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EP.16 外の水

雨の音で、目を覚ました。


屋根の板を、細かい粒がずっと叩いている。


起き上がって、まず銅貨を数えた。


三十八枚。


昨日の朝、三十九枚を持って、ローデルの宿舎を出た。荷揚げ場の前は通らなかった。水路沿いの道を下って、市内の水門の脇を過ぎた。十二日前に目を覚ました草の道が、縄の向こうに見えた。立ち止まらなかった。


水門の下に、船着場があった。上りの船が、水門の順番を待つ所だ。俺は船頭に一人ずつ、仕事はないかと聞いて回った。


三人目の船頭は、鉤竿(かぎざお)を肩に担いだ男だった。竿の先で、岸の杭を指した。


「結べるか」


手首を二度返して、結んだ。船頭は結び目を一度強く引いて、それから俺の顔を見た。


板を出しかけると、船頭は手を振った。


「板は見ねえよ。結びを見る」


半日、麻袋を下ろした。手間賃は十枚。夕方、その場で渡された。船宿の者が帳面に俺の名前を書いた。書かれた字の形を見ていたが、読めなかった。


パン一個、粥一杯、寝台一つ。それで、三十九枚が三十八枚になった。


雨は、夜のうちに降り出していた。


外へ出ると、肩がすぐに濡れた。雨具は、一昨日の夕方に返した。上流の川風を止めてくれた、油の匂いのする布。あれがあれば、と一度だけ思って、やめた。


水門の脇に、杭が一本立っていた。刻みと数字が彫ってある。河務局の水位標だ。上流の船着場にあったのと、同じ形をしている。


杭の前に、板の庇(ひさし)を差しかけた男がしゃがんでいた。刻みを読み、帳面に書く。


見覚えのある背中だった。


十八日、縄の内側で扉の軸に油を差していた男だ。今日は整備だ、近づくな。そう言われた。


「赤まで、六つ」


男は帳面を閉じた。


杭の上のほうに、一つだけ赤く塗った刻みがある。数字の読めない俺にも、それは分かった。


「やっと、いつもの水だ」


いつもの水。六日前、上流の水位標は、刻み三つ足りなかった。遅れ船は浮かず、船頭は、今年は雨が遅い、と言った。


遅れていた雨が、来たのだ。


「おい」


鉤竿の船頭が、船の上から俺を呼んだ。


「水が上がる。今日は、索を見てる手が要る。一日、いるか」


「います」


「よその船の索には、触るな。張ってたら、声をかけろ。それだけだ」


船頭は船べりの物入れから、古い索の切れ端を出して、俺に放った。腕一本ほどの長さで、端がほつれている。


「やるよ。どうせ切れ端だ」


数字は読めない。でも、刻みは数えられる。上流でもそうした。


水が刻み一つ上がったら、この索に結び目を一つ作る。そう決めた。誰に言われたのでもない。


ここでは、誰も俺を数えていない。ローデルなら、今ごろリアが人数の欄に何人と書いているのだろう。考えかけて、やめた。俺は、あの欄にはもういない。


それが楽なのか、何もないのか、まだ分からなかった。


  *


午前のうちに、船着場は船で詰まった。


上りの船が、次々に下から着く。水門の扉は開くが、一艘を通すのに、いつもより時間がかかるらしい。岸の杭が足りなくなって、後から来た船は、先に着いた船の横に付けた。船同士を索で結んで、並べる。上流で、遅れ船に上流便を横付けしたのと同じやり方だ。


