EP.17 聞き直す
暗いうちに、船宿を出た。
雨は、まだ細く降っていた。水門の脇を通るとき、杭の前には誰もいなかった。水門番が読むのは六時だ。赤い刻みは、暗くて見えなかった。
見ていない。だから、今朝の数は知らない。
水路沿いの道を上った。途中でパンを一つ買い、半分だけ食べた。残りは、服の内側に入れた。
二日前、この道を下るとき、荷揚げ場の前は通らなかった。うまくいかなくなる前に、いなくなった。
今日は、同じ道を、逆の向きに歩いている。
戻って何ができるのかは、分からない。それでも、分からないまま逃げるのは、二日前で終わりにする。そう決めて、宿を出た。足は、途中で一度も止まらなかった。
荷揚げ場の前で、初めて足を止めた。
六時だった。
倉の中には、もう作業灯が点いていた。戸口の机に、リアがいた。
俺は、白線の外に立った。雇われていない者が立つのは、ここだと思った。
リアは、朝の人数を数えていた。トーマ。サナ。他班の二人。それから、知らない男が一人。背が高く、腕が太い。ラートさんが言っていた、他班から回した一人だろう。俺の代わりに。
リアのペンが、帳面の上で短く動いた。何と書いたのかは、読めなくても分かった。
五。
それから、リアが顔を上げた。
目が合った。
十九日の昼、俺は先に目を逸らした。今日は、逸らさなかった。
リアは、ペンを置かなかった。
「……来たんですね」
同じ言葉を、前にも聞いた。この世界に来て二日目の朝、約束どおり六時に来た俺に、リアはそう言った。あのときは、確かめるだけの声だった。
今日は、言う前に、少し間があった。
喉の奥が、少し詰まった。雨の中を、ずっと歩いてきたせいだと思った。
「来た」
「雇われては、いない」
リアは、何も言わなかった。
見てきたことを話すのは、後だ。十二日、見てきたもの話そうか、と言った俺に、リアは、自分で見たいので、と答えた。
「話を、聞かせてほしい。リアがいい時に」
リアは、少しの間、帳面を見ていた。
「……昼休みに」
「分かった」
水際で網を受けていたサナが、一度だけこっちを見た。濡れた袖で顎を拭い、角のほうへ顎をしゃくった。角には、背の高い男が立っていた。
「楔、あの人も、まっすぐだよ」
それだけ言って、サナは網に戻った。
責める声でも、迎える声でもなかった。見たことを言う声だった。
二日前の夜、明日の六時に、俺は荷揚げ場に立たない、と思った。
今、六時に、荷揚げ場に立っている。白線の外で。
五には、入っていない。
それでいい、と思った。数に入れてもらうために、来たのではなかった。
下の船着場には、手間賃がその日に出る仕事があった。明日も来るかと聞かれた。それを置いて、ここに来た。誰に言われたのでもない。逃げる先がなくなったからでもない。
自分で選んで、この白線の外に立っている。
*
網が上がり始めた。今日も、樽だった。
俺は白線の外から見ていた。角に、背の高い男が立っている。樽が仮置きの列に置かれるたびに、男は楔を入れた。まっすぐ、根元。
網の合間に、トーマが白線の外へ出てきた。倉の脇へ、楔の束を取りに行く途中だった。
俺の前で、足を止めた。
「……来たか」
「これを、見てほしい」
服の内側から、索の切れ端を出した。
「水門の下で、昨日。上がった分だけ、結んである」
トーマは黙って受け取った。
「結び目一つで、刻み一つ。水位標の、赤い刻みまでの数だ。朝は、赤まで六つだった。朝の分は、結んでない。昼に一つ上がって、一つ。間を空けて、夕方にもう一つ。夕方は、赤まで四つ」
トーマの太い指が、結び目を一つずつ確かめた。一つ目。間。二つ目。
「……一日で、二つか」
トーマは、帳場の壁のほうを見た。新しい紙が一枚、貼ってあった。俺には読めない。
「明日は、水門だ」
