EP.18 警告と強行
六時。
水門番が、杭の前にしゃがんだ。
俺は、その後ろに立っていた。夜のうちに冷えた石が、靴の底から足の裏へ、冷たさを上げてくる。運河の水は、茶色く濁っていた。泥と、濡れた木の匂いがした。
「赤まで、一つ」
水門番は帳面に書いてから、杭を見上げた。
赤い刻みは、もう手を伸ばせば届きそうな所にあった。
昨日の夕方は、二つ。夜のうちに、一つ上がった。
見た。だから、結ぶ。
霧が、水面の少し上に溜まっていた。順番を待つ船が、その中に黒く並んでいる。鉤竿の船頭の船も、まだそこにあった。苫の端から、煙が一筋上がっていた。
索の切れ端に、結び目を一つ作った。手首を二度返す。指がかじかんで、一度しくじった。二度目で締まった。
五つ。
二十一日の朝は、ここに何もなかった。二日で、五つ。雨は昨日の昼に止んだのに、水は止まっていなかった。
「今日も、通すんですか」
「通す。越えるまではな」
水門番は、それだけ言って庇の下へ戻った。
六時半、水路沿いの道を、荷車が二台下りてきた。
トーマ。サナ。他班の二人。背の高い男。最後に、リア。板を胸に抱えている。今日の配置表と、点検欄の紙を挟んだ板だ。
リアと目が合った。リアは小さく頷いた。俺も頷いた。言葉は、要らなかった。
あの板の配置表には、リアとサナの名前がある。昨日、リアがそう言った。字は読めなくても、そこに二人がいることは分かっていた。
怖かった。水の音が、昨日より近い。
俺は、船着場の端の石の上に立った。ラートさんの配置の中には、入らない。雇われていない。
けれど、ここから下がらない。そう決めて、来た。
*
樽の船は、門の脇の岸壁に回されていた。
船着場は、順番を待つ船で埋まっている。空いているのは、門のすぐ下だけだった。
岸壁の上に、細い足場が一本。船着場の端から、門の脇まで続いている。十八日、縄の向こうに見た足場だ。
途中に一か所、一段低い所がある。板の継ぎ目だ。
戻る道は、その一本だけだった。
七時。
トーマが一人で足場を歩いた。継ぎ目で止まり、膝をついた。濡れた板に、厚い手を平らに置く。手の甲から水面まで、指を折って測る。
「……一握り」
低い声だった。
二十一日、樽の船の索に残した余りと、同じ幅だった。あのときは、水のための余りだった。今、同じ幅しか、人の足の下に残っていない。
そのとき、門の奥で、どん、と重い音がした。
水を落とす音だ。下の船を出すために、門の中の水を抜いている。
足場に沿って、波が来た。白い縁を立てて、岸壁を舐めながら。
波は継ぎ目を越えた。トーマの安全靴を、足首まで洗った。
それから、引いた。
継ぎ目の板が、濡れて黒く光っていた。トーマは、膝をついたまま動かなかった。
しばらくして、トーマは立ち上がり、足場を戻ってきた。靴から水が滴っていた。
「索を見せろ」
俺に言った。
俺は、索の切れ端を出した。
「二十一日の朝、赤まで六つだった。今朝、一つ。二日で、五つ上がった」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「雨は、昨日の昼に止んだ。でも、夜のうちにも一つ上がった。聞いた数は、入れてない。見た数だけだ」
トーマは結び目を見て、それから門を見た。
「波が来るたびに、越える。水は、まだ上がる」
一つずつ、確かめるように言った。
「昼までに、ここは沈む。沈めば、奥は、戻る道がない」
足場の脇に、渡し板が一枚立てかけてあった。トーマはそれを手に取りかけた。継ぎ目に渡せば、今はしのげる。
トーマの手が、板の上で止まった。
板を置いた。
トーマはリアのところへ行った。
「点検欄を」
リアが板から紙を出した。トーマは、しゃがんで膝の上で書いた。一行ずつ、ゆっくりと。最後に、自分の名前を書いた。
字は読めない。けれど、トーマの手が、名前のところで一度強く押しつけられたのは見えた。
俺の結び目が、トーマの書いた字の中に入った。
預けたのではない。見たものを、俺が、俺の口で言った。
*
七時半、ラートさんが来た。
汚れのない外套。穏やかな顔。水路沿いの道を、急がずに下りてくる。
トーマが、その前に立った。
「ラートさん。足場の低い所は、水まで一握りだ。奥から、戻れなくなる」
ラートさんは、足場を見た。
「一握り、あるんだね」
「今は、一握りだ」
ラートさんは、自分で足場を歩いた。継ぎ目の手前で止まり、覗き込む。外套の裾が、板の上の水を吸って色を変えた。
どん、と門が鳴った。
波が来た。継ぎ目を越え、ラートさんの靴の先を濡らした。
ラートさんは、一歩下がった。波が引くのを待って、また見た。
「私も見た」
穏やかな声だった。
「一握りある。足りる。波が来るときは、手を止めさせろ。引けば、また歩ける」
はっきりした声だった。見えている人の声だった。
けれど、俺の目に見えていたのは、引いたあとの板だった。さっきより、黒く濡れた所が広い。
「奥から、戻れなくなる」
トーマが、二度目を言った。
「水は、まだ上がる。こいつが見た。二日で、五つだ」
ラートさんは、俺を一度だけ見た。
「雇っていない者の数だ」
それから、門の脇の杭を見た。
「赤まで、一つある。門は、動いている。止めるのは、河務局だ」
