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EP.12 三つの控え

袋五十を揚げ終えるまで、一時間かかった。


トーマ、サナ、他班の二人、それに俺。戸口の机にはリア。いつもの顔ぶれに、俺が戻っただけだ。


担ぐたびに、白線の角が目に入った。


角は、何も変わっていなかった。白線は同じ所に引かれていて、今日は仮置きの樽もない。三日間、四人で、何も起きなかった場所だ。


測るところから始める。


上流の水門の前で聞いた言葉が、ずっと頭の中にあった。オルドさんが測ったのは、水位と、船べりと、余りの一握りだった。ここで測れるものは、何だろう。


人数は、もう分かっている。点検欄に七。配置表に五。この三日は四。けれど、人数を決めるのは商会だ。


危ないのは、人数そのものではない。人数が足りないとき、どこが危なくなるかだ。


十日の朝、樽が崩れたのは、角だった。仮置きの樽が角に寄せられて、退避路が細くなって、サナがそこに取り残された。


人が二人すれ違える幅。退避路の決まりだ。働き始めて二日目に、トーマに教わった。


あの日、角には、その幅があったのだろうか。


最後の袋を下ろしてから、俺はトーマのところへ行った。


言う前に、一度、口の中で確かめた。何を頼むのか。どこを、どの日の形で。俺に出せるものは何か。


上流で、オルドさんに何もかも渡してしまいそうになった。見たことを全部預けて、あとは任せればいいと思った。あれは、頼むのではなく、押しつけることだった。


今度は、頼みたいことを、ちゃんと形にして渡したかった。


「トーマ。角の幅を、測れないか」


トーマが、袋を積む手を止めた。


「十日の、樽の置き場所で。あのとき、退避路に二人分の幅があったか」


トーマは俺を見て、それから角を見た。長い間だった。


「……測るのは、俺の仕事だ」


それだけ言って、空の樽を二つ、転がしてきた。


「十日、樽はどこにあった」


「そこと、そこ」


サナが、すぐに指さした。迷わなかった。あの日、崩れる樽を一番近くで見ていたのは、サナだ。


戸口の机から、リアが帳面を持って来た。十日の頁を開く。


「十時。仮置き、角寄り」


トーマが、サナの指した場所に樽を二つ立てた。


次に、物差しが要った。


リアが、帳面の間から細い索を出した。結び目の付いた索。上流の村で、俺が十袋ごとに結び目を作った、あの索だ。机の端に置いたまま、持って帰ってきていたらしい。


トーマは結び目をほどいて、自分の肩に当てながら結び直した。肩幅ごとに、一つ。もう一つ。


「一つで、一人分だ」


白線の端から、樽の縁まで、索を張る。


トーマが、結び目を数えた。


「一つと、少し」


二人分のはずの幅に、一人分と少ししかなかった。


腹の底が、すっと冷えた。


十日、サナは、この一人分の幅に取り残されていた。後ろは運河で、前は樽の山だった。


サナは何も言わなかった。張られた索の結び目を、黙って見ていた。


  *


リアは、索の長さと結び目の数を帳面に写した。それから、帳面を閉じて言った。


「控えを、取ってきます」


「控え?」


「私の、契約の控えです。帳場にあります」


上流の水門の前で、オルドさんが言っていた。控えは三つある。河務局と、事業者と、本人。リアはあのとき、本人の、と言いかけて止まった。


本人の控えが、本人の手元にない。そういうことだったのだ。


リアは帳場の階段へ歩き出した。俺は、ついていっていいのか迷った。


「……来ますか」


階段の下で、リアが振り向いた。


「行く」


帳場の奥の机で、ラートさんが紙を読んでいた。上流の十四袋の話だろう、と思った。顔を上げて、リアを見る。


「どうした」


「私の控えを、見せてください」


ラートさんは、少しも迷わなかった。立ち上がり、棚の端から、紐で束ねた紙の綴りを出した。一枚を抜き、もう一つの綴りから、同じ番号の紙を抜く。


「君のものだ。預かっていただけだ」


二枚が、机の上に並んだ。商会の控えと、リアの控え。


「何に使う」


「照合です」


「そうか」


ラートさんは頷いた。


「記録は、正確なほうがいい」


十三日の朝、リアの並べた紙を最後まで読んだときと、同じ声だった。


リアは二枚を並べて、一行ずつ指でたどった。番号。名前。権利者。就役の範囲。長い時間がかかった。


「同じです」


リアの指が、一つの行で止まった。


「安全義務」


読み上げる声は、数を言うときと同じだった。


「配置は、点検欄の標準による。管理責任者が安全を確かめた場合は、この限りでない」


ラートさんは、何も言わなかった。当たり前のことを聞いた顔をしていた。


この限りでない。


七人の標準がある。けれど、ラートさんが安全を確かめたなら、五人でも、四人でもいい。そう書いてある。


ラートさんは、隠していなかった。控えを出すのに、一瞬も迷わなかった。自分の判断が、紙の上でも正しいと思っているのだ。


それが、かえって重かった。


確かめた、とラートさんは言うだろう。十三日も無事だった。この三日も、無事だった。


