EP.9 見取図の実測
上流便は、六時きっかりに岸を離れた。
荷は軽かった。塩の袋が十と少し、畳んだ空の麻袋の束、荷受けに使う秤と索。船の真ん中に帆柱が一本立っていて、朝のうちは、その帆が風を受けて船を運んだ。
俺は借りた雨具を着込んで、舳先の近くに座っていた。ラートさんの言ったとおり、川風が冷たい。油を引いた布が、風を止めてくれた。
倉の並ぶ岸を過ぎると、家がまばらになった。やがて、畑になった。
街の外に出るのは、初めてだった。
日が高くなる前に、風が落ちた。帆がだらりと垂れる。
「降りな。ここからは曳くよ」
船頭が言った。日に焼けた年配の女で、朝からずっとしゃべっている。天気のこと、塩の値段のこと、去年の蚊のこと。
船が岸に寄ると、曳き手の若い男が曳舟道へ跳び移った。俺も続いた。
仕組みは簡単だった。風のない所では、人が岸の道から索で船を引く。船頭は舵を取って、船が岸にぶつからないよう向きを保つ。
曳き索を肩に掛けた。昨日の麦袋で擦れた所に、麻がまた食い込む。
最初の十歩で、船頭に怒鳴られた。
「船を曳くんだよ。地面を曳くんじゃない」
前のめりになりすぎていたらしい。曳き手の男が背中を起こして、足だけで歩いてみせた。真似をすると、索の重さが肩から腰へ移った。船が、ゆっくりついてくる。
曳舟道の両側に、青い麦の畑が広がっていた。並木の向こうに農家の屋根が三つ。遠くで犬が吠えている。
リアの見取図の白い所は、こうなっていたのか。
運河が大きく左へ曲がる所で、船頭の声が変わった。
「曲がるよ」
短い声だった。
曲がり角では、船が遅れてついてくる。索は角の内側を斜めに横切って、ぴんと張る。船が振れれば、張った索が曳舟道の内側を払う。
張った索の内側に立つな。
荷揚げ場で、トーマに何度も言わされた言葉だ。考えるより先に、足が外側へ回っていた。
一拍遅れて、船の尻が振れた。索が、さっきまで俺の足があった草を、低くなぎ払った。
「……誰に習った」
船頭が、舵を握ったまま聞いた。
「荷揚げ場の、トーマに」
「ああ。あの、索にうるさい子かい」
船頭はそれきり何も言わなかった。けれど次の曲がりでは、「曲がるよ」の後に何も付け足さなかった。
曳きながら、船の上を振り返った。
リアは荷の間に座って、ペンを動かしていた。帳面ではない。膝に広げているのは、あの見取図だ。
運河が曲がるたびに、ペンが少し止まり、また動いた。
*
船着場に着いたのは、昼前だった。
運河の先に、大きな水門が見えた。石の壁の間に、木の扉が二枚。上流点検水門だ、と船頭が言った。その手前の岸に船着場があり、荷受けの小屋と、屋根の低い寝台小屋が並んでいる。
岸には、先客がいた。
麦袋を山のように積んだ船が一隻。船べりが、水面すれすれまで沈んでいる。
小屋から、男が二人出てきた。ラートさんが上流へ回した二人だ。年長のほうが、俺たちの船を見て手を上げた。
「遅れ船だ」
挨拶より先に、そう言った。
「三日前に積んだのに、出られん」
「水かい」と船頭。
「水だ」
船頭は船を下りて、水門の脇へ歩いていった。白く塗った杭が一本、水の中から立っている。杭には横に刻みが並び、刻みの横に数字が書いてあった。
「水位標だよ。河務局が朝と夕方に読みに来る」
船頭は杭を見上げて、舌打ちした。
「刻み三つ、足りない」
数字は、俺には読めない。けれど刻みなら数えられた。水面から上に、一つ、二つ、三つ。船頭が指で、その三つ目を叩いた。本当なら、水はそこまであるのだろう。
荷札を形で見分けたのと同じだ。読めなくても、数えることはできる。
横で、リアが杭の数字を帳面に写していた。杭と帳面を二度見比べてから、ペンを置いた。
「満載じゃ、下の浅い所で底を擦る」
年長のほうが、遅れ船の船べりを叩いた。
「軽くすりゃ出られる。だから、あんたらを待ってた」
上流便は軽い。遅れ船の袋を、こっちへ移す。移した分は、十七日に俺たちの船でカーヴェルへ運ぶ。
上流で手が足りない、とラートさんが言ったのは、このことだった。
船頭が舵を切り、上流便を遅れ船の横にぴたりと寄せた。
「結びな。前と後ろ」
索を渡された。杭ではなく、遅れ船の船べりの金具に結ぶ。
手首を二度返す。荷揚げ場で、十回目にやっと締まった結びだ。
締めようとしたところで、船頭が俺の手を止めた。
「結びは同じだ。違うのは、船は動くってことだよ」
船頭は索を少し引き戻して、結び目と金具の間にたるみを作った。
「余りを一握り、残しな」
言われたとおりに結び直した。前と後ろ、二か所。
それから、袋を渡した。遅れ船の上から若いほうが袋を差し出し、俺が受けて、曳き手の男へ回す。年長のほうが積む場所を指さす。麦袋は、昨日カーヴェルで担いだのと同じ重さだった。
十。二十。
二十を過ぎたころ、足元で索が鳴った。
遅れ船が、浮いてきていた。袋が減った分だけ、船べりが水面から持ち上がっている。こっちの船は、袋が増えた分だけ沈む。二隻の高さがずれて、結んだ索が上へ引かれた。
ぴん、と張る。
けれど、ほどけなかった。残した一握りの余りが、ちょうど伸びきって、そこで止まった。
余りがなかったら、と思った。張りきった索が、結び目ごと金具から引き抜かれていたかもしれない。