トーマは、点検欄の紙を差し出した。
ラートさんは、受け取った。上から下まで、読んだ。最後の名前のところで、目が止まった。
リアが、それを見ていた。
「奥から、戻れなくなる」
三度目だった。
トーマの声は、大きくなかった。一度目と、同じ声だった。
「……足りない。今日は、そう言う」
十九日、帳場の横で、トーマは言った。五人で足りるとは、言っていない。ラートさんは答えた。足りないとも、言わなかった。
今、トーマは言った。
ラートさんは、紙をトーマに返した。
「昼までに揚げる。門が止まれば、樽も、下りの便も動かない。五十人の仕事だ」
少しの間があった。
「配置は、変えない。奥は三人。そのまま続けろ」
穏やかな声のままだった。濡れた外套の裾から、水が一滴、板に落ちた。
リアのペンが動いた。止まらずに、動いた。時刻。トーマの言葉。紙に書かれたこと。ラートさんが読んだこと。ラートさんの言葉。読めなくても、行の数で分かった。
奥で、サナが樽を受ける手を一度止めた。こっちを見た。
それから、また手を動かした。
言い返したかった。口の中まで、言葉が来ていた。
けれど、俺が言える数は、もうトーマが使った。雇われていない者の声は、ここでは、ただの声だ。
ラートさんは、嘘をついていない。見たと言った。足りると言った。
見ることと、確かめることは、違う。
止める力を持つ人は、もうすぐ来る。そのときに、見たものを言う。
それまで、俺はここから一歩も動かない。
*
樽は、揚がり続けた。
奥の三人が船から受け、足場を運び、継ぎ目を渡って、手前の荷車へ。ごとん、ごとん、と樽が板を鳴らす。
門が鳴るたびに、三人は足を止めた。波が継ぎ目を越え、引く。また歩く。
引くのが、少しずつ遅くなった。
俺は、それを数えた。
門が鳴る。波が来る。継ぎ目が消える。一つ、二つ、三つ。板が、また見える。
次は、四つ数えても見えなかった。五つで、見えた。
十九日、角の見張りをしながら、俺は樽を数えた。一つ置かれるたびに、足りた、が一つ増えた。
今、数えているのは、その反対だった。
サナが、樽を抱えて継ぎ目を渡った。水が足首を越えた。サナは、歩幅を変えなかった。まっすぐ、根元。楔を入れるときと同じように、足を置く場所を一つずつ選んでいた。後ろから、背の高い男が、サナの肩に一度だけ手を添えた。
手前で、トーマが樽を受けた。受けながら、目は継ぎ目から離れなかった。
足元を見た。六時に俺が立っていた石が、今は濡れて色を変えていた。
九時を過ぎたころ、水門の上の道を、一人の男が歩いてきた。
雨具の上に、札。片目の下の、古い傷。
オルドさんは、杭の前にしゃがんだ。測り竿を水に入れ、目盛りを読む。結論より先に、測る人だ。
リアが、帳面を閉じた。
板を胸に抱えて、ラートさんの前に立った。
「オルドさんが、来ました。申し立てに行きます」
ラートさんは、リアを見た。何か言おうとして、言わなかった。
「……行きなさい」
リアは歩き出した。俺は、その少し後ろを歩いた。口は出さない。呼ばれたら、自分の口で言う。
オルドさんが、立ち上がった。
リアは、その前で止まった。数を言うときの声だった。
「ローデル運送商会の、リアです。申し立てます。今、ここで」
オルドさんは、リアを見た。それから、リアの抱えた板を見た。
「言え」
リアは、配置表と点検欄の紙を出した。
「七時過ぎ。トーマさんが、書きました」
俺は、リアの後ろで、索を握っていた。
結び目が、手のひらに五つ当たっていた。冷たく、硬かった。
*
門の奥で、どん、と鳴った。
いつもより、重い音だった。
波が来た。
継ぎ目を越えた。
引かなかった。
白い縁が、継ぎ目の上で揺れている。波は少しだけ下がって、そこで止まった。板は、見えないままだった。
継ぎ目が、水の下に沈んでいた。
奥で、三人が止まった。
サナが、抱えていた樽を足場に下ろした。ゆっくりと。落とさないように。
俺は、走った。
船着場の端まで。水際まで。靴の先が、冷たい水に浸かった。
下がらなかった。
奥を、数えた。
赤いスカーフ。サナ。
背の高い男。
他班の一人。
「奥に、三人!」
声は、自分で思ったより大きく出た。
後ろで、オルドさんが顔を上げたのが分かった。
継ぎ目の向こうで、サナが水を見ていた。それから、こっちを見た。遠くて、顔は見えない。赤いスカーフだけが、はっきり見えた。
背の高い男が、樽の船の船べりに手をかけた。船は、水に持ち上げられて、岸壁より高くなっていた。索が、きしんでいた。結び目と金具の間に、余りが見えた。一握りか、それより少ないか。ここからは、分からなかった。
手前では、トーマが継ぎ目の際に立っていた。水は、トーマの脛まで来ていた。トーマは、渡し板を見なかった。水を見ていた。
リアのペンは、止まっていた。
ラートさんは、何も言わなかった。
泥の匂いが、急に強くなった気がした。水の音が、耳のすぐそばで鳴っている。冷たさが、靴の中へ入ってくる。
継ぎ目を越えて、向こうへ行く方法を、俺は知らない。行っても、三人が四人になるだけかもしれない。
分かっているのは、数だ。
奥に、三人。水は、まだ上がっている。
十九日、角で、足が一歩下がった。俺は、その一歩を戻せなかった。
今、俺の足は、水の中にあった。




