EP.13 退けられた申立て
支払いは、朝のうちだった。
帳場の机の前に、臨時雇いが三人並んだ。俺の番が来ると、係の男が帳簿の行を指でたどり、銅貨を数えて机に置いた。
「四月十三日から十七日。五日分、差し引き二十」
二十枚。握ると、手のひらに冷たく重なった。前の支払いの残りと合わせて、三十五枚。
宿舎の石段で、一枚を光にかざした。片手を高く掲げた人の姿。勇者さまの紋、とサナは言った。
三十五枚で、何日生きられるだろう。
食事が一日十二、寝床が四。働いている間は、賃金から引かれている。働かなければ、自分で払う。一日十六。
三十五を十六で割ると、二日と少し。
二日と少し。それが、今の俺の手持ちの未来だった。前の世界では、財布の中身をこんなふうに日数で数えたことはなかった。
休みの日に一人で街へ出るのは、二度目だった。
一度目は、分かれ道に出るたびに、自分で右か左かを選んだ。それだけのことが、うれしかった。
今日は、選んでいなかった。運河沿いを歩き、橋を渡り、また運河沿いを歩いた。
休みの街は、平日と匂いが違った。パン屋の前に人が並び、洗濯物が窓から窓へ渡されている。店の看板は、十日たっても読めなかった。絵の付いた看板だけが、何の店か分かる。
気がつくと、見覚えのある石の壁の前に立っていた。
市内の、公共水門だった。
扉は閉じていた。水門の手前に縄が張られ、縄には赤い布の切れ端が結んである。その内側で、男が二人、扉の軸に油を差していた。
「今日は整備だ。近づくな」
一人が、こちらを見ずに言った。
縄の内側を、目でたどった。石の壁。木の扉。扉を動かす大きな輪の付いた台。台の脇の、細い足場。船が行き来する日には人と荷に隠れて見えない所が、今日は一つずつ、よく見えた。
男が軸を叩くと、低い音が水の上を渡った。
十日前、ここを荷船が通っていくのを、俺は草の上から見上げていた。リアと橋の上から見たときには、扉がゆっくり開いて、待っていた船が中へ入っていった。今日は、扉は閉じたまま、何も通さない。
縄に沿って歩くと、水路脇に、細い道が見えた。
草の生えた、水路沿いの道。
十日前、俺はここで目を覚ました。
足が、最初の場所へ向かっていたのだ。自分で選んだつもりはなかった。そのことに、少し驚いた。
*
草の上に座った。
水路の水は、水門が閉じているせいか、ほとんど動かない。
十日前。
ブレーキの音と、白い光。濡れた路面の匂い。思い出せるのは、今もそれだけだ。その先を思い出そうとすると、何も出てこない。だから、思い出そうとするのはやめた。
知らない場所で目を覚ましたなら、何かあるはずだ。あの朝、そう思った。
何かは、あった。
胸の奥で、掛け金が落ちる感触。この水路脇で一度。荷崩れの角で一度。読取所の器具の前で一度。そのたびに、知っていたことが、使う順番に並んだ。
俺はそれに、《未来確定》と名前を付けた。
名前を呼んだときには、一度も起きなかった。板には、候補と書いてある。条件、調査中。
何なのか、自分でも分からない。未来を決める力なのか。ただ、頭の中の順番が揃うだけなのか。揃ったところで、樽を持ち上げる力は、魔力三のままだ。
あったのは、魔力三と、結び目と、数えることだった。
手のひらを見た。索の擦れ跡が、薄く茶色くなっている。上流で曳いた索の跡が、その上に重なっていた。
ポケットの銅貨を、一枚出した。
勇者の紋。
この世界のどこかには、勇者がいるらしい。どこか遠くには、魔族との前線があるらしい。サナは紋を知らない俺を笑い、船頭は魔族を、蚊と遅れ船と同じ話にした。
どちらも、俺のいる所からは遠い。
前の世界で読んだ話なら、転生した人間は、そういう話の真ん中に立つのだろう。勇者か、勇者と並ぶ誰かとして。
俺は、その話の外にいる。外にいて、荷を揚げている。
それが悪いとは思わなかった。ただ、この先が見えなかった。
十日で、毎日の中に、名前が増えた。六時の荷揚げ場。数を読み上げるリア。結びを教えてくれたトーマ。早口のサナ。窓口のミラさん。水を測るオルドさん。
この人たちの中で、俺は何をして生きていくのだろう。
答えは出なかった。
前の世界では、答えの出ないことは先延ばしにした。調べて、迷って、締め切りが過ぎるのを待った。
ここでは、先延ばしにしても、腹は減る。粥と寝床は、毎日の六時間で買っている。明日の六時に荷揚げ場に立たなければ、明後日の粥はない。
……明日の六時に、立たなくてもいい。
ふと、そう思った。
募集票の一文。本人はいつでも辞退でき、辞退までの分は支払う。
俺は、いつでも辞められる。上流へも、その先へも行ける。角が危なくなったら、辞めればいい。
そこまで考えて、リアの板を思い出した。身分、就役。権利者、ローデル運送商会。
リアは、辞められない。
自分だけが逃げられる。そう考えた自分が、嫌だった。