「軽くすれば、浮く」
思わず、口に出た。
「当たり前のことを、うれしそうに言うね」
船頭が笑った。
当たり前のことだった。けれど、刻み三つ足りない水の上で、船が軽くなって浮くのを、俺は初めて自分の目で見た。
四十袋を移したところで、年長のほうが手を上げた。遅れ船の船べりは、指三本分、水から高くなっていた。
結びを解くと、遅れ船はゆっくり岸を離れ、下流へ向かっていった。
リアが帳面を開いた。
「十五日。袋、四十、移しました。遅れ船、出ました」
短く読み上げて、リアは帳面を閉じた。
*
昼は、小屋の前で粥だった。
船頭は、粥をすすりながらもしゃべり続けた。今年は雨が遅い。蚊が早い。去年の遅れ船は、十日出られなかった。
若いほうが、首筋の蚊を叩いた。
「こう蚊が多いと、魔族のほうがましだ」
「魔族? ありゃ前線の話だよ」
船頭は鼻で笑った。
「この辺で出るのは、蚊と遅れ船くらいさ」
みんなが笑った。
勇者の紋の次は、魔族らしい。どこか遠い所の話として、ここでは誰も気にしていなかった。
粥の後、年長のほうが小屋の裏を指さした。
「明日の荷車は、裏の土手道から来る。村の畑からだ。並んで待たせる場所を、決めといてくれ」
最後の言葉は、リアに向けたものだった。
小屋の裏に回ると、水の音がした。
運河から、細い水路が一本分かれていた。幅は、俺が両手を広げたくらい。両岸は石で縁取られていて、石の角は丸くすり減っている。少し先に板の堰があり、その向こうで水はさらに細く分かれて、畑のほうへ流れていく。堰の手前では、村の女の人が二人、しゃがんで洗い物をしていた。
「古水路だ。今は畑の水だよ」
年長のほうはそれだけ言って、小屋へ戻っていった。
リアが立ち止まっていた。
帳面の間から、見取図を抜き出す。今朝まで、上流の端には日付しか書かれていなかった。今は、その白い所に、運河の線が一本伸びている。船の上で描いていた線だ。
「曲がり、七つ」
リアが、線の上を指でたどった。
「七つ目の曲がりの先。水門の手前」
指が止まった所から、薄い点線が一本分かれている。橋の上で見た、あの点線だ。
「古い図では、ここで分かれていました。上の水門の、手前で」
リアは、見取図と目の前の水路を見比べた。
今の運河の図にこの水路がないのは、たぶん、もう船が通らないからだ。畑の水は、船の図には載らない。
リアは、小屋の角に立った。
「荷車の待つ場所を、決めます」
一歩ずつ、土手道を歩き出す。声は出さない。唇だけが動いている。俺は少し後ろをついていった。
堰の前で、リアは止まった。
「八十歩」
帳面にそれを書いてから、見取図を広げた。ペンが、点線の上をなぞっていく。小屋の角から、堰まで。点線だった所が、一本の線になった。
長さは、指一本分くらいだった。
ペンの動きは、いつもよりずっと遅かった。左手のインクの跡の横に、新しい黒い点が一つ増えた。
堰の所で、ペンは止まった。そこから先は、点線のままだ。
「点線と、同じ所から分かれています。先が同じかは、分かりません」
リアは、堰の向こうを見た。水は畑の間を細く流れて、低い木の陰に入っていく。
「ここから先は、仕事では行きません」
それだけ言って、リアは見取図を帳面に戻した。
俺は、何も言わなかった。
*
夕方、荷受け小屋で、年長のほうが明日の割り振りを考えていた。
俺は聞いてみた。水門は何時まで開いているのか。カーヴェルまで歩いたら、どのくらいかかるのか。
「水門は六時から十八時。受付は十七時で締めだ。過ぎたら、船は朝まで待つ」
年長のほうは、指を折りながら答えた。
「カーヴェルまでは、曳舟道を歩いて四時間。村へは、裏の土手道で半時間」
時間と道が、一つずつ頭の中に並んでいく。ここでは、水門が一日の形を決めているのだ。
「それで、明日だ。村の荷車が一台、来られん。車軸が割れた。誰か一人、土手道を歩いて村へ行って、袋を数えて運ぶのを手伝ってほしい」
「俺が行きます」
今度は、誰かに決めてもらうのを待たなかった。土手道の先を、自分の足で歩いてみたかった。
年長のほうは頷いた。
「助かる。記録の子も来てくれりゃ、数が合う」
それから、帳面から顔を上げずに付け足した。
「あんた、言っといてくれ」
「……言っておきます」
小屋を出ると、戸口の脇でリアが帳面を広げていた。夕方の最後の光で、今日の数を写し直している。
「リア」
呼ぶと、リアが顔を上げた。
明日のことを言おうとして、口を開いた。けれど、リアの帳面には、写しかけの数がまだ半分残っていた。
「……いや。明日でいい」
「はい」
リアは帳面に目を戻した。ペンの音が、運河の水音に混じった。
夜、共同寝台に横になった。
壁の向こうで、運河の水が鳴っている。カーヴェルより、音が細い。
土手道の先は、リアの点線の先だ。堰の所で、リアのペンが止まった、その先。描きたいと言っていた所だ。
明日、仕事で行ける。
リアは、喜ぶだろう。朝、言えばいい。
六時に起きて、粥を食べて、土手道を歩く。堰を越えて、村へ。袋を数えて、荷車を押して戻る。そのあいだに、リアは点線の先を描ける。
俺は、明日の順番を並べていた。
その真ん中に、リアを置いて。




