8 もう一度
「中学校の方でも怪物の噂ってある?」
ふと、千秋からそう尋ねられる。
夕食前から、『だいふくねこ』を観続けていた――その直後のことだ。DVDは終わり、テレビ画面は暗くなっている。
台所から、食器を洗う音が聞こえていた。啓は風呂に入っていて姿が見えない。
怪物――と美邦は首をひねる。
「うん、今、すごい噂されとるだぁが。」
千秋はやや声をひそめた。
「見たって人がいっぱいおるに――夜中に。犬だか獣だか分からん影みたいなんで、円くて紅い目が二つ付いとるだって。」
ふと、前に見たスレッドの内容を思い出す。
発光ダイオードのような光を見たと書かれていたのだ。
教室でも何か噂されていた――「来た」と言っていたのか、「見た」と言っていたのかは分からないが。
「いや――知らないけど。」
首を横に振る。
「見た人がいる――って?」
「うん。クラスの前田君もだけど。」
意外と具体的な名前が出た。
「前田君な、浜通り沿いにある古くて大きい家に住んどるだけえ。で――夜中にトイレに起きたとき、窓の外に、ちかーっ、ちかーって紅い光が見えたって言うだぁが。スーって海沿いを動いとったらしいだけど。」
何かいるという感覚が像を結んだようだ。しかし、信じられるかは解らない。
試すように美邦は問う。
「それって、車か何かじゃないの?」
「いや――違うって。車なら、走る音が聞こえるはずだぁが? でも、たぶん人みたいなもんが、浮かびながら進んどったとか。」
「千秋、そんな話やめない。」
不機嫌な声が聞こえた。
「大原さんも、そんな話させなんな。実相寺さんが失踪しとる最中だに不謹慎な。」
美邦は唖然とする。
やがて、申し訳ありませんと答えた。
居心地が悪くなり、課題を口実に部屋へ戻る。本当はもう済ませていた。だが、詠歌と同じ空間にいることが苦痛だったのだ。
――自分の物ではない家。
ここから自分は逃げられない。
自室に戻ると、開けっ放しにしていた障子から夜が見えた。
黒く染まった硝子へ近づく。
自分の顔が写ると同時に、潮騒の混ざる風音が聞こえた。
――この中のどこかに、由香が。
障子を閉じる。
――関係者もみんな死んだ。
自分にも――命の危険はないだろうか。
しばらくのあいだ、スマートフォンを眺めて時間をつぶした。
やがて、風呂から上がったことを千秋が伝えにくる。
この家では、風呂に入る順番は決まっている。啓・詠歌・千秋・美邦だ。啓が仕事で遅くならない限り、この順番を変えることは詠歌が許さない。
一階へ降り、風呂に入る。
湯船には、髪の毛や垢が浮かんでいた――疲れを癒せるものではない。それでも、自分の入られる風呂はこれしかないのだ。
風呂から上がり、ドライヤで髪を乾かす。
とろとろとした眠気が浮かんできた。
気だるい足取りで脱衣所を出る。
そのとき、冷たいアスファルトを踏んだ。
夢を見ていることに気づかなかった。
紅い布の連なるシャッター街を歩く。冷たい空気が、寝間着を透けて肌を撫でた。
寒さに震える。
家に帰りたい。
しかし、操られるように足は動いた。なぜここにいるか、どこへ向かっているか――ぼんやりしていて分からない。
ここには来たと漠然と感じる。アーチ状の看板や郵便局にも見覚えがあった。
やがて駅が現れる。
広場を横切り、踏切へ向かった。
鉄道と路地がフェンスで隔てられている。少し先に、街灯の照らす場所が見えた。白い光の中、蜜蜂のような縞模様が見える。
突然、割れるような警鐘が鳴った。
暗闇の中、真紅な二つの光が交互に明滅する。その光景は、噂を聞いた時に想像したものを思い出させた。
ゆっくり遮断桿が下りてくる。足の向かう先が、黄色と黒の縞模様に閉ざされた。
それを美邦はまたぐ。
少し歩み、踏板で立ち止まった。頭を下げ、溝に嵌った二つのレールを眺める。
