EP.14 退く
網が上がるたびに、俺は樽を数えた。
一つ。仮置きの列に下ろされる。楔を入れる。まっすぐ、根元。
二つ。三つ。
角は、何も変わらなかった。白線の内側に樽はない。幅は二人分ある。朝の引き波で振れた網も、あれきり振れなかった。
五つ目が置かれたとき、足りた、と思った。
十三日も、そうだった。一つ置かれるたびに、足りた、が一つ増えた。夕方には三十になって、負傷なしになった。上流から戻った日、サナは「なんにも、なかったよ」と言った。今日も、たぶんそうなる。
無事に終わった日は、ラートさんの帳面に一行ずつ増える。増えるほど、明日も五人になる。
俺は楔を入れる。見張る。それで角が安全になるわけではない。樽が寄れば、角はまた一つと少しになる。俺にできるのは、寄った、と叫ぶことくらいだ。叫んで間に合うのかは、分からない。
十日の朝、俺は、角ははみ出しやすい、と一度だけ言った。それでも、崩れた。
水際で、サナが網を受けていた。十三日と同じように、角にいちばん近い所で、黙って。俺は、サナの足元を見ていた。見ていることしか、できなかった。
昼休み、粥の椀を持って、戸口の机のそばに座った。
リアが、ラートさんに渡す写しを書いていた。一枚の紙を横に置いて、一行ずつ、別の紙に写していく。字は読めないが、行の数は分かった。十日。十三日。十五日から。控え。角の幅。線の下に、サナの話。
サナがリアの横に座って、写される字を見ていた。椀を持ったまま、何も言わない。
トーマは少し離れた所で、黙って粥を食べていた。今朝から、トーマはほとんど口をきいていない。
椀を置くと、トーマは一人で白線を歩いた。水際の杭から、角を回って、裏手の戸口まで。幅を見て、角で一度止まって、また歩いた。誰に言われたのでもない。記録にも残らない。毎朝していることを、昼にもう一度しただけだ。
リアが、ふと顔を上げた。俺と目が合った。
俺のほうが、先に目を逸らした。
俺も、誰にも何も言わなかった。
言うことがなかった。記録は並べた。ラートさんは読んで、正確だと言って、変えないと言った。オルドさんは、測っていない危険は止められないと言った。俺が持っているのは、角を見ている二つの目と、楔を入れる手だけだ。
自分にできるのは、角に立たないことだけだ。
昼を過ぎるころには、それはもう、考えではなかった。明日の予定の形をしていた。
*
最後の網が上がったのは、日が傾き始めたころだった。
二十個目の樽が、仮置きの列に置かれる。楔を入れる。
誰も怪我をしなかった。
戸口の机で、リアのペンが動いた。何を書いたのかは、聞かなくても分かった。
帳場の机の前に、臨時雇いが並んだ。精算は毎日ここでする。払うのは、六日目だけだ。係の男が、帳簿を指でたどる。
「十九日。差し引き、四」
帳簿の上の、四。六日目に払われる、四枚だ。
頭の中で、足した。前の三十五枚と合わせて、三十九枚。働かなければ、二日と少し。三日目には、粥も寝床もない。
腹の底が冷えた。この世界に来て、いちばん怖いのはそれだった。食べられないこと。眠る場所がないこと。それで、どこへも行けなくなること。
それでも、明日の六時に、あの角に立つ自分を思い浮かべると、足が勝手に一歩下がる。今朝のように。
「……辞めます」
自分の声が、思っていたより普通に聞こえた。震えもしなかった。明日の天気を言うような声だった。
係の男は顔を上げた。驚いた顔はしなかった。
「辞退か。今日までの分は払う。寝台は、今夜までなら使っていい。十九日の分に入ってるからな」
帳簿の行に、線が一本引かれた。四枚の銅貨が、机の上に置かれた。それで終わりらしかった。
奥の机から、ラートさんが歩いてきた。
「辞めるのかね」
「はい」
ラートさんは少しの間、俺を見ていた。それから、頷いた。
「そうか。臨時だからね。助かった」
引き止められなかった。理由も聞かれなかった。
「明日は、四人ですか」
聞いてから、自分が何を聞いているのか分かった。俺がいなくなったら、角は四人になるのか。
「いや。他班から一人回す。五人のままだ」
ラートさんは、それが当然のことのように言った。
五人のまま。俺が立っていた角には、明日、別の誰かが立つ。
「雨具を」
俺は、畳んで持ってきた雨具を机に置いた。上流の川風を止めてくれた、油の匂いのする布。
「確かに」
ラートさんは受け取って、棚の下に戻した。
「また手が要るときは、声をかける。臨時の口は、いつでもある」
穏やかな声だった。本当に、そう思っているのだろう。俺が辞めても、この人の帳面は少しも困らない。
帳場の階段を下りながら、考えていた。
初めてだった。誰にも預けずに決めたのは。
