出来事を話す。
あの夢は途中で終わった。
だが、起きた時に妙なことがあったのだ。
「つまり――実相寺さんが亡くなった時に見た夢と同じものを、町に来て間もない頃に見たんですね? 行ったことのない踏切も。」
「記憶違いじゃなきゃ――そのはずです。」
「起きた時には、気這いと跫音が――?」
「ええ。」
「同じ気這いを感じたり、跫音を聞いたりしたことは、何度かありますか?」
首を捻る。
様々な記憶を振り返った。
「あれと同じ気這いは――完全に同じ気這いはないです――跫音もあれ切り。」
完全に同一の体験は一度だけだ。
「でも――夢を他にも。」
「どのような?」
「誰かになったような――」
興味を示したように竹下は顔を上げた。
記憶を手繰り、夢について語り始める。
口にしだすと、徐々に思い出してきた。
最初に見たのは引っ越し当日だ。
ドールハウスが置かれた和室で、姉から何かを諭されていた。言われた内容は――別の日に見た夢とも関わっている。
姉は――自分と同じものを見るのだ。
人影を。
鎮守の杜の気這いを。
二人だけが見聞きしていた。それらについて、他人に語るなと言われたはずだ。
――私がいなくなったら。
刹那、背筋が凍る。
――誰?
夢の中の自分は、死を予感していた。
――いったい誰になって?
これも、見たはずがない現実なのか。
「大原さん――大丈夫ですか?」
竹下の言葉で我に返る。
「え――あ。はい。」
「いっぺんに全てを語る必要はありません。落ち着いて。」
動揺していたことに気づく。
「ええ。」
深呼吸し、続きを語ってゆく。
本当は、冬樹に話したかった。
しかしそんなことはできない。
今は――竹下に話すしかない。
増えた幻視についても語った。
見たはずがない景色の数々について――。
町に来て以来、奇妙な感覚に囚われることが多い。感じたことがないものへの感覚、何かが欠けている感覚――それは、誰かを通したような感覚でもあった。
竹下はペンを置き、薬指を頬に当てる。
思い当たることがありつつ、困ったような顔だ。うーんと言って考え込んでいる。
「これが何か、今のところ情報不足です。まだ何とも言えません。普通なら、解離ないし解離性障碍を疑うところですが――」
「かいり――?」
「強いストレスによって、自分が離れちゃうことです。」
例えば――と竹下は言う。
「健康な人でも、『解離と同じ現象』はよくあります。寝る前の記憶がなかったり、うとうとして幽霊を見たり――。これが『現象』でなく『症状』と言えるのが解離。解離がメインの障碍が解離性障碍です。」
「私が――それなんでしょうか?」
「いえ――。全体的な印象としては引っかかります。普通、幻覚や幻視を、現実として後に確認できる解離性障碍は聞きません。踊り場の光景にしろ、郷土誌の文字にしろ、こういうことがあったと、ある程度は第三者が傍証できるわけで――」
「そう――ですか。」
「最もいいのは、心療内科にかかって検査を受けることですが――」
美邦は考え込む。
受診することには少し抵抗があった。
ただでさえ妙な自分が、さらに妙になってゆくようで怖い。
詠歌にしろ同じだろう――あまり気に入らない者を家に置いているのだ。だからこそ、スクールカウンセラーに診せるという妥協的な選択がなされた。
「心療内科に抵抗を覚える方は多いです。」
竹下は少し悲しそうな顔をする。
「もし受診が難しいなら――定期的に私と話すのはどうでしょう? 週に二度ほど――幻視のことでも、夢のことでも、何でも相談して大丈夫です。叔母さんには、私から説明させていただきます。」
「それなら――」
できそうな気がして、うなづいた。
「では、たとえば――火曜日と木曜日のお昼休みはどうですか?」
これにもうなづく。
安心したように、竹下はさらに尋ねた。
「では、ノートは用意できますか?」
「ノート?」
「そこに、今まで感じてきたことや、悩んでいることなどを、簡単でも大丈夫ですので書き留めてみて下さい。そうしたら、自分の気持ちを整理してゆけます。」
――たしかに。
そのほうが竹下に説明しやすいだろう。
「やってみます。」