割れるような電子音が外で鳴り続けた。
まずいな――と、ぼんやり思う。
しかし動けない。
唸るような汽車の音が聞こえる。
しかも近づいてくる。
白い光が踏板に差した。
頭を上げる。
汽車が迫っていた。
次の瞬間、全身を打たれる。
絶叫が喉を焼いた。
「美邦ちゃん! どうした!?」
啓が近寄ってくる。
客観的に言えば――脱衣所を出たところで美邦は立ち止まったに過ぎない。
啓は、その姿を居間から目に止めていた。
やがて、魂の抜けたように彳む姿を不審に思い始めたのだ。その矢先のことだ――跳ね飛ばされたように美邦が倒れ、叫んだのは。
美邦は啓に抱きつく。
しばらくの間、今の光景が夢だと美邦は気づけなかった。煮えるような恐怖が後頭部を灼いている。自分が泣いていることや、絶叫していることさえ知らなかった。
詠歌もまた、怪訝な顔で近寄ってくる。
大きな音がしたためか、千秋が二階から降りてきた。そして、泣きじゃくる美邦を見て固まる。そんな千秋を詠歌は怒鳴り飛ばす。
「あんたは寝とんない!」
びくりとし、そそくさと千秋は二階へ戻っていった。
随分と泣きじゃくったあと、少しずつ美邦は冷静になり始めた――汽車に跳ね飛ばされたわけではないと理解し始めたのだ。
それでも、死の恐ろしさは消えない。しばらくの間、啓の胸を離れられなかった。
優しく背中がなでられる。
「美邦ちゃん――いったい何があった?」
今の出来事を説明しようとした。
口から漏れる言葉は支離滅裂で意味をなさない。それでも、自分に何が起きたのか理解しようとしたことは、混乱を収束させることに貢献した。
――いったい何?
まるで突発的に襲った暴力のようだ。しかし、うっすらと意味は感じられる。
――由香。
親友の名前が浮かぶ。
――由香は、大丈夫なの?
ふと、家の外が騒がしくなった。
普通、平坂町の夜は静まり返っている。しかし、複数の跫音と、何かを言い合う声が聞こえ始めたのだ。やがて、救急車のサイレン音が響いた。
詠歌は雨戸を少し開け、外を窺う。
「なんだらあか?」
美邦は跳ね起きた。
「由香――!」
「えっ――?」
困惑する詠歌にすがりつく。
「由香なんでしょ!? 今のは!」
「美邦ちゃん、少し落ち着きない――」
その言葉は耳に届かなかった。
「由香が汽車に跳ね飛ばされたんです! それでみんな集まってんじゃないんですか!? 違うなら違うと言ってください――!」
平手打ちが飛んでくる。
何が起きたか再び分からなくなった。
強い痛みが頬を焼く。
ぼろぼろと両目から涙が零れた。
おい――と啓は言い、詠歌の肩を掴もうとする。それを詠歌は振り払った。
「ええ加減にせえ! こっちにゃ小さな子供だっておるにい!」
静寂が訪れる。
美邦は涙を拭わず、呆然と立ち続けた。
啓は唖然とする。ここまで激怒する妻を久しぶりに見た。負の感情をあまり見せない、いつもの陽気な性格とは全く別物だ。
しばらくして、詠歌の顔に後悔が浮かぶ。
頬を腫らし、だらだらと涙を流す姿に胸を痛めたのだろう――居間のかたわらに畳まれたタオルを取り、そっと美邦の涙を拭いた。
「美邦ちゃん、とりあえず寝ない。詳しいことは、落ち着いて明日に話さあ。」
操り人形のように、こくりとうなづく。
詠歌に肩を抱かれ、二階へと昇った。自室へ這入り、ベッドに寝かしつけられる。
明かりを消すと、詠歌は部屋を出た。
再び、独りになる。ベッドの中で、死への恐怖が湧き上がってきた。
遠くから、救急車のサイレン音が響く。
――神祭りの夜は外へ出てはならない。
そんな言葉が頭に響いた。御忌の日の夜、町民は家の中に篭り、震えて眠らなければならないという。それはまさに、今の美邦の状態と同じではなかっただろうか。




