EP.15 申立ての記録
四月二十日、六時。ローデル運送商会の荷揚げ場。リアは戸口の机で、朝の人数を数えていた。
トーマ。サナ。他班の二人。
もう一人は、知らない男だった。背が高く、腕が太い。帳場から回されてきた、と監督役が短く言った。男は白線の手前で、楔の束を肩に担ぎ直していた。
五人。
リアは帳面の人数の欄に「五」と書いた。名前の欄に、四つの名前と、「他班より一」と書いた。
ユートの名前は、書かなかった。
書かない、ということを、リアは一度確かめた。昨日まで、この欄のいちばん下にあった名前だ。十一日のあいだ、ほとんど毎朝書いた。字の形を、ペンが覚えている。
それでも、書かなかった。いない人の名前は、人数の欄には入らない。
宿舎を出るとき、共同寝台の戸は開いていた。リアは中を見なかった。見なくても、数は変わらない。
配置表には、監督役の字で「二十日。人数、五。樽、十六。午前」とあった。午後に着く船はない。帳場の壁の予定板で、昨日のうちに確かめてあった。午後は、倉の整理になる。
午前の荷揚げは、何も起きなかった。
知らない男は、角の見張りに立った。十三日と十九日に、ユートが立った場所だ。男は楔の入れ方を知っていた。まっすぐ、根元。サナが教える前に、そうしていた。
十一時過ぎ、最後の樽に楔が入った。リアは書いた。十六。負傷、なし。
昼の粥のあと、リアは帳場の階段の下で、監督役を待った。
言うことは、朝のうちに決めていた。口に出す前に、もう一度、頭の中で並べた。どこへ行くか。誰と行くか。誰に、何を求めないか。
監督役が、椀を持って階段を下りてきた。
「申し立てに行きます。河務局です。サナも一緒です」
監督役は、椀を持ったまま止まった。
「……申し立て」
「午後は、倉の整理です。夕方までに戻ります」
「……ラートさんには」
監督役の目が、帳場の階段の上へ動いた。
「許可は、要らないそうです」
数を言うときの声だった。自分の声がちゃんとその声になっているのを、リアは聞いた。
「戻ったら、自分で言います」
監督役は、何か言おうとした。口が少し開いて、閉じた。止める言葉を探して、見つからなかった顔だった。
「……夕方までに、な」
それだけだった。
リアは帳面を開き、今日の頁の端に書いた。十二時半。二人、離れる。行き先、河務局。
自分が離れたことを、自分で記録する。誰かに、後から別の言葉で書かれる前に。
*
橋の上で、サナの足が遅くなった。
朝、宿舎の石段で誘ったとき、サナは「行く」と答えた。すぐだった。ほとんど考えずに答えたように見えた。
今は、三歩ごとに、少しずつ遅れる。
橋の真ん中で、サナは止まった。欄干に手を置く。濡れた袖から、しずくが一つ落ちた。
十一日の昼、リアはこの欄干の前で、見取図をユートに見せた。窓口が昼休みで、待っている間だった。人に見せたのは、あれが初めてだった。
「……あたし、字、書けないよ」
「知っています」
「書けないのに、何しに行くのさ」
リアは答えなかった。サナは、欄干の下の運河を見ていた。
「言ったら」
語尾が、少しかすれた。
「言ったら、ここ、いられなくなるかもしれない」
サナは、運河を見たまま続けた。
「足を挟まれた人ね。次の月には、配置表にいなかった。どこ行ったのか、誰も言わなかった」
早口ではなかった。一語ずつ、置くような声だった。
リアは、その人の名前を知らない。リアが荷揚げ場の記録を任される前のことだ。
リアは、サナの横に立った。
サナの手を引いて歩き出すことも、行こう、と言うこともできた。そうすれば、サナは、たぶんついてくる。
リアは、そのどちらもしなかった。
帳場の階段で、リアはユートに言った。私のことで、決めないでください。
今、手を引けば、サナの行き先を、リアの順番で決めることになる。
「サナが言いたくないことは、私は書きません」
サナが、リアを見た。
「見たことだけ、見た範囲で。書くのは、窓口の人です。言いたくなければ、言わなくていいです」
「……あんたは、行くんでしょ」
「行きます」
サナは、しばらく黙っていた。それから、欄干から手を離した。濡れた袖を、両手で一度、ぎゅっと絞った。しずくが、橋板に黒い点をいくつも作った。
サナは何も言わずに歩き出した。リアより、半歩前を。
*
窓口には、ミラがいた。
昼休みが明けたばかりで、帳面に何か書いていた。リアの顔を見ると、ペンを置いた。
「申し立てに来ました」
ミラは帳面を閉じた。棚から、いつもの受付の用紙とは違う用紙を一枚出した。
「伺います」
定型の言葉は、それだけだった。
リアは帳面の間から、一枚の紙を出した。十七日に宿舎の石段で書いた、原本だ。写しは、ラートさんの棚にある。