けれど、確かめた、とは何のことだろう。無事に終わったことか。それとも、始める前に、角の幅を測ったことか。


リアは、自分の控えを両手で持っていた。


自分の名前の書かれた紙を、自分の手に持つ。預かっていただけ、とラートさんは言った。預かられていた間、リアは一度も、それを手にしなかったのだ。


  *


宿舎の石段に、リアは一枚の紙を広げた。


帳面から外した、白い一枚。


「並べます」


リアは帳面をめくりながら書き始めた。俺には読めない。けれど、何を書いているかは、リアが一行ごとに小さく口にした。


十日。七人。樽、二十四。十時、変更。仮置き、角寄り。引き波。角で、崩れる。


十三日。点検欄の標準、七。配置表、五。樽、三十。負傷、なし。


十五日から十七日。四人。麦。負傷、なし。


控え。安全義務。この限りでない。


角の幅。十日の置き場所で、一人分と、少し。


一行ずつ、紙が埋まっていく。ばらばらの頁にあったものが、一枚の上に並ぶと、別のものに見えた。一つずつなら、どれも「無事だった」「決まりどおりだった」で終わる行だ。並べると、その間に、角が見えた。


サナが、石段を上がってきた。袖が、まだ濡れていた。


リアの紙を、上からのぞきこむ。しばらく黙っていた。


「……あのときも」


いつもの早口ではなかった。


「角に、荷が寄ってた。足を挟まれた、あのとき」


リアのペンが止まった。


「誰が決めたかは、知らない。……知らない、けど」


その先は、飲み込んだ。


リアは、紙の下のほうに線を一本引いた。その下に、少し小さな字で書く。


「サナの話。角の件のとき、荷が角に寄っていた。決めた人は、知らない」


測った数と、見た人の話を、リアは分けて書いた。混ぜなかった。


俺は、結び目の索を、紙の横に置いた。一つと少しの行の、すぐ隣に。


リアは、紙を最後まで読み返した。それから、顔を上げた。


「十九日に、ラートさんに見せます」


俺を見て、言った。


「決めたので」


決めたら、言います。上流の小屋で、リアはそう言った。あれは点線の先の話だった。点線の先のことは、まだ何も聞いていない。けれど、別のことを、リアは先に決めて、言いに来た。


俺なら、どうしていただろう。


見せる相手と日付を先に決めて、十九日に見せよう、とリアに告げていたかもしれない。上流で、村へ行く順番の真ん中にリアを置いたように。


今は、聞く側にいる。リアが決めて、俺はそれを聞いた。


少し、落ち着かなかった。何か言うべきではないのか。手伝えることを申し出るべきではないのか。


けれど、口を開く前に分かった。これでいい。リアは、何をするかを決めて、俺に言った。手伝ってほしければ、それも言うだろう。


「分かった」


俺は、それだけ言った。


  *


四時前に、監督役が帳場から下りてきた。


「リア、上流の三日分を河務局へ。ユート、荷運びだ」


いつもの届け物だ。


橋を渡りながら、リアが短く言った。


「荷受け記録には、人数の欄があります」


「人数?」


「その日、何人で荷を受けたか。ずっと空欄でした。誰も書かないので」


リアは、抱えた束を持ち直した。


「今回は、書きました。上流の三日と、ここの四人。欄の外に、点検欄の標準も」


誰も書かないので、書かなかった。俺だったら、きっとそうしていた。空いている欄は、空けておくものだと思って。


リアは、書いた。申し立てるのでも、誰かを訴えるのでもなく、いつもの仕事の、いつもの用紙に。


窓口には、ミラさんがいた。


束を受け取り、冊数を数える。それから、リアが言った。


「控えの番号を、照合していただけますか」


リアは自分の控えを差し出した。ミラさんは番号を読み、奥の棚から台帳を出して、同じ番号の頁を開いた。指で一行ずつたどる。リアと、同じたどり方をする人だ。


待つ間、俺は落ち着かなかった。ミラさんが、どうしてこんなことを、と聞いたら。リアは、何と答えるのだろう。十九日のことを、ここで言うのだろうか。


ミラさんは、何も聞かなかった。


「河務局の控えと、同じ番号です。文言も同じです」


ミラさんは、受付の帳面に何か書き入れた。それから、荷受け記録の一冊を開いて、ペンを止めた。


「この欄に人数を書かれたのは、初めてですね」


「書く欄が、ありましたので」


リアは、数を言うときの声で答えた。


ミラさんは、少しだけ目を上げた。何かを言いかけて、言わなかった。


「受け取りました」


帰りの橋で、俺は運河を見ていた。


欄は、ずっとそこにあったのだ。誰も書かなかっただけで。


俺の板にも、空いた欄がある。職業は、未測定。技能の欄は、最初は観測なしだった。今は、候補。空いていても、それは測っていないというだけで、何もないという意味ではなかった。


書かれていない欄は、何もないことと同じではない。


今日、河務局の棚に、人数が一行ずつ入った。十九日まで、あと二日だった。

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