俺は岸を歩いて、索を一本ずつ見た。張りすぎていれば、持ち主に声をかける。


三艘目の外側に付いた船が、樽を積んでいた。


樽の荷札が、雨に濡れて黒ずんでいる。形は読めた。丸に、縦の線が二本。


二番倉の札だ。


ローデルの荷揚げ場で、最初の日に、リアに教わった形だった。次の朝、二番倉の樽が二つ足りなくて、俺はこの形で、三番倉の脇に樽を見つけた。


この樽は、あの荷揚げ場へ行く。角の手前の、仮置きの列に並ぶ。楔を入れるのは、俺ではない誰かだ。


その船の索が、短かった。


船べりの金具から岸の杭まで、ぴんと張っている。結び目と金具の間に、余りがない。夜のうちに、急いで結んだのかもしれない。


見ているうちに、船がわずかに持ち上がった。水が上がっている。


ぎし、と索が鳴った。


船べりが、杭のほうへ傾いた。持ち上がる船を、短い索が下へ引いている。積まれた樽の一つが、ごとり、と動いた。


このまま水が上がれば、索が船べりを引き下ろす。樽が滑れば、隣の船にぶつかる。


触るな。声をかけろ。


「すみません!」


船の苫(とま)の下に、人の足が見えた。


「索が、張ってます!」


苫がめくれて、若い男が顔を出した。寝ぼけた目で俺を見て、それから索を見た。


「ゆるめてください。俺が、船べりを押さえます」


振り返ると、鉤竿の船頭が、もう竿をこちらへ差し出していた。


「使え」


竿の先を杭に当て、船べりを押し返す。腕に、船の重さがかかった。若い男が金具の結び目をほどき、索を少しずつ送り出す。傾いていた船べりが、ゆっくりと戻った。


「結び直します」


若い男が索を金具に回した。俺は言った。


「余りを、一握り」


男は一瞬俺を見て、「……ああ」と言った。結び目と金具の間に、握りこぶし一つ分の索を残して、締めた。


船は、索にぶら下がらずに浮いていた。


「助かった」


若い男は、樽を見た。


「ローデル行きだよ。門が詰まってりゃ、向こうも待ちぼうけさ」


それから、空を見上げた。


「こないだまで、水が足りないって話だったのにな」


鉤竿を船頭に返しながら、俺は、上流の船着場を思い出していた。


余りを一握り、残しな。船頭はそう言った。積み替えで船の高さがずれるからだと、俺は思っていた。


十七日の朝、オルドさんは俺の結んだ係留を見て、一握り、水が戻っても足りる、と言った。


あのときは、聞き流した。


水が戻る。今、目の前で、水が船を持ち上げている。


余りは、水のためだった。


結びは、忘れるな。


一昨日の夕方、帳場の階段の下で、トーマはそれだけ言った。


忘れていなかった。手首を二度返す結びも、余りの一握りも。


  *


昼、水門番がまた杭の前にしゃがんだ。


「赤まで、五つ」


朝より、一つ上がった。


俺は索の切れ端の端に、結び目を一つ作った。手首を二度返す。締める。


水門の扉が、重い音を立てて開いた。上りの船が一艘、ゆっくりと中へ入る。扉が閉まるまで、ずいぶんかかった。待っている船の列は、朝より長い。


上流では、水が足りなくて船が遅れた。ここでは、水が多くて遅れる。


同じ、遅れ船だった。


水門番が帳面を閉じて立ち上がったとき、俺は聞いた。


「どこまで上がったら、止めるんですか」


水門番は俺を見た。少し目を細めた。


「十八日に、縄の外にいたな」


「はい」


水門番は、杭の赤い刻みを顎で指した。


「あれを越えたら、通さん」


「止めたら、どうなるんですか」


「待つ。水が下がるまでな。上の船も、下の船もだ」


後ろで、待っている船の船頭が声を上げた。


「止めたって、開けりゃいいだろう。門なんだから」


水門番は振り返らなかった。


「命がかかってなきゃ、開けん。かかってても、監察官の記録がいる」


水門番は、庇の下へ戻っていった。


俺は、水門の脇を見た。


十八日に見た、扉の横の細い足場。そのすぐ下まで、水が来ていた。いつもは乾いている石が、濡れて色を変えている。縄は、まだ張ってあった。


その向こうの草の道も、水に近かった。十三日前、俺はあそこで目を覚ました。十八日には、あそこに座って、どう生きていくのかを考えた。答えは出なかった。


オルドさんは、二十三日の朝、この水門へ来る。上流の点検の日に、リアにそう答えていた。


