EP.19 確かめる人
俺の声が、水の上を渡っていった。
奥の三人が、こっちを見た。
オルドさんが、水際へ来た。俺の横に立つ。雨具の裾から、水が垂れていた。
オルドさんは、すぐには何も言わなかった。奥を見ていた。目だけが、左から右へ、ゆっくり動いた。
「……三人」
低い声だった。数えたのだと分かった。俺が言った数を、自分の目で数え直したのだ。
オルドさんは、測り竿を持ち直した。水の中へ一歩踏み出し、竿の先を、沈んだ継ぎ目の上に立てる。流れが竿に当たって、小さく割れた。
目盛りを読む。
「……脛の上」
七時には、継ぎ目の上に一握りあった。トーマが、濡れた板に手を平らに置いて測った。今は、脛の上まで水がある。
オルドさんは、竿を抜かずに振り返った。
「水門番」
門の脇の台で、水門番が輪に両手をかけていた。
「次は、落とすな」
「中に、上りが一艘いる」
「中で待たせろ。俺が言うまで、落とすな」
水門番の手が、輪から離れた。
門の奥で鳴っていた、低い唸りが止んだ。
波が、来なかった。
継ぎ目の上の水が、揺れるのをやめて、ゆっくり平らになっていく。白い縁が消えて、茶色い面だけが残った。
静かになると、別の音が聞こえた。樽の船の索がきしむ音。どこかで荷車の輪が石をこする音。
それから、自分の息の音。
門の上から、人の顔が一つ覗いた。門の中で待たされた上りの船の船頭だ。「まだか」と怒鳴りかけて、岸壁を見て、口を閉じた。順番を待つ船の列でも、何人かが立ち上がってこっちを見ていた。鉤竿の船頭の姿も、その中にあった。
靴の中の水が、もう冷たいのかどうかも分からなかった。足の指の感覚が、遠い。
奥で、サナが片手を上げた。
声は届かない。けれど、無事だという合図だと分かった。赤いスカーフが、霧の残りの中で小さく揺れた。背の高い男は、樽の船の船べりに手をかけたまま動かない。他班の一人は、足場の上にしゃがんでいた。
見て、測って、止めた。
さっき、ラートさんも、同じ継ぎ目を見た。見て、足りると言った。
同じ水の前で、していることが違った。
*
オルドさんは、リアのところへ戻った。
「続けろ」
リアは、板から配置表と点検欄の紙を出し、帳面を開いた。指で、行を一つずつ示す。
「七時過ぎ。トーマさんが、書きました。七時半、ラートさんが、読みました。ラートさんの言葉は、ここです」
オルドさんは点検欄を受け取り、上から下へ読んだ。最後の行で、目が止まった。トーマの名前だ。
「二十日の申立ては、受け取っている」
リアの指が、帳面の上で止まった。
「窓口から、回ってきた。今日、見るつもりだった」
リアは、親指でインクの跡を一度こすった。何も言わなかった。
二十日。俺が下の船着場で麻袋を下ろしていた日だ。あの日、リアとサナが橋を渡って届けた紙が、この人の手まで来ていた。
「そこで、待て」
オルドさんはリアを少し離れた所に立たせ、トーマを呼んだ。
トーマが、水から上がってきた。脛から下が、濡れて色を変えていた。
「測ったのは、誰だ」
トーマは、一度だけ継ぎ目のほうを見た。
「……測ったのは、俺だ」
「何を測った」
「継ぎ目。七時に、一握り。放水で、越えた。昼までに沈むと、書いた」
「分かった」
それだけだった。トーマは、継ぎ目の際へ戻っていった。
オルドさんが、俺を見た。
「お前は、何を見た」
リアに頼まれた一つだ。
俺は索の切れ端を出した。指が、まだかじかんでいた。
「水門の水位標を、見ました。水が刻み一つ上がるたびに、結び目を一つ作りました。二十一日の朝は、赤まで六つ。結んでいません。昼に五つで、一つ。夕方に四つで、一つ。二十二日の夕方に二つで、二つ。今朝、一つで、一つ」
「日付がない」
「書けません。間が、日と時刻です。昼と夕方の間を空けて、日が変わるところで、また空けました」
オルドさんは、水門番を呼んだ。
「帳面を」
水門番が、濡れないように懐に入れていた帳面を出した。オルドさんは、濡れた指で頁をめくった。
「二十一日。朝、六。昼、五。夕、四」
オルドさんの指が、俺の索の上を動いた。一つ目。間。二つ目。
「二十二日。朝、三」
「朝は、見ていません。ラートさんから、聞きました。だから、結んでいません」
「夕、二」
間。三つ目と、四つ目。
「今朝、一」
五つ目。
オルドさんは、帳面と索を並べたまま、しばらく黙っていた。
「……合っている」
胸の奥で、何かがほどけた。誇らしいのとは違った。結んでよかった、と思った。
一人で、雨の中で結んだ。誰に言われたのでもない。それが、河務局の帳面と、同じ数だった。
「昼までに沈むと、思ったか」
「それは、トーマが言いました。俺が言えるのは、見た数だけです」
オルドさんは、索を俺の手に戻した。
「それでいい」
索を握った。結び目が、手のひらに五つ当たった。
けれど、数が合っても、水は一つも下がらない。
奥には、まだ三人いる。
*
オルドさんは、ラートさんの前に立った。
同じ岸壁の上だった。声は、俺のところまで聞こえた。
「配置を決めたのは」
「私だ」
「警告は」
「読んだ」
「確かめた、と言ったそうだな」
「一握りあった。私も、見た」
オルドさんは、継ぎ目を顎で指した。
「今は」
ラートさんは、答えなかった。
継ぎ目の上に、平らな茶色い水がある。一握りは、もうどこにもなかった。外套の裾が、重く濡れて垂れていた。