「水門」
「水門の下の船着場に、うちの樽の船が止まってる。門の順番を待ってる。明日、そこで揚げて、荷車で倉まで運ぶ。今朝、配置表に出た」
丸に二本線。
「その船、昨日、索が張ってた。余りが、なかった」
「……そうか」
「人数は」
「五人。俺と、サナと、他班の三人だ。記録は、リア」
明日、あの樽を揚げるのは、この五人だ。リアは、その横で数える。
「今朝の数は」
トーマが聞いた。
「見てない。水門番が読む前に、出てきた」
トーマは頷いた。それから、索を俺の手に戻した。
「お前が結んだものだ」
楔の束を肩に担いで、トーマは白線の内側へ戻りかけ、一度だけ振り返った。
「明日、向こうで測る」
それだけだった。
俺は、戻ってきた索を握った。
十七日、オルドさんに、全部渡してしまいそうになった。言えば、楽になると思った。今日、トーマは受け取って、確かめて、返した。
見たものを渡すことと、預けることは、違う。
この索を持っているのは、俺だ。
*
昼休み、宿舎の石段に、リアが座っていた。
膝に粥の椀を載せている。俺は、二段下に座った。十九日の夜と、同じ段だった。服の内側から、朝のパンの残りを出した。
リアは、椀を脇に置いた。帳面の間から、小さな紙を一枚出した。
「二十日に、申し立てました。河務局です。サナと」
パンを持った手が、止まった。
「ミラさんが、受け付けました。監察官に、回すそうです。これは、受付の控えです」
書いてある数字は、読めなかった。
「紙の原本と、控えと、トーマさんの測った索を、出しました。申し立てた人への妨害と報復は、禁止されているそうです」
リアは、帳面を閉じた。
「夕方、ラートさんに、自分で言いました。そうか、と言われました」
二十日。
俺が水路沿いを下って、水門の脇を過ぎて、船着場で麻袋を下ろしていたとき。二人は、橋を渡って、窓口に行っていた。
俺がいなくても、進んでいた。
すごい、と思った。同時に、胸のどこかが冷えた。俺は、要らなかったのか。
そう思ってから、違う、と気づいた。
リアは、初めから、俺の許可も、助けも、求めていなかった。私のことで、決めないでください。帳場の階段で、そう言っていた。
要らなかったのではない。リアのことだった。
足音がして、サナが椀を持ってきた。リアの横に、どさりと座る。
「あたし、言えたよ」
「……そうか」
「知らないって、書いてもらった」
サナは、濡れていないほうの袖から、同じ小さな紙を少しだけ出して見せ、すぐにしまった。
褒める言葉が、いくつか浮かんだ。どれも、俺が言う言葉ではない気がした。だから、言わなかった。
「明日は、どうする」
俺は、リアに聞いた。自分の考えは、言わなかった。
「オルドさんに、言います。巡回の日なので」
数を言うときの、いつもの声だった。
「明日の配置表に、私とサナの名前があります」
サナが、椀の中を見た。
少しの間があった。リアは、指の腹でインクの跡をこすった。
「一つ、頼んでもいいですか」
頼まれるのは、初めてだった。
「朝、トーマさんに見せていた索のことです。中身は、聞いていません」
リアは、俺の手の中の索を見た。
「その索のことは、ユートさんが、ユートさんの口で言ってください。私が見たのでは、ないので」
「分かった」
それから、聞いた。
「ほかには」
「ありません」
リアの答えは、短かった。
守ってほしい、とも、一緒にいてほしい、とも、言われなかった。頼まれたのは、一つだけだった。
それが、リアの決めた、俺の場所だった。
一つだけなら、その一つを、ちゃんとやる。
索を握る手に、力が入った。十九日、帳場の横で、俺は何も言えなかった。ラートさんの理由にうなずきかけて、それきり黙っていた。
明日は、言う。見たものを、見たとおりに。