トーマに、残れと言ってほしかった日があった。オルドさんに、全部渡してしまいそうになった日があった。今日は、誰にも何も聞かなかった。自分で決めて、自分で言った。
それが、逃げることだった。
前の世界でも、そうだった気がする。うまくいかなくなりそうな所からは、うまくいかなくなる前に、いなくなった。いなくなれば、失敗したことにはならない。
俺が辞めても、角は変わらない。誰も救わない。分かっていた。
それでも、取り消しには戻らなかった。
*
階段の下に、トーマとサナがいた。
話は、もう伝わっているらしかった。係の男の声は大きい。
トーマは、俺の顔を見た。
「……そうか」
それだけだった。少しの間があった。トーマは、手に持っていた索を一度握り直した。
「結びは、忘れるな」
そう言って、索を片付けに水際へ歩いていった。振り返らなかった。
手首を二度返す。十回目に、やっと締まった結び。この人に教わった。
十三日、読取所からの帰り道で、トーマは言った。記録が出たら、お前が二人分に数えられる。それが怖かった、と。
今の俺は、二人分でも、一人分でもない。明日から、この荷揚げ場では、ゼロ人分だ。
トーマは、それについて何も言わなかった。言わないでくれたのか、言うことがなかったのか、分からなかった。
サナは、階段の手すりにもたれていた。濡れた袖を、絞りもしないで。
「……いいね、臨時は」
五日前にも、同じ言葉を聞いた。
あのときは、最後の一言だけが小さかった。羨ましさと、何か別のものが混じっていた。
今日のサナの声は、平らだった。羨んでもいなかった。責めてもいなかった。ただ、本当のことを言っている声だった。
臨時は、辞められる。サナは、辞められない。
あの日、俺は、サナの明日の配置は変わらないと思った。今日、俺は、その変わらない明日の中にサナを置いて、出ていく。
何か言おうとした。言葉が見つからなかった。
サナは手すりから体を起こした。二、三歩行きかけて、振り返らずに言った。
「あんたの楔、まっすぐだったよ」
早口だった。いつもの、サナの早口だった。
まっすぐ、根元。十日の朝、サナに教わった入れ方だ。
サナは水際のトーマのほうへ歩いていった。濡れた袖が、夕方の光で少しだけ光った。
*
夜、宿舎の石段に、リアが座っていた。
帳面を開いている。写しは、夕方のうちにラートさんに渡したらしい。膝の上には、一枚の紙と、自分の控え。その間に、結び目の索が挟まっているのが見えた。
俺は、二段下に座った。
「辞めた」
「聞きました」
リアは、帳面から顔を上げなかった。
「写しは、渡しました。ラートさんは、棚に入れました」
事実だけを言う声だった。俺が、辞めた、と言ったのと同じくらい短かった。
運河の水音がした。対岸の倉庫の窓に、灯が二つ残っている。十四日の夜、ここで銅貨を数えたときと、同じ灯だった。
「……ごめん」
リアのペンが止まった。
「謝ることでは、ありません」
リアは、顔を上げた。
「臨時の人は、辞められます」
責める声ではなかった。数を言うときの、はっきりした声だった。
「私は、辞められないので」
少しの間があった。
「ここで、できることをします」
何をするのかは、言わなかった。俺も、聞かなかった。聞けば、俺はまた、その中に自分の順番を入れようとする気がした。
言いかけた言葉が、いくつもあった。
何かあったら。
戻ってくる。
待っていて。
どれも、口の手前で止まった。何かあったら、俺に何ができるのか。戻ってくると言って、戻れるのか。待っていてと言えば、リアの帳面に、俺の予定が一行増える。守れるかどうか分からない一行を、リアに書かせたくなかった。
それが誠実さなのか、ただ逃げているだけなのか、自分でも分からなかった。
リアは、どこへ行くのかを聞かなかった。昨日は、聞いたのに。
「下の船着場のほうで、仕事を探す」
俺のほうから言った。
「……そうですか」
リアは、帳面に目を戻した。
十一日前の夕方を、思い出していた。
仕事の後に街を見ようと誘った俺に、リアは、許可がいります、と答えた。それから、少しだけ間を置いて言った。来るなら、明日の六時です。
来る、と俺は答えた。
次の朝、六時に荷揚げ場に立った。その次の朝も、その次も。
共同寝台に戻って、持ち物を数えた。
銅貨、三十九枚。認証板。目を覚ました日から着ている服。
雨具は、返した。
借りているものは、もう何もなかった。
身軽だった。どこへでも行ける。自由とは、こういうことなのかもしれない、と思いかけた。
そうは、思えなかった。
隣の寝台で、誰かが寝返りを打った。明日も、六時に起きる人たちだ。
明日の六時に、俺は荷揚げ場に立たない。