ラートさんは、水を見ていた。長いあいだ見ていた。口の端が、一度だけ動いた。何かを数えるときの動きに見えた。
ラートさんは、奥のほうへ体を向けた。両手を口の横に当てる。
「樽を置いて、戻れ……」
奥で、他班の一人が立ち上がった。サナが、継ぎ目のほうへ一歩踏み出した。
「渡らせるな」
オルドさんの声だった。大きくはない。けれど、水の上をまっすぐ渡った。
トーマが、継ぎ目の際で両腕を広げた。
「動くな!」
サナの足が、止まった。水の手前で。
踏み出した足の先が、水に浸かっていた。サナはそれを、ゆっくり引いた。他班の一人が、しゃがみ直した。背の高い男が、サナの袖をつかんでいた。
オルドさんは、ラートさんを見た。
「今、渡らせたら、それも配置だ」
ラートさんの手が、口の横から下りた。
ラートさんは、三人を戻したかったのだと思う。悪い人の声ではなかった。十三日、この人はトーマの靴の修理代を気にしていた。働く人のことを、この人なりに考えている。
それに、俺も、同じことを言いかけていた。水際に立ったとき、戻ってこい、と叫びかけた。喉の奥まで、その言葉が来ていた。
それでも、今の「戻れ」は、脛の上の水を渡らせる命令だった。
善い気持ちで出した命令でも、水は、同じだけ深い。
*
オルドさんは、岸壁の真ん中に立った。
荷車の脇にいた他班の一人が、抱えていた樽を下ろした。トーマが、継ぎ目の際で振り返った。リアが、板を胸に抱え直した。
全員に聞こえる声だった。
「九時半。継ぎ目、脛の上。放水の時に、越水。点検欄に、七時過ぎの危険の記載。管理責任者は、読んだうえで、配置を続けた」
測った数を、先に言った。それから、言った。
「ローデル運送商会の、この岸壁での作業を止める。今から、この足場に、人をやるな。門は、俺が言うまで、水を落とさない」
少しの間があった。
「申立てを、受けた。今日の日付だ」
オルドさんは、ラートさんのほうを見なかった。
「確かめたのは、俺だ」
確かめた。十七日、リアが帳場で読み上げた控えの一行を思い出した。管理責任者が安全を確かめた場合は、この限りでない。
同じ言葉が、今、別の人の口から出た。測って、記録を読んで、一人ずつ聞いてから。
ラートさんは、黙っていた。止めもしなかった。何か言い返すこともなかった。
「就役の者は」
オルドさんが、リアに聞いた。
「私と、サナです」
「ほかの二人は」
「分かりません。他班の人です」
リアは、分からないことを、分からないと言った。
「分からん、と書く」
オルドさんは、自分の帳面に書いた。立ったまま、濡れた紙の上に。インクが少しにじんでも、手は止まらなかった。
「二人は、仮保護にかける。就役の配置は、今日から止まる」
リアは、ペンを持った手を下ろした。帳面は、閉じなかった。
止める力を持つ人が来て、止めた。
それを、待っていた。さっき、ラートさんの前で、そう決めた。止める人に、見たものを言う。言った。
待っていたのに、胸のどこかが、少しも軽くならなかった。
止まったのは、人のほうだけだ。
*
水門番が、杭の前にしゃがんだ。
「赤まで、半分」
六時には、一つだった。
オルドさんが、杭を見た。
「止めたのは、人だ。水は、止まらん」
奥で、サナがもう一度、片手を上げた。さっきより、少しだけ低く。
樽の船の索が、きしんだ。背の高い男の手は、船べりから離れなかった。
足元を見た。水は、靴の先ではなく、足首に来ていた。俺は、一歩も動いていない。水のほうが、来たのだ。
霧が晴れて、日が水面に差した。茶色い水が、少しだけ明るく見えた。明るく見えても、深さは変わらない。
俺は、索の切れ端を握っていた。
持っているものを、数えた。
手首を二度返す結び。余りの一握り。十日に、トーマへ声で伝えた、見えない所の場所。見た数を、見たとおりに言うこと。
それで足りるのかは、分からない。
止める力と、渡す力は、別だ。オルドさんは、止めた。けれど、三人をこちらへ渡す道は、まだどこにもない。
渡り方を知らないまま俺が水に入れば、三人が四人になる。
一人では、渡らない。
けれど、この水からは、目を離さない。渡る方法を知っている人が動くとき、俺にできることが一つでもあるなら、そのときに、ここにいる。
オルドさんが、水門番のほうを向いた。
「水を渡らずに、奥から出られる所は」
水門番は、門の脇の台を見上げた。
「台の柵の扉を開ければ、奥は、上の道へ出られる」
台を見た。十八日、縄の向こうに見た台だ。門を動かす大きな輪が付いている。その周りが、腰の高さの柵で囲われている。奥の足場は、その柵のすぐ脇で終わっていた。
柵には、扉が一つある。扉の外は、水門の上の道だ。オルドさんが、今朝歩いてきた道。
水を渡らなくても、柵の内側を抜ければ、奥の三人は道へ出られる。
胸の奥で、何かが少しだけ軽くなった。
渡る方法を知らない、と、さっき思った。渡らなくていい道が、あったのだ。
「見てこい」
オルドさんは、それから岸壁のほうへ向き直った。
「救助を、先にする。記録は、その間に預かる」
水門番は、上の道へ回っていった。濡れた石段を、一段ずつ確かめるように。
道は、あった。開くかどうかは、まだ分からない。
奥を、数え直した。
三人。