それから、自分の控え。番号は、十七日にミラが台帳と照合した。
最後に、結び目の付いた索。
「これは、測ったものです」
リアは、紙の行を一つずつ指でたどった。
「十日。七人。樽、二十四。十時に、仮置きの場所を角寄りに変更。帳場の指示と、聞きました。引き波で、角で崩れました」
「十三日。点検欄の標準は、七です。配置表は、五。負傷は、ありません」
「十五日から十七日。四人。負傷は、ありません」
「控えの、安全義務の条項です。管理責任者が安全を確かめた場合は、この限りでない。確かめた、の記録は、ないそうです。十九日に、ラートさんに聞きました」
「角の幅。十日の置き場所で、トーマさんが測りました。肩幅ごとの結び目で、一つと、少しです。この索です」
ミラは一行ごとに書き取った。索を手に取り、結び目の間を指で確かめた。
リアは、線の下の行で指を止めた。
「ここから下は、見た人の話です。私が見たのでは、ありません」
ミラが、顔を上げた。
「見た方のお話は、ご本人から伺えますか」
サナの肩が、小さく動いた。
リアは何も言わなかった。サナのほうも見なかった。見れば、見たことが、促すことになる。
長い間があった。
「……角に、荷が寄ってた」
サナの声は、小さかった。
「前に、足を挟まれたとき。……あたしは、そこにいた。十日も。十日は、あたしが、挟まれそうになった」
「どなたが、荷を寄せると決めましたか」
「誰が決めたかは、知らない」
サナはそこで止まった。語尾が、飲み込まれた。
それから、自分で続けた。
「知らないって、書いてください」
ミラのペンは、止まらずに動いた。
「知らない、と書きます」
サナは、ミラの手元の用紙を見ていた。字の並びを見ていた。読めない字の並びを。
「……あたしの名前、どこ」
リアは、用紙の上の一行を指で示した。
「ここです。サナ」
サナは、その行を見た。長いあいだ、見ていた。
ミラは、用紙の端に日付を書き、番号を書いた。
「申立てとして、受け付けます。今日の日付で、河務局の記録に残ります。監察官に回します」
ミラは、同じ番号を書いた小さな紙を二枚作り、一枚ずつ差し出した。
「受付の控えです。申し立てた方への妨害と報復は、禁止されています」
リアは控えを受け取った。サナも受け取った。サナの指は、紙の端を強く挟んでいた。
「確かめるのは、監察官です」
ミラは、それ以上のことは言わなかった。どうなる、とも言わなかった。
リアは、控えを帳面に挟んだ。
許可がいります。十二日前、荷揚げ場で、ユートにそう言った。仕事の後に街を見ようと誘われて、自分の板を読み上げて。
今日は、その言葉を使わずに、ここまで来た。
歩いてきた道は、届け物で何度も歩いた道と同じだった。橋も、窓口も、見取図に描いてある。
同じ道を、今日は、自分の用で歩いた。
*
帰りの橋で、サナは受付の控えを何度も開いた。
読めない字を、読むように見て、また畳む。畳んで、また開く。
「……あたし、言えたね」
「言えました」
サナは、控えを袖の内側にしまった。濡れていないほうの袖に。
しばらく、二人とも黙って歩いた。運河を、下りの荷船が一隻、ゆっくりと過ぎていった。
「ユート、どこ行ったんだろうね」
サナが言った。
「下の船着場のほうです」
「探さないの」
「探しません」
サナは、リアの横顔を見た。何か言いかけて、やめた。
リアは、理由を言わなかった。
言えば、それはユートの行き先の話になる。どこへ行くかは、ユートが決めることだ。
荷揚げ場に戻ると、日はまだ高かった。倉の整理が続いていた。
帳場の階段の上を、リアは一度だけ見上げた。窓に、人の影は見えなかった。戻ったら、自分で言う。そう言ったのは、自分だ。
倉の戸口で、トーマが索を巻いていた。二人を見て、手を止めた。
リアは、トーマの前で立ち止まった。
「トーマさんの測った数を、出しました。河務局に」
トーマは、しばらく黙っていた。巻きかけの索を、手の中で一度握り直した。
「……測ったのは、俺だ」
低い声だった。
「聞かれたら、そう言う」
それだけ言って、トーマはまた索を巻き始めた。サナは何も言わずに、水際へ歩いていった。途中で一度、袖の内側に手を当てた。控えをしまった袖だった。
白線の角で、他班から来た男が、空の樽を転がしていた。
ユートが立っていた場所だった。
男は、角に樽を寄せなかった。白線の内側に、きちんと並べていく。楔を入れる。まっすぐ、根元。
角に立つ人が替わっても、角は変わっていない。一つと、少し。樽が寄れば、また、そうなる。
だから、今日、申し立てた。
リアは戸口の机に戻って、帳面を開いた。
何を書くのかは、もう決めていた。