けれど、その考えは消えなかった。一度浮かんだものは、草の上に座っている間じゅう、腹の底に沈んだまま動かなかった。
水門のほうで、整備の男が扉を閉め直す音がした。
俺は立ち上がって、草を払った。
夕方、宿舎の石段に戻ると、リアが一枚の紙を膝に載せていた。十九日に見せる、あの紙だ。休みの日も、リアは外へ出られない。朝から、ずっとここにいたのかもしれない。
俺が石段を上がると、リアが顔を上げた。
「どこへ、行ったんですか」
初めてだった。リアが、俺の行った先を聞くのは。
「目を覚ました所。水門の脇」
「……そうですか」
リアは、それ以上は聞かなかった。紙を帳面に挟み、代わりに見取図を出した。市内の水門。その脇の水路沿いに、細い道が一本描いてある。
リアの指が、その道をなぞった。
「明日です」
それだけ言って、リアは見取図を閉じた。
*
十九日の朝、帳場の横に、配置表はまだ貼られていなかった。
階段の下に、ラートさんが立っていた。今日の荷の予定を、監督役と話している。
リアが、一歩前に出た。
「ラートさん。見ていただきたいものがあります」
差し出したのは、あの一枚だった。
トーマとサナが、少し離れた所で手を止めていた。俺も、その横にいた。
ラートさんは紙を受け取り、最後まで読んだ。十日の行。十三日の行。十五日からの行。控えの条項。角の幅。線の下の、サナの話。一度も途中で目を上げなかった。
「正確だ」
十三日の朝と、同じ言葉だった。
「そのうえで、話そう」
ラートさんは紙を持ったまま、穏やかな声で言った。
「安全は、確かめている。毎朝、トーマが幅と人数を見ている。十日も、十三日もだ」
トーマの肩が、わずかに動いた。
「十日の角寄りの仮置きは、下りの便が早まった日の例外だ。今は、角には置かせていない。三年で、負傷は一件。十三日も、この三日も、誰も怪我をしていない」
ラートさんは、紙の端を指でそろえた。
「上流では、十四袋がもう遅れている。ここで人をそろえるために荷を止めれば、下りの便が一日遅れる。遅れれば、五十人の仕事が止まる。君たちの食事も、ユートの賃金も」
俺の名前が出た。
一瞬、うなずきかけた。止まれば、俺の賃金も止まる。昨日、手のひらに載った二十枚が、来週は来ないかもしれない。
うなずきかけた自分に、気づいた。
「申し出は、受け取った。配置は、変えない」
ラートさんは紙を返した。
「写しを一枚、置いていってくれ。記録は、正確なほうがいい」
リアは紙を受け取った。反論はしなかった。代わりに、一つだけ聞いた。
「確かめた、の記録は、どこにありますか」
ラートさんは、少し意外そうな顔をした。
「記録するほどのことではない。毎朝、見ているのだから」
そのとき、トーマが口を開いた。
「幅と人数は、見ている」
低い声だった。
「……五人で足りるとは、言っていない」
ラートさんはトーマを見た。怒った顔ではなかった。
「足りないとも、言わなかった」
トーマは、それ以上何も言わなかった。
全員を家に帰したい。だから結びが先だ。働き始めた日に、トーマはそう言った。毎朝、白線を歩いて幅を確かめてきたのも、同じ理由のはずだ。その確かめが、今、五人で行く理由として数えられていた。
サナは、一言も言わなかった。袖を握ったまま、角のほうを見ていた。
*
監督役が、配置表を帳場の横に貼った。
リアがそれを読んだ。
「十九日。人数、五。樽、二十」
「ユート、楔と角の見張りだ。十三日と同じ」
監督役はそれだけ言って、水際へ行った。
リアは紙を、自分の控えと一緒に帳面に挟んだ。写しは、昼休みに作るのだろう。戸口の机へ戻っていく背中は、いつもと同じ速さだった。
俺は、白線の角に立った。
一つと、少し。
今日は、角に樽はない。ラートさんの言うとおりだ。幅は、今は二人分ある。
けれど、十日の朝も、六時には幅があった。
荷船が岸に寄ってくる。索が投げられ、トーマが受ける。最初の網が上がり始める。
樽が一つ、二つ。仮置きの列に下ろされるたびに、俺は楔を入れた。まっすぐ、根元。サナに教わったとおりに。
四つ目の網が上がったとき、運河を通る船の引き波が、岸に寄せてきた。
網が、わずかに振れた。
角のほうへ。
トーマの手が索を押さえ、網はすぐに止まった。樽は、角に触れもしなかった。誰も声を上げなかった。何も起きなかった。
けれど、俺の目は、網が止まるまで、角から離れなかった。十日の朝も、最初は、こうだった。
昨日、水門脇で思ったことが、戻ってきた。
俺は、いつでも辞められる。
辞めれば、手持ちは二日と少し。二日たてば、粥も寝床もない。それでも、辞めることはできる。角に立たないことを、俺は選べる。
嫌だ、と思った。昨日と同じように。リアは戸口の机で、もう数を取り始めている。サナは水際で、網を受ける構えをしている。
それなのに、気がつくと、足が角から一歩、下がっていた。
白線の内側へ。退避路の、奥のほうへ。
俺は、その一歩を、戻せなかった。