測るところから、始める。


朝に六つ。昼に五つ。


このまま降れば、二十三日には、赤に近くなる。


たぶん。


雨が止めば、そうはならない。俺は、雨がいつ止むかを知らない。


結ばなかった。


ローデルの荷揚げ場の角は、運河に面している。後ろは運河、前は樽。水が上がれば、水際は近くなる。


たぶん。


見ていない。


結ばなかった。


ラートさんの下りの便も、水門が止まれば、上で待つことになる。止めれば五十人の仕事が止まる、とあの人は言った。


たぶん。これも、結ばない。


結ぶのは、見たものだけ。


そう決めてから、手の中の索を見て、気がついた。


十日の荷崩れのあと、リアは、六時の点検と、十時の変更と、引き波を分けて書いた。原因は、まだ書きません、と言った。十七日、オルドさんはリアの帳面を読んで、測った日が書いてある、それでいい、と言った。


見たことと、聞いたことと、分からないことを、分ける。


俺は、リアのいない所で、リアのしていたことをしていた。


  *


夕方になっても、雨は止まなかった。


「赤まで、四つ」


二つ目の結び目を作った。昼の結び目から、指二本分、間を空けて。これで、どこまでが昼で、どこからが夕方か分かる。


鉤竿の船頭が、手間賃を数えて俺の手に載せた。二十枚。


俺も数えた。


朝、三十八枚あった。パンを二つ食べて、三十四枚。手間賃を足して、五十四枚。今夜の粥と寝台を引いても、四十五枚残る。


三十九枚を持って出てきて、二日たって、四十五枚。減っていない。


ここでは、働けば、その日に増える。誰も俺の名前を人数の欄に書かない。角もない。立つ場所を、毎朝、自分で選べる。


楽だ、と思った。


そう思ってから、その楽さに覚えがあることに気づいた。


十八日、水門脇の草の道で、俺は、いつでも辞められる、と思った。あのときの楽さと、同じ形をしていた。


「明日も来るか」


船頭が、竿を船べりに立てかけながら言った。


「水は、まだ上がる」


すぐには、答えられなかった。


二日前、初めて誰にも預けずに決めたのは、逃げることだった。


今、同じように、誰にも聞かずに決めようとしている。


雨の中で、樽の船が揺れていた。余りを一握り残した索が、たるんだり張ったりしている。丸に二本線の札。あの樽は、水門が通せば、角の手前へ行く。


同じ水が、あの角の前を通って、ここへ来ている。


「明日は、来ません」


声は、二日前の帳場のときより、少しだけかすれた。


「行く所が、あるので」


船頭は、どこへ、とは聞かなかった。


「そうか。索は、持ってけ」


それだけ言って、船頭は船の苫をかけ直しに行った。


戻って、何をするのかは、まだ決めていなかった。


荷揚げ場に立つのか。ラートさんに、また手が要るかと聞くのか。


リアは、ここでできることをします、と言った。あれから二日。リアが何をしたのか、俺は知らない。二日のあいだに、荷揚げ場で何があったのかも。


知らないことを、知っていることにはしない。


助けに行くのでも、何かを約束しに行くのでもなかった。持っていけるのは、結び目が二つの索と、自分の目で見たことだけだ。


  *


船宿の共同寝台は、朝よりも湿っていた。


雨の音が、屋根の板を叩き続けている。隣の寝台から、寝息が聞こえた。


暗がりで、索の切れ端を指でたどった。


一つ目の結び目。指二本分の間。二つ目の結び目。


上流の村でも、索に結び目を作った。十袋で一つ。あれは、リアの帳面と合わせるための数だった。船着場に戻って、二十四、合っています、と言ってもらった。


今日の結び目は、誰とも合わせていない。


明日の六時に、水門番はまた杭の前にしゃがむ。そのとき、俺はここにいない。三つ目の結び目は、たぶん作れない。


二日前の夜、ローデルの共同寝台で、持ち物を数えた。借りているものは、もう何もなかった。


今は、もらった索の切れ端が一本ある。


親指で、二つ目の結び目を押さえた。夕方の分だ。朝の赤まで六つは、結んでいない。覚えている。


雨はまだ、止まない。


水は、上から来ていた。

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