EP.10 誰の旅程か
目を覚ますと、寝台小屋の窓がまだ白かった。
六時前。隣の寝台では、曳き手の男が寝息を立てている。俺は雨具を肩に引っかけて、外に出た。
朝靄が、運河の上に低く溜まっていた。水門の扉は閉じたままだ。六時までは、誰も通れない。
遅れ船のいなくなった岸は、昨日より広く見えた。水位標の杭の前で立ち止まって、刻みを数えた。一つ、二つ、三つ。水は、昨日から少しも増えていなかった。
荷受け小屋の裏に回ると、木槌の音がした。
リアが、土手道の脇に杭を打っていた。小屋の角から八十歩。昨日、リアが数えて決めた、荷車の待つ場所だ。杭はもう三本並んでいて、四本目の頭を、リアが木槌で叩いている。
「早いな」
「荷車は、朝のうちに来るそうです」
リアは顔を上げずに答えた。杭の頭を二度叩いて、傾きを確かめる。
俺は、昨夜並べた順番を、頭の中でもう一度確かめた。六時に粥。土手道。堰。村。袋。帰り道。何度並べ直しても、よくできた順番だった。
「今日、村へ行く」
リアの木槌が止まった。
「荷車が一台来られないから、誰かが歩いて袋を取りに行く。年長のほうが、記録の子も来てくれって。だから、リアも一緒だ」
言いながら、自分の声が弾んでいるのが分かった。
「土手道は、堰の先まで続いてる。点線の先だ。村まで半時間。行って、袋を数えて、戻る。そのあいだに——」
俺は、リアの帳面に挟まった見取図を指さした。
「点線の先、描けるぞ」
昨夜、寝台の上で、リアの顔を何度も思い浮かべていた。少し驚いて、それから、数を言うときのはっきりした声で「行きたいです」と言う顔を。
その顔は、出てこなかった。
リアは、何も言わなかった。四本目の杭を、最後まで打ち込んだ。木槌の音が三つ、朝靄の中に響いて、消えた。
それから木槌を下ろして、杭を一本ずつ見た。それから帳面を開き、昨日の八十歩の横に、何か書き足した。
「荷車の記録は、どうしますか」
「……え」
「荷車は、朝のうちに来ます。何台来て、どこに止めて、袋がいくつか。昨日、ここで決めてくれと言われました」
言われていた。昨日の粥の後、年長のほうが小屋の裏を指さして、並んで待たせる場所を決めといてくれ、と。あれは、リアに向けた言葉だった。
俺は、その場にいた。
それなのに、俺の順番の中に、荷車は一台も入っていなかった。
*
「なら、荷車が来てから行けばいい」
言いながら、頭の中で順番を組み直した。荷車を待って、記録を済ませて、それから土手道。村に着くのは昼前になる。袋を運ぶのに二往復して——
「描きたいとは、言いました」
リアの声が、組み直しかけた順番の上に落ちた。
ペンは止まっていなかった。帳面に、杭の数を書いている。
「いつ、どこから描くかは、言っていません」
俺は口を開けたまま、何も言えなかった。
「ユートさんの仕事に付いていって描いたら、それは、ユートさんの順番で描いた地図です」
リアの見取図には、行った所しか描かれていない。仕事で行った所だけです、と橋の上でリアは言った。描いてない所に、自分で行って、自分で描きたい、と。
自分で、と言ったのだ。
「……リアが、喜ぶと思って」
口から出たのは、それだった。言った瞬間に、言い訳だと分かった。
リアは、ようやくペンを止めた。
「……階段で、言いました」
それだけだった。
帳場の階段。踊り場の小さな窓。私のことで、決めないでください。
二日前に聞いた声が、そのまま戻ってきた。
ラートさんは、リアを呼ぶ前に、配置表の右の欄へ名前を書き写していた。リアが階段を上がってくる前に、もう決まっていた。俺はそれを見て、リアは行くって言ったんですか、と聞いたのだ。
昨夜、寝台の上で、俺は同じことをしていた。明日の順番を並べて、その真ん中にリアを書き写した。リアに聞く前に。
違うのは、俺が書き写した欄を、リアが見たことだけだった。
リアは帳面を閉じて、荷受け小屋のほうへ歩き出した。俺は、少し遅れて後を追った。
小屋の中で、年長のほうが帳面をめくっていた。リアは戸口に立って、数を言うときのはっきりした声で言った。
「荷車の記録は、ここでします。村の袋の数は、戻ってきた数と、あとで合わせます」
年長のほうは帳面から顔を上げた。リアを見て、俺を見て、また帳面に目を戻した。
「そうか。それでいい」
それで終わりだった。
決めたのは、年長のほうだ。それでもリアは、自分の仕事の理屈で、自分の置き場所を言いに行った。
「あの。リアが来る、みたいに言いました。俺が、勝手に」
「そうかい」
年長のほうは、それだけ言った。俺の失敗は、この人にとっては、割り振りの一行が変わっただけのことらしかった。
