EP.11 巡回の人
六時の少し前、年長のほうに起こされた。
「監察官が、荷受け場の係留と積みを見る。結んだのと、数えたのがいりゃいい」
結んだのは俺で、数えたのはリアだ。年長のほうはそれだけ言って、小屋へ戻っていった。
外に出ると、リアがもう戸口に立っていた。帳面を胸に抱えている。目が合うと、小さく頭を下げた。昨日の朝のことは、どちらも口にしなかった。
水門の脇に、昨日の夕方の男がいた。
長い竿を、船着場の縁から水に立てている。竿には刻みが入っていて、男は水面の所の刻みを読むと、竿を抜き、一歩横へずれて、また立てた。何度かそれを繰り返してから、ようやくこちらを向いた。
雨具の上に、札が下がっている。片目の下に、古い切り傷が一本走っていた。
「六時。刻み、三つ下。昨日の夕方と同じだ」
挨拶より先に、それだった。乾いた、低い声。
「河務局の監察官、オルドだ。係留を見る」
オルドは上流便の舳先へ歩いていき、しゃがんだ。
見たのは、三つだった。
まず、結び目。指で触らず、目だけで、索がどちらへ回っているかを追う。
次に、余り。結び目と金具の間のたるみを、手で握る。ちょうど一握り。
オルドの手が索を握ったとき、手のひらに汗が出た。一昨日、船頭に言われたとおりに結んだ。それだけの結びだ。ほどけたら、と思うと、見ていられなかった。
最後に、船べりと水面。袋を積んだ船べりが、水面からどれだけ出ているかを、指を当てて測った。
「誰が結んだ」
「俺です」
「一握り。水が戻っても、足りる」
それだけ言って、オルドは立ち上がった。褒められたのかどうかは、分からなかった。
「積む袋は、いくつだ」
リアが一歩前に出た。帳面を開き、二つの頁を指で押さえて見比べる。数を確かめてから、顔を上げた。
「遅れ船から、四十。村から、二十四。六十四です」
数を言うときの、はっきりした声だった。
オルドは船べりをもう一度見て、それから水位標を見た。
「この水なら、五十までだ」
小屋の戸口から、年長のほうが出てきた。
「十七日に、全部下ろす約束だ」
「刻み三つ下で、この船に六十四積めば、船べりは指二本まで沈む。下の浅瀬で、底を擦る」
オルドは、条件だけを並べた。
「積み量を決めるのは、商会だ。ただ、底を擦った船は、水路を塞ぐ。水路を塞ぐ船は、止める」
年長のほうは、しばらく黙って袋の山を見ていた。
「ラートさんに、何て言やいい」
独り言のようだった。オルドは答えなかった。答えるのは自分の仕事ではない、という顔で、水位標を見ていた。
「……五十だ。十四は、小屋に戻せ」
約束と、水。
カーヴェルでも、同じだった。ラートさんには下りの便との約束があって、点検欄には七人の標準があった。あのとき、約束の向かい側に置かれたのは、リアが並べた紙だけだった。紙は読まれて、正確だと言われて、それで終わった。
ここでは、水の側に、測って、止めると言える人が立っていた。違うのは、それだけだった。
*
袋を小屋に戻すのは、俺の仕事になった。
十四袋。肩に担いで、船から小屋へ。三日のあいだに、この袋は遅れ船から上流便へ、上流便から小屋へと移ったことになる。どの船に乗るかを決めるのは、袋ではなかった。
「去年も、あの人に一日止められた」
袋を受け取りながら、若いほうが小声で言った。
「積みすぎの船が浅瀬で傾いて、後ろの船が全部待たされた。あの人が来て、荷を半分下ろすまで、誰も通さなかった」
「怒ってたんですか」
「いや。測って、書いて、止めただけだ」
運びながら、水門のほうを見た。オルドは扉の脇にしゃがんで、軸のあたりを覗きこんでいた。
十四袋目を下ろしてから、俺は水門へ歩いていった。
言いたいことがあった。
カーヴェルの荷揚げ場で、樽三十を五人で揚げた。点検欄の標準は七人だった。角では前に人が足を挟まれて、記録では本人の不注意になっている。今は、四人で回している——
「カーヴェルの荷揚げ場で——」
口の中まで出かかって、止まった。
言ってしまえば、楽になると思った。見たことを全部この人に渡せば、あとはこの人が何とかしてくれる。俺はもう、角のことを考えなくていい。
三日前、トーマに「残ったほうが、いいか」と聞いたときと、同じだった。自分では決められないことを、誰かに決めてほしかった。前の世界でも、そうやって、決める役をいつも誰かに預けてきた。
昨日の朝、杭の前で、リアに言われたことも思い出した。俺は順番を先に決めて、聞かなかった。
この人に何を止めてほしいのかを言う前に、この人が何を止められるのかを、俺は知らない。知らないまま渡せば、それは頼むのではなく、押しつけるだけだ。
「監察官は、何を止められるんですか」
オルドは、扉の軸から目を離さなかった。
「公共の水路と水門と、そこでの作業の危険だ。確認できた危険なら、その日のうちに止める」
「確認は、どうやって」
「測る。記録を見る。人に聞く。一人ずつ、別々にな」
オルドは立ち上がって、手の泥を払った。
「荷揚げ場の、人数は」
「人数を決めるのは、事業者だ。俺が見るのは、危険のほうだ。人が足りなくて危ないなら、その危なさを測る」
それから、少しだけ間を置いた。
「測っていない危険は、止められん。書いていない危険もだ。そういうときは、測るところから始める」
俺は、何も言えなかった。
ラートさんの五人は、それだけでは、何かを破ったことにならない。標準は七人でも、決めるのは商会だ。十三日は無事だった。俺が持っているのは、あの日の角の近さと、黙って働くサナの背中だけだ。