リアは椀を取り上げかけて、やめた。
「点線の先のことも、決めました」
帳面は開かなかった。見取図も出さなかった。
「自分の用で行けるようになってから、描きます」
自分の用で。リアは、その言葉だけを、少しゆっくり言った。
「決めたので、言いました」
「分かった」
それがいつになるのかは、リアも言わなかった。俺も、聞かなかった。
*
昼休みの終わり、帳場の階段を、ラートさんが下りてきた。
汚れのない外套。穏やかな顔。白線の外に立つ俺を見て、足を止めた。
「戻ったのかね」
「雇われに来たんじゃ、ありません」
「そうか」
ラートさんは、それ以上は聞かなかった。
「リアから聞いたよ。申し立てたそうだね」
怒った声ではなかった。
「それは、あの子の権利だ。監察官が来るなら、見てもらえばいい。記録は、正確なほうがいい」
この人は、嘘を言っていない。十九日も、そうだった。
「明日、水門の下で、樽を揚げるんですか」
「そうだ。うちの樽が、門の前で待っている。下りの便も、門の上で待っている。門が止まれば、樽も、下りの便も動かない。止まる前に、揚げる」
「今朝は、赤まで三つあった」
三つ。
昨日の夕方は、四つだった。夜のうちに、一つ上がったことになる。
聞いた数だ。俺は、見ていない。
「赤まで、いくつなら、やめるんですか」
ラートさんは、少しの間、俺を見た。
「やめる理由がない」
穏やかな声のままだった。
「赤を越えれば、河務局が門を止める。止めるのは、河務局だ。私ではない。止められるまでは、仕事をする。それが、私の仕事だ」
それから、付け足した。
「手は、足りている。五人だ」
また手が要るときは、声をかける。三日前、この人はそう言った。
今は、要らないらしかった。
ラートさんは白線のほうへ歩いていった。背中は、少しも急いでいなかった。
筋は、通っていた。
門を決めるのは、河務局だ。だから、ラートさんは、止められるまで続ける。
オルドさんは、測っていない危険は止められん、と言った。止める人は、測るまで止められない。続ける人は、止められるまで続ける。
その間に、明日の朝がある。
その朝に、俺は、いる。
止める力は、俺にはない。止めろと言える立場でもない。雇われてもいない。それでも、見ることはできる。見たものを、自分の口で言うことはできる。
それだけは、もう誰にも預けない。
*
夕方、水路沿いの道を下った。
ローデルの共同寝台は、もう使えない。
雨は、昼に止んでいた。けれど、運河の水は、朝より高く見えた。
水門の脇で、水門番が杭の前にしゃがんでいた。
「赤まで、二つ」
帳面に書いてから、水門番は空を見上げた。
「雨は止んだがな。水は、上から来る」
俺は杭を見た。赤い刻みが、昨日の夕方より、ずっと近かった。
昨日の夕方、四つ。今、二つ。見た数で、二つ上がった。
夕方の結び目から、指二本分の間を空けて、結び目を二つ作った。
ラートさんに聞いた朝の三つは、結ばなかった。聞いた数だ。覚えておく。
船着場では、鉤竿の船頭が、船の上で苫を直していた。俺を見て、眉を上げた。
「来ないんじゃなかったのか」
「寝に来ました」
船頭は、短く笑った。
「そうか」
船宿の寝台に座って、索を膝に置いた。
結び目は、四つになった。昨日の昼に一つ。夕方に一つ。今日の夕方に二つ。
明日の朝、樽の船の前で、リアとサナが働く。リアは、オルドさんに言う。トーマは、向こうで測る。
俺が頼まれたのは、見たものを、自分の口で言うことだけだ。
怖くないわけではなかった。赤まで二つの水の前に立つのは、角に立つより、たぶん怖い。
十九日、角で、足が一歩下がった。俺は、その一歩を戻せなかった。
明日は、下がらない。
明日の六時、俺は、この杭の前に立つ。