土手道のほうから、車輪の軋む音が聞こえてきた。最初の荷車だった。
*
村へは、一人で行った。
土手道は、古水路に沿って畑の間を伸びていた。堰を越えると、水路はすぐに細くなった。石の縁が途中で終わって、土の縁に変わる。水はところどころで小さな溝に分かれ、麦の畑へ入っていく。分かれるたびに、水路は細くなった。
畑に水を配るための道だった。
途中で、畑の脇にしゃがんでいた男が、溝の口に差してあった板を一枚抜いた。水が音を立てて、麦の畝の間へ流れこんでいく。男は俺に気づくと、軽く顎を上げて、また板の具合を見た。
気がつくと、数えていた。
五十一、五十二。
足を運ぶたびに、口の中で数が進む。昨日、リアが小屋の角から堰まで、唇だけを動かしていたのと同じように。
五十三で、やめた。
これは、リアが数える歩数だ。
俺が数えて持ち帰れば、リアの見取図には、俺の数が入る。俺の順番で歩いた道が。
足元の草を踏んで、数えずに歩いた。数えないで歩く道は、思ったより長かった。
村は、畑の向こうに屋根を寄せ合っていた。
教えられた家の前に、荷車が一台傾いていた。車軸が、真ん中から割れている。年配の農夫が、その横で腕を組んでいる。
「船着場の人かね」
「はい。袋を運びに来ました」
袋は、納屋の中に積んであった。数えると、二十四。
困ったのは、数の持ち帰り方だった。俺は字が書けない。帳面もない。二十四なら覚えていられるが、運んでいる途中でずれたら、確かめようがない。
腰には、荷受けの予備の細い索を一本下げてきた。
袋を十、手押し車に積むたびに、索に結び目を一つ作ることにした。手首を二度返す、あの結びだ。十に満たない分は、袋を置くたびに指を一本ずつ折った。
農夫の息子が手押し車を貸してくれて、二人で二往復した。土手道を押して、戻って、また押した。
二往復目、堰の手前で車輪が溝の縁に取られた。
手押し車が傾く。いちばん上の袋が、水路のほうへずり落ちかけた。
「押さえろ!」
農夫の息子が叫ぶより先に、俺は袋の口をつかんでいた。肩に、麻の目が食い込む。昨日の擦れの上だった。二人がかりで車を起こし、袋を積み直した。
息が落ち着いてから、腰の索を見た。結び目が二つ。折った指は、まだ四本のままだった。袋を積み直しても、数は迷わなかった。
二往復目の袋を積んでいるとき、農夫が俺の手元をのぞきこんだ。
「数は、あんたが書くのかね」
「書けないので、これで」
結び目を見せると、農夫は声を出して笑った。
「書く人は、おらんのかね」
「船着場に、記録の子がいます。向こうで、自分の仕事をしてます」
農夫は「そうかね」と言って、それ以上は聞かなかった。
*
夕方、荷受け小屋に戻ると、リアが戸口の机で帳面を広げていた。
朝から来た荷車の数と袋の数が、升目に並んでいるらしかった。俺には読めない。けれど、升の数が、今日来た荷車の数なのは分かった。
俺は腰の索をほどいて、机に置いた。
「結び目一つで、十。あと、四」
リアは索を手に取って、結び目を指でたどった。一つ、二つ。それから、指を四本立てた俺の手を見た。
「二十四」
帳面の、船着場に届いた袋の数と見比べる。
「合っています」
リアはそれを帳面に書いた。索はすぐには返さず、結び目を、もう一度指でなぞった。
「結びで、数えたんですね」
「字が書けないから」
リアは少しだけ、何か言いたそうにした。けれど、言わなかった。索を丸めて、机の端に置いた。
俺は、朝から考えていたことを口にした。
順番を決める前に、聞く。それだけのことを、今日一日かけて考えていた。
「点線の先、いつ描きたい」
リアはペンを持ったまま、しばらく黙っていた。
「分かりません」
少しの間があった。
「決めたら、言います」
言っておきます、と俺は昨日答えた。今度は、決める人が、自分で言いに来る。
「分かった」
俺は、それだけ言った。いつでもいい、とも、待ってる、とも言わなかった。それも、俺が決めることではない気がした。
小屋を出ると、日が水門の向こうへ傾いていた。
水位標の前に、男が一人立っていた。
雨具の上に、小さな札を下げている。杭を見上げて、刻みを一つずつ目でたどり、手元の帳面に何か書きつけた。それから、もう一度杭を見上げた。同じ所を、二度測っているようだった。
「あの人は」
聞くと、年長のほうが小屋の戸口から顔を出した。
「河務局だよ。明日は点検の日だ」
船頭が言っていた。河務局が、朝と夕方に水位を読みに来る。
男は帳面を閉じると、こちらを一度も見ずに、水門のほうへ歩いていった。