止めてもらうには、危ないということを、誰かが確かめられる形にしなければならない。
俺は、その形を、何一つ持っていなかった。
*
「申し立てるのに」
後ろで、リアの声がした。
いつから聞いていたのだろう。帳面を胸に抱えたまま、リアが立っていた。
「許可は、要りますか」
声は、はっきりしていた。けれど、帳面を抱える腕に、少し力が入っていた。
オルドは、リアを見た。身分も、名前も聞かなかった。
「要らん」
短かった。
「本人でも、同僚でも、見た者でもいい。窓口でも、巡回中の俺にでもいい。申し立てに行くための離脱は、逃げたことにはならない」
リアは、何も言わなかった。
左手の親指が、インクの跡をこすっていた。落ちない跡だ。
それから、リアは帳面を開いた。ペンを持った。何かを書こうとして、書かなかった。ペンを持ったまま、帳面を閉じた。
最初の日のことを思い出した。仕事の後に街を見ようと誘った俺に、リアは、許可がいります、と答えた。自分の板を、自分で読み上げて。
休みの日も、リアは宿舎の石段にいた。許可がなければ、橋の先へも行けない。
そのリアに、この人は、要らん、と言った。
俺は、あの問いを思いつきもしなかった。
リアのために、何ができるか。俺が、誰に何を言えばいいか。ここ数日、そればかり考えていた。けれど、リアが聞いたのは、自分に何ができるか、だった。
同じ水門の前に立って、俺たちは別々のことを聞いていた。
オルドは続けた。声の調子は変わらなかった。
「申し立てがあれば、俺は確かめに行く。確かめられなかったことは、止められん」
できることと、できないことを、同じ重さで言う人だった。
「契約の控えは、三つある。河務局と、事業者と、本人だ。台帳と一緒に、突き合わせる」
「……本人の」
リアが言いかけて、止まった。その先は、言わなかった。
オルドは少しだけ待った。リアが続けないのを見て、水位標のほうへ目を移した。
「カーヴェルには、来ますか」
今度は、リアがはっきり聞いた。
「巡回の順にな。市内の水門は、二十三日の朝だ」
「二十三日」
リアは、日付を復唱した。
「……六日後です」
それは、俺に言ったのでも、オルドに言ったのでもないようだった。
オルドは、リアの帳面に目を落とした。閉じた帳面の端から、昨日までの頁が少しのぞいている。
「十五日。刻み三つ下」
オルドが、そこに書かれた行を読み上げた。
「測った日が書いてある。それでいい」
それだけ言って、オルドは測り竿を担ぎ、水門の上の通路へ上がっていった。次は、門の上の水を測るのだろう。
リアは、帳面を胸に抱え直した。オルドの背中が通路の向こうへ消えるまで、そこを動かなかった。
俺は、何も聞かなかった。今、何を考えているのかも、何を書こうとしてやめたのかも。
聞けば、答えてくれたかもしれない。けれど、今は聞かないでおこうと思った。
*
八時過ぎ、上流便は袋五十を積んで岸を離れた。
「五十かい。監察官に言われちゃ、しょうがないね」
船頭は舵を取りながら笑った。下りは曳かない。流れと帆で下る。
船べりに座って、遠ざかる水門を見た。水位標の杭が、朝の光で白く光っている。
気がつくと、また順番を並べかけていた。十五日、曳き索。遅れ船。古水路。十六日、杭。村。結び目。十七日……
やめた。
並べても、何かを確かめたことにはならない。
代わりに、オルドの言葉を頭の中で繰り返した。測るところから始める。
俺に、何が測れるだろう。
字は読めない。書けない。点検の資格もない。数えることなら、できる。水位標の刻み。索の結び目。
歩数も数えられる。けれど、あれはリアの分だ。
一時間ほど下ったころ、船頭が曳き手に竿を渡した。
「ここだよ。浅いのは」
曳き手が舳先で竿を水に突く。船頭が舵を細かく切る。水の色が、そこだけ薄かった。
船の腹の下で、低い音がした。
ごり、と、一度だけ。
誰も口をきかなかった。船は止まらず、そのまま深い色の水へ抜けた。
「五十で、これだよ」
船頭が、息を吐いた。
「六十四積んでたら、今ごろ、ここで一日お座りさ」
俺は、船べりの水を見た。オルドは、この浅瀬を見ていない。見ていないのに、刻みと船べりから、この音を先に言い当てていた。
リアは、荷の間に座っていた。見取図は出していない。帳面を膝に置いたまま、川岸を見ている。上りのときに数えた曲がり角を、船は一つずつ逆にたどっていく。リアのペンは動かなかった。点線の先の話は、どちらもしなかった。決めたら言う、とリアは言った。
午後二時ごろ、見慣れた倉の並ぶ岸が見えてきた。
荷揚げ場で、赤いスカーフが揺れた。
「おかえりー!」
サナが両手を振っていた。
船が岸に寄ると、サナは袖を濡らしながら索を受け取りに来た。早口だった。
「なんにも、なかったよ。三日とも。麦と、麦と、麦。四人で、ちゃんと」
「……そうか」
胸の奥で、固まっていたものがほどけた。三日のあいだ、ずっと気にしていたのだと、そのとき初めて分かった。曳き索を曳いているときも、村の土手道でも、どこかで白線の角を思い浮かべていた。
後ろから、トーマが歩いてきた。
「戻ったか」
それだけだった。トーマは船べりの袋を見て、目で数えるようにしてから、一度だけ、白線の角を見た。
三日前、麦袋を運びながら見たのと、同じ目だった。
四人で、足りた。
足りた日が、また一つ増えた。
俺はサナから索を受け取って、杭に結んだ。手首を二度返す。余りを、一握り残して。




